マイケル・デイヴィース著
ある司教様への公開授業: ローマ典礼の発達について

転載元

ある司教様への公開授業:
ローマ典礼の発達について

AN OPEN LESSON TO A BISHOP :
On the Development of the Roman Rite

マイケル・デイヴィース著

ゲルトルーディス細井 訳
成相明人 監修

目次

第一部 現代の司教
第二部 伝統主義者を攻撃する司教
第三部 ローマ典礼の発達
第四部 1570年以降のローマ典礼の発達

著者による導入

この小冊子の主要目的は、ローマ典礼の発達についての簡単な歴史をお伝えすることです。私の知る限り、この話題に関して、本書より短い書物は現在、英語では存在しません。

読者は、私自身の他の本や小冊子への、数多くの参照に気付くことでしょう。これは、私が利己的な振る舞いをしていると米国では思われているようですが、そうだからではなく、参照される各々の研究は、他では簡単に入手できない情報が含まれているからなのです。私の執筆目的は、長期にわたる調査のための、時間と設備を持たない読者のために、他では不可能であろう情報を、便利な方法で提供することにあります。

私は可能な限り、私の他の本や小冊子に既に含まれている内容と重複しないよう努めましたが、本書を可能な限り自己完結したものとするために、以前の研究のエッセンスも少し入れました。司教様にとって本書がためになると中には書かれていますが、私は司教様だけでなく、これを読むだれもが、本物と偽物の典礼発達を区別できるようになることを希望しています。

マイケル・デイヴィース

第一部 現代の司教 批判的見解

1979年4月、私の書籍 The Order of Melchisedech(メルキセデクの品級)が刊行されました。その第三章の標題は New Ideas and Old Mistakes(新しい思想と古い誤り)で、広く素晴らしいと思われているハンス・キュングの「神学」を分析しましたが、それは非常に陳腐なプロテスタントの異端の列挙でしかないことを示しています。私は、彼がカトリック教義の公認教師としてまだ働いているなど、とんでもないことであると主張し、「司祭職の存在を否定し、カトリック信仰の合理的解釈を装い、時代遅れのプロテスタントの異端を提供する、この神父から信仰を守るために、何の手段も講じられなかった」と主張しました。これは疑いもなく、同年12月にキュング博士はカトリック神学の公認教授の資格を剥奪され、私は勇気付けられました。ハンス・キュングの本は英語圏で非常に多くの発行部数を誇り、特に神学生に人気があります。しかし、彼の異端はとても明白であり、私の様な一般信徒にもそれを難無く見分けられたにもかかわらず、彼らの司教によって公に出されたキュングの間違いに対する、警告を思い出すことが出来る読者が、あるとしてもごくわずかしかいないと私は確信しています。何人かはそうしたかもしれないし、また私は、彼の異端の教えを全く遺憾に思っている何名かの司教も確かに知っています。悲しいかな、このような司教は数少なく、彼らは英雄的な例外でしかありません。第二バチカン公会議以後、教会がそうだった沈滞の最も目立つ特徴は、カトリック教義の完全性に対する、非常に多くの司教たちの明らかな無関心です。彼らにはカトリック教義を守り、説教し、後継者に減少することも変化させることもなく伝える義務があるというのにです。ハンス・キュングには、司教たちが異端に毒されることがないというルールが当てはまりません。異端に関する米国聖公会の免責ルールも当てはまらないです。多数の小型キュングは英語圏全域、特にカテキストの上層部で急増しました。私たちが学校を設立したのは信仰のためでしたが、その教育を通して、カトリックの子供たちの世代全てから、カトリック教義が奪われたのです。彼らは信仰が何であるか教わらなかったのですから、この時代に信仰からの逸脱がこれ程多くあることは驚くに値しません。これについては最後の審判の日に、多くの司教たちが答えなければなりません。

異端に対する司教たちの無関心は、物議を醸す問題に対して公的に中立的態度を取っておられることを指し示している、と捉えるべきではありません。これはそれ自体からして本質的にとても悪いことですが、真の状態は更に悪いのです。何名かの司教たちは正々堂々と発言する準備をしていますが、それは伝統的信仰を擁護する発言や行動を行なう、彼らの信徒たちをただ叱責するためだけです。この神学的な意味から言えば不祥事の嘆かわしい状態は、第二次世界大戦以来、英語圏ではおそらく最も勇敢で博学な、皆から尊敬されている平信徒のディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント(訳者注:ドイツのカトリック哲学者、教皇ピオ12世は彼を「20世紀最大の教会博士」と称した)によって上手に述べられていました。ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント博士は教皇庁への忠誠においては人後に落ちず、フマネ・ヴィテを擁護する教皇の騎士でしたが、信仰が危険にさらされた時に黙っていることは人間としての尊厳が許しませんでした。彼は彼の本 The Devastated Vineyard(荒廃した葡萄園)の中で以下のように書いています。

今日の教会で、最も恐ろしく広く蔓延した病の一つは、教会の信仰の保護者たちの無気力さです。私はここで、教会の内側から破壊する、またはそれを全く異なるものに変えてしまおうと望んでいる「第五列」の構成員である司教たちのことを考えているのではありません。私はもっとはるかに多数の司教たち、即ちそのような意図はまったく無く、しかし異端の神学者や司祭に対して、また教会の礼拝における冒涜的な行為に対して、教会権威が介入してきても活用しない方々のことを考えているのです。しかし、もっとも特に激怒するのは、ある司教方が自ら、異端に対してこのような昏睡状態を見せるときや、正統性のために戦っている信者や、また司教が本来はしなければならないことを行なっている信者に対して、厳格に権威主義的振る舞いをなさるときです!司祭や平信徒からなる異端者たちのたわ言なら我慢できるが、司教たちは信者が毒殺されるのをそれとなく黙認しています。それどころか、彼らは正しいことがらのために戦う忠実な信者たちや、全ての正しさによって、司教の心の喜び、安らぎ、自分たちの無気力を克服する力の源となるべき、正にそういう人々を、沈黙させたがるのです。その代りに、彼らは平和を乱す人々とみなされるのです。1

フォン・ヒルデブラント教授はまた、典礼の複数共存を許容する司教は、規律事項への従順を要求する権利を失うという意見も表明しています。

全ての規律の権限や、司教への全ての従順は、聖なる教会の純粋な教えに司教が従っていることを前提としています。司教への従順は、聖なる教会の教えに対する、完全な信頼に基づいています。教会権威が、信仰に関して多元論化するとき、規律命令への従順を要求する権利は失われます。2

私は、以上の言葉を読まれた司教様がどなたであれ、それを注意深く熟考するよう提案したいと思います。これほどにも偉大な哲学者で神学者の主張は安易に退けられてはなりません。私は、すぐに司祭を罰したり、依然としてトリエント・ミサに忠実な信者を罰する司教方は、自分自身のカテキスト・センターや、大学付きのチャプレンたち、神学校をまずは注意深く見るように示唆いたします。フォン・ヒルデブラント教授は、司教たちは概して、正統性への挑戦より、自分自身の権威への挑戦の方が、はるかに重大であるとみなす、と記しています。「しかし、異端によって具体化する神への侮辱は、しばしば彼らにとっては感知できないものであり、また彼らの権威に対する反逆の公的な行動として受け止めて、苛立たつこともありません」3

正統性を守ろうと望む信者が直面する困難の中で、主要なものの一つは、自分たちを擁護する際の基礎となる、事実の情報を得ることが困難であるということです。英国の Catholic Truth Society(カトリック真理協会)や、Catholic Information Office(カトリック情報オフィス)のような組織は、完全に虚偽である声明を発し、必要な修正も拒みます。英国、カナダ、米国において、手の上への御聖体の押し付けは、suppressio veri(真実の隠蔽)や、時としてまったくの虚偽を含んで、大量の宣伝にともなって起こりました。これを疑う方はどなたでも、私の小冊子 Communion in theHand and Similar Frauds(手の中への御聖体と同様の詐欺)をどうぞお読み下さい。私の全執筆の主要目的は、おそらくは他では入手できない情報を、信者に提供することでした。

悲しいかな、信者に提供される誤りの情報は、第二バチカン公会議後の教会の官僚制度によるのみならず、時には個々の司教自身によるのです。今、私はある司教が、教会の聖所の破壊や、聖櫃を主祭壇から除去することに対して提案した教区司祭たちに宛てた手紙を手許に持っています。司教は彼らに、これは聖なる典礼憲章に書かれてある「聖櫃は教会の中央や中心部分とは異なる、聖堂の場所に置かれることが薦められる」という内容に合致するためであると断言しました。これは完全な虚偽です。違うのです、そのような薦めは憲章のどこにも見当たりません。更には、典礼憲章が発布されて2年後の1965年に、教皇パウロ6世は御聖体について、彼の回勅 Mysterium Fidei(信仰の神秘)を出されました。この文書はいわゆる教皇法令であり、それには即ち権威があり、教皇の個人的な教えで、教皇が単に彼の承認を与えるだけのバチカン省庁の文書に先行して出されたものです。このような承認は、教皇が文書を読んだことを、必ずしも意味してはいません。Mysterium Fidei(信仰の神秘)は「典礼法には、聖なる御聖体は教会内で、偉大な敬意をもって、最も目立つ位置に保存されると規定している」と主張しています。明らかに、御聖櫃を高い祭壇から除去することが、この回勅 * の教えに従っているとは言えません。

* 御聖体が名誉ある位置から降格されるべきであるという勧めは、Mysterium Fidei(信仰の神秘)に続く公会議後の教会の官僚たちによってなされましたが、これらの勧めは教皇の本布告の教えとは矛盾し、第二バチカン公会議のいかなる文書にもその正当性を見付けることはできません。この問題は、私の本 Pope Paul’s New Mass(パウロ6世の新しいミサ)の中で非常に詳しく扱われています。

私は、この手紙を書いた司教が信者を故意に誤った方向に導こうとしたのではないと、確信しています。彼はほとんど確かに、典礼憲章が述べていると彼が主張した通りに、それが述べたものと想像していました。彼はこのように、無知から言ったのです。不幸なことに、信者のほとんどは、彼らの司教が、信仰の全ての分野において非常に博識であると想像しがちで、このような声明に対して疑問をいだきません。この特定の司教の無知が、特殊な例外という訳では無くて、それが普通なのです。ある英語圏の司教は最近、彼が信じ込んでいたことは、トリエント・ミサ擁護との戦いの事柄に関する無知であったという内容を暴露する、明白な目的をもって、カトリック雑誌に記事を書きました。トリエント・ミサ擁護と戦わないようにするには、悲しいかな典礼の歴史に関する司教様御自身の知識はあまりにも不足していたことを本記事は示しています。彼の記事は、第二バチカン公会議主義の教会の広報担当者から、私たちが期待できる、情報の種類を典型化しているので、かなり詳細に調べる価値があります。この小冊子が特定の司教への個人攻撃のつもりであるとの意見を除外するために、記事の執筆者を明かすことは控えます。彼はまた、現代の階級組織の典型的な一員に過ぎず、“A Bishop” 短縮すれば AB として適切に引用することにしましょう。

第二部 伝統主義者を攻撃する司教

AB は伝統主義者の地位を、架空の議論の詭弁を用いて批判し始めます。彼は反対者の地位をあらわす戯画を提供し、そしてそれを破壊し始めるのです。

自らを「伝統主義者」と呼ぶ人々は、教会は何も変えることが出来ないと言います。私たちが合法的変化を導入すると、彼らは私たちを教会の敵と呼ぶのです...大司教(ルフェーブル)と彼の追随者は、トレント公会議にちなんで、しばしば「トリデンティニスト」と名付けられますが、トレントは彼らに対抗しています。1563年(第21総会、2期)に、教会は常に、その秘跡の実態が保存される限りにおいて、御聖体を含む秘跡において変更する力を持つ、と公会議は宣言しました。

公会議の第21会議は、1562年7月16日に開催されましたが、それはそれでいいでしょう。ここで重要なのは、これらの発言が不正であったことです。教会には聖なる秘跡のいかなる変更も加える資格がないなどとは、責任ある伝統主義者は決して主張したことはありませんでした。それは、おそらく AB が、多少不正確な言葉「sacrament(秘跡)を変更する」によって意味したものだったのでしょう。もちろん、sacrament にいかなる変更も加えることは不可能でした。伝統主義運動の経験のある人々は、誇張しがちな無知な人々が時々いるということを、だれも否定できませんでした。司教に期待されるような、典礼の専門知識を、普通の聖職者や一般信徒が所有するなど想像できないというのは、当然のことでしょう。また、法的混乱状態が広まっているのを前にして、反応する人々が、時には過剰反応するのは当然のことでしょう。最近の典礼の醜態に激怒させられた何名かの立腹した一般信徒が、典礼は何ら変更させられたことがなかったという主張を AB に書いたことはあり得るでしょう。私はそれを少し疑ってはいますが。しかしながら、AB は彼への非難を一般化します。彼は、ある一人の伝統主義者がこの誤った主張をした、または何人かの、多くの、ほとんどがした、とは主張しません。AB は「伝統主義者と自称する人々は、教会が何も変えてはならないと言う」と主張するのです。言葉を変えると、全ての伝統主義者がこの主張をしたと、──この攻撃は単に不公平なだけでなく馬鹿げています。私はおそらく、公会議後の典礼改革について、英語圏の他の著述家よりも多くの批判を書いてきました。私の本は広範囲な発行部数を達成し、私は伝統主義者の運動の外側にいる批評家たちによって、それらが客観的であると賞賛されました。私は一度たりとも決して、教会が典礼儀式を変更出来ない、などとは提言したことはありませんでした。反対に、合法的な典礼発達の価値と必要性を、私は常に認めて来ました。AB の主たる攻撃対象であったルフェーブル大司教も同じ立場にありました。彼の本 A Bishop Speaks(一人の司教の発言)* の中で、モンシニョール・ルフェーブルは第二バチカン公会議の時に、妥当な典礼の変更が必要な場合もあることを次のように認めています。

しかしながら、私たちはこれらの考察から、これら全ては変化しない様に保たれるべきであったのだろうかと結論付けなければならないのでしょうか。節度と分別を伴う公会議は、別の答えをしています。いくつかの改訂と更新は必要でした...信者を指導することを意図する、そして信者が自分たちの信仰を表明する手段としての、ミサの最初の部分は、これらの目的がより明白に、そしてある意味では、よりわかりやすくなるような達成手段を必要としていました。私のつたない意見ですが、この目的のために提出された二つの改訂は有効に見えました、一つはこの最初の部分の典礼で、それといくつかの自国語への翻訳でした。

司祭に、信者へ近付き、彼らと共感し、祈り、彼らと歌い、書見台に立って書簡から福音まで彼らの言語で朗読し、伝統的な聖なるメロディーに合わせて、キリエ、グローリア、そしてクレドを彼らと共に歌わせてみましょう。これら全ては、ミサの真の目的に、この部分を回復させる、幸せな改訂であったでしょうに。4

* A Bishop Speaks(一人の司教の発言)は、米国の Angelus Press か、英国の Augustine Publishing Co. から入手出来ます。この230 ページの本はカトリック信者が、ルフェーブル大司教が、教会を今のように分裂させた重大問題に関して実際に何と言ったかを、彼の敵が彼が言ったと主張することよりも、知ることが出来ます。

しかし、この考察から、教会は典礼に何ら変更を加えてはならない、と意味する結論付けがなされなければならないのでしょうか。節度と賢慮を備えたあの公会議はそのように思っていません。いくらかの改善と刷新は必要とされていました。ローマ教皇が認めた典礼運動に携わった偉大な人々の著作物に精通している人々は、大司教の考えがこれらの偉大な人々のそれと、どれ程緊密に一致しているか証言することでしょう。ルイ・ブイエ神父は、彼自身この運動の著名な一員ですが、以下を認めています。それは、カトリックの人々にうまく押し付けられている改訂は、公会議に参加した司教たちが意図したことに単に正式に反対させるのみならず、典礼運動の当初の目的に、反対するものなのです。5  AB と彼と心を一つにする仲間たちが前述のケースで主張した誤りは、いくつかの変更に反対ということは、全ての変更に反対ということと、同じであるとすることでした。明らかに、彼は典礼講座と同様に、論理学入門講座を受けるべきです!

要するに、伝統主義者とは、正当な典礼発達を真に擁護する者であると自任する人々を指します。典礼の健全な発達を支配する原理は、健全な教義の発達を支配する原理と緊密に対応していなければなりません。これはニューマン枢機卿がこの点に関する評論の中で説明しております。枢機卿は次のように述べています。「先行する発達の方向を逆行させるような教義の発達は真の発達ではなく、腐敗でしかありません。また、腐敗したものは、健全なものに対して不健康な要素として作用するのです」6

正当な典礼の発達を逆行させるような場合の明らかな例としては、現在行なわれている手による聖体拝領の乱用があります。この乱用を止めようとして、1969年に教皇パウロ6世は教書「メモリアーレ・ドミニ」を公布しました。そこには、原始教会で一般信徒が御聖体を手で受けていたのは本当であるが「キリストの御体が崇拝されるために、より慎重に注意が払われるべきであるという理由から、そしてまたそれ以後の時代の人々からの要望もあり、御聖体の神秘の真の意味や、その効果、その中にキリストが現存されることが深く考察され、この聖なる秘跡への崇拝と、これを拝領したいという謙遜へと駆り立てる思いから、司祭が信徒の舌の上に聖別されたパンをのせるという習慣が導入されました。今日の教会の状態を見ると、御聖体を分配するこのやり方は、守り続けられるべきです。それは何世紀にもわたる伝統に基づくのみならず、それが特に御聖体に対して信徒が持つべき崇拝の印であるからです」7 と記されています。

手への御聖体拝領の実行は16世紀にプロテスタント改革者たちによって再開されましたが、それは御聖体拝領で頂くパンは普通のパンとは何ら変わらず、叙階された司祭は平信徒には与えられていないような力は何も持っていないと主張するためでした。この実行は宗教改革以降、このような反カトリック的な意味合いをもつものとなっていました。この事実にもかかわらず、そして教皇パウロ6世がメモリアーレ・ドミニで明白に望みを表明したにもかかわらず、英語圏の支配層は教皇庁に、自国での乱用を合法化するよう圧力をかけたのでした。合法化された乱用の唯一の言い訳は、既にそれが定着しているからというものでした。これは、教皇庁への忠誠の誓いであるとされ、AB のような司教たちによって公言され、トリエント・ミサ禁止の正当化や、その支持者たちを笑い物にするのに使われましたが、実に空虚に見えます。もし、手への御聖体拝領の乱用が、教皇庁にその合法化を迫るのが正しいとされる程、本当に広まっていたのであれば、司教たちは教会の典礼法への真っ向からの反逆を見て見ぬ振りをしていたことになります。他方、もし彼らが特典を申請した時に、本当は乱用が広まっていなかったのであれば、彼らは教皇を騙す罪を犯し、そして乱用を合法化した特典は教会法により自動的に無効となることを意味します。いずれの場合にせよ、手への御聖体拝領という反カトリック行動の黙認および合法化は、カトリック報道によると手への御聖体拝領の熱心な支持者だった AB のような司教たちによる、ダブルスタンダード順守の prima facie(一見明白な)証拠です。これらダブルスタンダード順守は通常、もしカトリックの御聖体の教えを害することによって典礼法が侮られたのであれば、司教たちは乱用を無視し、許容し、合法化し、最終的には促進したのでしょう。カトリックの教えを守るために、教会法が破られたと言われている * 所では、関係者は教皇への忠誠の名の下に罰せられるか有罪とされるでしょう。

* 「破られたと言われている」と私が言っているのは、どの司祭もいつでもトリエント・ミサを挙行しても良いということを禁止するような有効な法律が存在しないからです。これはフローレンス大学の教会法の助教授ネリ・カッポーニ伯爵によって、彼の著書 Some Juridical Considerations on the Reformof the Liturgy(典礼改革についての法的考察)の中で明白に証明されています。この本は、米国の Angelus Press か、英国の Augustine Publishing Co. から入手出来ます。

英国における、このダブルスタンダード順守の程度は、英国の2つのリベラルなカトリック週刊誌の1つ「カトリック・ヘラルド」の1979年7月13日版に、うまく描写されています。編集者は「国中の多くの小教区内で、多くの場合、地域司教の承知の下で」典礼法規が軽視されたことを誇ったのです。彼は例として、主日ミサの際に両形式で御聖体をさずけ、司式司祭と共に聖変化の祈りを唱える信徒たちや、他の宗派との合同ミサ、無効あるいは正式な結婚をしていない人々の御聖体拝領、そしてバチカンで規定された基準を外れた一般的な罪の赦しを与えることを示しました。編集者は、英国の司教たちがそのような慣行を「ウインク」して見逃したほどであったということを、満足気に記しました。「・・・ある司教たちは、司教杖を逆に向け、知ろうとせず、他の司教は “私には報告しなさい、しかし他のだれにも知らせないように” と言います」すぐに伝統主義者を非難する AB が、カトリック・ヘラルドの編集者による主張を否定する手紙を出すかどうか、大変興味深く待ちました。そのような手紙が掲載されなかったことに、私は驚きませんでした。明らかに編集者は、自分が何について話していたか知っていて、とにかく、彼が記述する事件の状態は公けに知られており、このことは AB のような司教たちが、伝統的信仰の残骸を残らず撲滅してしまおうとする司教たちの企てを、伝統主義者たちがなぜ当然のこととして無視するのか、説明するのを助けます。ちなみに、近代主義を広めるカトリック・ヘラルドや他の定期刊行物が自分の教区の教会内で販売されるのを認可するような司教たちは、正当性を守ることに関心のある人々からは、真面目に受け入れられることは期待できません。

私は、伝統主義者とは典礼発達の真の擁護者と考えられ、それまでの発達の道程を逆行させるような変更は発達ではなく腐敗にすぎない、と述べました。手への御聖体拝領はこのような腐敗の例として挙げました。プロテスタントの異端指導者が手への聖体拝領を正当化するための言い分は、それが初代の習慣に戻るということでした。同様の言い分が、今日のカトリック教会の習慣を支持するネオ・プロテスタント支持者たちによって用いられています。このような人々は第二バチカン公会議後の現象だなどと、考えるべきではありません。彼らは第二バチカン公会議以前から存在し、教皇ピオ12世によって断罪されています。この偉大な教皇は、初代教会の習慣への回帰に愛着を持つ人々の動機に関して、一切錯覚を持ちませんでした。

全てを無差別にその古代の状態に戻すという望みは賢明でなく、また感心されるべきことでもありません。例えば、祭壇がその古代の形式であったテーブルに戻されるのを望むこと、黒色が典礼色から除かれるのを望むこと、御絵や御像が教会から除かれることなどは間違いです...それは、天の御父に至る途上にある、養子とされた子等を導く典礼によって、聖化する有益な行ないを麻痺させる邪悪な傾向です。8

このように、典礼の各々の変更は、それが有益であるか否かよって考察されるべきであることは明白です。ルフェーブル大司教が私たちに教えるように、いくつかは称賛に値します。教皇パウロ6世が手への聖体拝領に関して私たちに教えたように、そして教皇ピオ12世が祭壇をテーブルに置き換えることや、黒色を典礼色から除くことに関して私たちに教えたように、いくつかは有害です。典礼の変更を評価するために信者が使用すべき基準は何でしょうか? 教皇ピオ12世は「私たちはローマ教皇につながった司教たちから公認されたものを認めるべきですが、しかしこれは喫緊の問題を提起する」と述べました。もし、ローマ教皇と司教たちが、典礼の無政府主義者の反逆に黙って従い、彼らが以前は有罪とされた行為を合法化するなら、何が起こるでしょうか?私たちは今や例外的な時代に生きていることは明らかで、何が認められ、何が認められないかを決める通常の手段は、もはや必ずしも適切ではありません。アリウス主義の異端の間、しばしば真のカトリック信者たちは、合法的に任命された彼らの司教と教会の外でミサを捧げなければなりませんでした。聖アタナシウス自身、教皇リベリウスによって破門されました *。教会内の権威は信仰を守るために存在します。それがこの目的のために使われない所では、たとえ司教の支援が無くても、また彼らの合法的司教が反対したとしても、信者は自ら信仰を擁護する義務があります。ローマの司教である教皇も除外しないで下さい **。この立場を取る伝統主義者たちは、新プロテスタントであると時々非難されますが、プロテスタントの使用する伝統を破ろうとする個人的判断と、伝統を守ろうとする伝統主義者たちの見掛け上の不服従とは、比べものになりません。ルフェーブル大司教は、1977年9月3日にフランスのポアティエでの説教で、これを非常に明白に示しました。

私たちは2000年間信じられてきたことを信じ、2000年間行なわれてきたことを単に行ない続ける時、真理の外にいることなどありえないのですから、私たちは正しい側にいるのです。これは不可能です。

もう一度、私たちはこの文章を繰り返し、繰り返し言い続けなければなりません。Jesus Christus heri, hodie et in saecula(イエズス・キリスト、昨日、今日、そして永遠に)。もし、私がイエズス・キリストと共に、昨日ここにいたのであれば、私は今日も明日もイエズス・キリストと共にあります。そしてそれは、私たちの信仰が、過去のものであり、未来のものであるからです。もし、私たちが過去の信仰と共にいなければ、現在の信仰も共にいません、未来もいません。これは私たちが常に信じなければならないことです。これは私たちがいかなる代価を払ってでも守らなければならないことなのです。──私たちの救いはそこにかかっているのです。9

* 私のパンフレット The True Voice of Tradition(伝統の真の声)をご覧ください。

** ローマ教皇への抵抗が正当化されうる場合があるということを知ると、多くのカトリック信者は驚くかもしれません。私の本 Apologia Pro Marcel Lefebvre(マルセル・ルフェーブルの擁護)の付録Ⅱに、カトリック神学がこのような抵抗に備えているという事実について、私は十分な文書を載せました。

AB による、この最初の申し立てについて、これまで書いてきたことを要約してみましょう。伝統主義者たちが「教会は何も変更することができないと言う」と主張することは全くの虚偽です。

典礼に関して言えば、伝統主義者は概して、そしてルフェーブル大司教は特に、合法的改革と開発のための余地があることを認め、明白にローマ典礼の精神に沿った教皇ピオ12世による変更を歓迎しました。彼らはこのように、基本的には改革に反対しませんでしたが、伝統的な奉献の祈りの廃止のような、カトリックの御聖体の教えに妥協したり、平信徒の聖体奉仕者から、立ったままの信徒の手に御聖体を配布することのような、御聖体への尊敬を軽減させるような、特定の変更には反対でした。伝統を危険にさらす改革に抵抗するために、カトリック神学には健全な基礎があります。

AB の第二の申し立ては、後ほど研究しますが、以下のように読めます。

教皇ピオ5世は、トレント公会議の要請によりミサを改訂し、1570年にローマミサ典書の改訂版を発行するために、教会権力を使いました。教皇パウロ6世も、まさに同じ方法で、第二バチカン公会議からの要請によりそれを変更し、1970年にローマミサ典書の改訂版を発行しました。「同様の権威により、それはイエズス・キリストから来ました。私たちは、公会議の法令が完成するこの数年の間に熟した、他の典礼変更、規則変更、司牧的変更に対して、同様の従順を求めます」(1976年5月24日)

AB は2つの申し立てをここでしましたが、どちらも典礼の歴史についての悲しむべき無知を表しています:

(a)教皇ピオ5世と教皇パウロ6世は、ローマミサ典書を、まさしく同じ方法で、改訂しました。

(b)教皇ピオ5世と教皇パウロ6世は、改訂版ミサ典書を、まさしく同じ方法で、発布しました。

意見(a)については、これほど真実からほど遠いものはないでしょう。ダグラス・ウッドラフは最近亡くなりましたが、おそらく英国の最も博識な一般信徒でした。彼は1975年に次のように述べています。

聖ピオ5世の典礼と教皇パウロ6世の典礼を同一視するのは、全く誤った方向に導くものです。トレント公会議は第三総会の後で、教皇が正しいと裁定するための、典礼を含む仕事がまだ終わらないうちに、終了しました。それは些細な地域差くらいで、既に大昔から変わらなかったので、彼はほとんど変更しませんでした。1910年の Catholic Encyclopedia(カトリック百科事典)の中で、並の権威者でないアドリアン・フォーテスキューは、聖グレゴリオ1世(590~604)について以下のように書きました。「グレゴリオは、私たちが今でも実際に与っているものと同じミサを知っていました...7世紀初期のローマに戻ることができた現代ラテンカトリック信徒は、──彼は慣れ親しんでいるいくつかの特徴を見ることがなく寂しく思うかもしれませんが、──彼がそこで見る礼拝は、彼がよく知っているものであると気付くだろう、と私たちは支障なく言えるでしょう」10

私はこの件について、詳細にまでは立ち入るつもりはありません。それは私の小冊子 The Tridentine Mass(トリエント・ミサ)の中で、教皇聖ピオ5世の改革は、存在したローマミサ典書の成文化に過ぎないという十分な証拠書類を提出したからです。私は現在目の前に、1474年ミラノで最初に印刷されたローマミサ典書のテキストを持っています。(1474年の Missale Romanum Mediolani、つまりミラノでのローマミサ典書は、1899年にヘンリー・ブラッドショー協会から再出版され、R・リッペによって編纂されました)。全ての重要な点において、それはほぼ100年後に公布された教皇聖ピオ5世のミサ典書と同一です。

教皇パウロ6世の新しいミサの標準的挙行に立ち会う人々が、それは聖ピオ5世のミサと実質的に同一であると主張するのは不可能でしょう。イエズス会のヨセフ・ジェリノー神父は新ミサに関与した専門家の一人ですが、彼は「私たちの知っていたローマ典礼はもう存在しません。それは破壊されているのです」11 と、わずかに後悔することも無く述べました。第二バチカン公会議の典礼憲章は、合法的に承認されているすべての典礼様式は保有され、あらゆる方法で促進されるべきである、と宣言しています。ローマ典礼を破壊しておいて、どのようにしてこの命令が満たされるのかについて、AB が説明するのは困難でしょう。──しかし、教皇聖ピオ5世のもとでのローマ典礼成文化と、教皇パウロ6世のもとでのローマ典礼破壊が、全く同じ方法で、2つの改革を構成すると主張することは、信頼性ある主張を全て捨てることになるのです。

意見(b)については、2人の教皇が、全く同じ方法でそれぞれミサ典書を発布したと主張することは、正確さからは程遠いのです。教皇聖ピオ5世は、明確に規定されたいくつかの例外と、大勅書クオ・プリムムを守らなかった人々のための明確に規定されたペナルティーと共に、ミサ典書を西欧の全教会に義務化しました。教皇パウロ6世は、彼のミサ典書の使用は義務で、他のミサ典書の使用が禁止されるというような宣言がどこにも見当たらない使徒憲章 Missale Romanum と共に、彼のミサ典書を発布しました。もし、彼のミサ典書が義務とされ、聖ピオ5世のそれが禁止されることになっていたのであれば、使徒憲章はそれをすることが出来る唯一の文書でした。もし、まだ禁止されていなかったのであれば、AB が引用した1976年5月24日のように、訓示の中で発表された宣言では、ローマミサ典書使用を禁止するには、十分ではないでしょう。事実は、カッポーニ教授が、既に引用している研究の中で示しているように、司祭はいかなる時であっても、そして補佐する信徒がだれであっても、だれもトリエント・ミサを挙行してはならないという、有効な法律は存在しません。これを自分たちで検証したいと望む読者は、カッポーニ教授の随筆を読むべきですが、これは非常に技巧的で簡単な読み物ではありません。

AB はミサの変更を以下のように説明しています。

ミサが挙行される方法にはいくつかの変更がありました。しかし、ミサそのものの変更はありませんでした。司祭は現在、通常は信徒の方を向き、ラテン語でなく英語で祈ります。朗読の選択枝の増加、説教、とりなしの祈り、奉納行列のような、いくつかの形も復活しました。

以上は、本格的な suppressio veri(真実の隠蔽)でしかありません。教皇聖ピオ5世と教皇パウロ6世の新しいローマミサ典礼書の改訂発布が全く同じ方法で行われたという、AB の間違った主張は、典礼の歴史の嘆かわしい無知によるものであるとしか説明できません。私はこの小冊子がそれを正す助けになればと思います。彼のミサ変更の概要に、そのような弁解は適用されません。彼の引用する変更は末梢的で、そして確かに、伝統主義者たちの批判の根本的対象ではありません。AB 自身、数年間ではありますが、トリエントミサを捧げていましたし、通常文から明らかに犠牲と現存、特に前者のカトリック教義特有の祈りが故意に剥奪されているのに気付いたはずです。この新しい通常文が第二典文で現在使われている時、ミサ全体の中にはプロテスタントが異議を唱える対象はほとんど無いのです。新ミサの欠点の主な考察は、私の小冊子 The Roman Rite Destroyed(破壊されたローマ典礼)にあります。完全な証拠資料付き分析は Pope Paul’s New Mass(パウロ6世の新ミサ)にあります。私はこの証拠をここで重複しようとは思いませんが、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿が教皇パウロ6世に送った、新ミサの Critical Study of theNovus Ordo Missae(新ミサの批判的研究)* で下した判断を読者の方々に簡単に紹介しましょう。

ほのめかされているか、当然のこととされているように思える、広く力のある種々の評価の対象となる新しい要素を考察するとき、新ミサは全体的に、そして詳細を見ると、ミサの完全性を傷つけかねないいかなる異端に対しても有効な乗り越えがたい障壁となった Canon(ミサ典文)を決定的に固定することによって、トレント公会議の第22会議が定めた聖なるミサのカトリック神学からの、目をむくような離脱であるかのように思えます。

* 米国のAngelus Press か、英国の Augustine Publishing Co. から入手可能です。

明らかに二人の枢機卿は、AB として言及される人たちだけによるあまり重要でない革命に基づいて、この悪事を表明する起訴をしませんでした。信徒の祈りや奉納行列が苛立たせるというだけの理由で、伝統的ミサを守るために、何百人ものカトリック司祭と何千万の一般信徒が凄まじい犠牲とはならないでしょう。AB は明白に、普通のカトリックの英知にほとんど全く敬意がありませんでした。AB は続けます。

ルフェーブル大司教と他の人々は、改訂された典礼は非カトリックの祈りの式であるかのようであると述べています。

しかしながら、本質的なものは古いミサ典書よりも多く出てきます。

新ミサは「十字架の犠牲とそのミサでの再現は全く同一と教えます」

それは私たちに「実体変化を通してキリストが現存されるようになる聖変化の言葉」について教えます。それは「人となられたキリストの犠牲を捧げ、神の聖なる民の上に立つ」司祭の特別な地位を強調します。ですから、それは全く同じミサなのです。

最初の節について言えば、新ミサがトリエント・ミサよりプロテスタントの人々を喜ばせているかどうかを決めるのは、プロテスタントの信徒自身なのです。私は The Roman Rite Destroyed(破壊されたローマ典礼)で豊富に文書を提供しましたし、Pope Paul’s New Mass(パウロ6世の新ミサ)にはそれ以上あります。それを彼らは改革への一歩として熱狂的に歓迎しました。一つの例があればその点を証明できるでしょう。1973年2月8日、アルザス・ロレーヌのアウグスブルク信仰告白(ルター派)の超プロテスタント教会の教会会議は、御聖体をカトリックの教会で拝領してもよいという公認をメンバーに宣言しました。それは「今日、プロテスタントがカトリックの聖体祭儀を主による晩餐であると認めることは可能である。私たちは新しい祈りの使用を私たちが親しんできたものとして非常に重視する。それはカトリック信仰の特性に慣らされるより、犠牲の神学に異なる解釈を与えるという利点を持つ。これらの祈りは、私たちを福音主義の犠牲の神学を認めるよう招いている」12 と続けて述べています。

彼の第一節の二番目の文章に関して言えば、AB は「本質的なものは古いミサ典書より多く出ている」と主張します。明らかに、彼は前の節で触れた、ミサ典礼の改訂版を引用しなければなりません。この主張は完全に虚偽です。私がすでに説明したように、新ミサが第二通常文で捧げられるとき、ミサの真の犠牲に対するあからさまな言及での剥奪があり、これはプロテスタントが犠牲の福音主義神学であると認めることを可能にするのです。即ち、私たちは賛美や感謝や私たち自身を捧げますが、イエズス・キリストの御体と御血は捧げないのです。

彼の次の文章で、読者には明白には示されていませんが、AB は新ミサ典書の概括的訓令の前文を引用しています。この前文の背景はかなり重要です。本当に前文はおそらくこれまで書かれた新ミサを、最も強く非難する告発です。新ミサは1969年に最初に発行された時、その削除とそれに先立つ概括的訓令の両方で、批判されました。この概括的訓令は、カトリックのミサよりプロテスタントの主の晩餐として記されることで現われた条項を含みました。概括的訓令は Pope Paul’s New Mass(パウロ6世の新ミサ)の中で深く分析されています。この批判の結果、1970年に新しいローマミサ典書が再出版されたときに、重要な変更がなされました。これに付け加えて、それはそれ自身、新ミサをトレントの教えと同じにするつもりであったと主張する前文より先んじていました。このような行為は教会の歴史の中で確かに前例の無いものに違いありません。私は、教皇が前文を追加しなければならないとした、これまでの事実、正統であった信仰を保証するために、正統を理由に厳しく批判するカトリック典礼で、他の例を思い出すことができません。しかし、カトリックの歴史の中で、この小冊子の次章のミサの歴史で良く示されるでしょうが、事実上、新典礼は異端宗派からの顧問が助言する委員会によって、作られたことはそれまで決してありませんでした。このようにして、前文は新ミサに par excellence(一段と優れた)の主題は新ミサ防衛のために AB によって加えられましたが、事実、par excellence の主題はそれに反していました。

AB の論説の最後の引用ですが、彼が伝統主義者たちに向けた説を次に引用しましょう。

ですから、改訂版ミサが好きでない「伝統主義者たち」は、教会の指導を求め、真に情報を得るようにしなければなりません。

現状では、この忠告は完全に認められるものです。質問は、正確にどうやって AB が私たちが教会の指導を求めて、情報を得るようにさせるのでしょうか。明らかに彼自身の論説が証明しているように、もし私たちが彼のような司教に指導を求めたなら、私たちには深刻な誤りを伝えられることが予想されます。私はまたある司教が彼の群れの人々に、第二バチカン公会議は聖櫃を高い祭壇から除くように勧めていると話した事例を引用しました。これは全く真実ではありませんが、ああ、もし信徒たちが今日司教に相談したならば、彼らが受けるであろう情報は、ただこれが典型なのです。現在、それでカトリック信者は伝統を固く厳守することによって、正しく情報を得ることが最も良く保証されるのです。もし、彼らが大昔から伝えられた公教要理と典礼にとどまるなら、彼らはしっかりした基礎の上にいることがわかります。ルフェーブル大司教は、それを「私たちの信仰は、過去のものであり、未来のものです」と表現しました。私が既に説明したように、この最も確かなのは、私たちは原則として、全ての変更と全ての発達に反対すべし、という意味ではありません。これは極端な保守主義で、伝統主義ではありません。ルイ・ブイエ神父は「私たちは盲目でない限り、私たちが見るものが、加速された腐敗よりも、カトリック教義の期待された再生のようには見えない、とにべもなく言わねばなりません」13 と注意しました。加速された分裂に直面して、全ての革命を無批判に認めるよりも、極端な保守主義者である方が、明らかに好ましいです。しかしながら、2つの悪のましな方でも、完全に極端な保守主義者の態度にはほんの短い期間の未来しかありません。極端な保守主義者の態度は、聖ピオ10世のミサに見られる完全さを開発しなかったミサより、真にカトリックだったでしょうか?──それはこの小冊子の次章でお伝えしましょう。ルフェーブル大司教が認めて引用した改訂のタイプは、今世紀の偉大な教皇たち、特に聖ピオ10世とピオ12世に、明らかに調和しています。

この小冊子で、これまで明らかにされたように、AB はミサの歴史について沢山学ぶ必要があります。──そして、彼はこのような指導を必要としているただ一人の司教ではありません。この小冊子の次章は、このより必要とされている講座の提供に関してです。また、パウロ6世のもとでの委員会による新典礼の人為的合成が、典礼が徐々に自然に発達した2000年の伝統と、全く異なるものであることをお見せするでしょう。教皇パウロ6世の認めた改革のタイプは、カトリック教会で全く前例のないものでした。これに先立つものは、16世紀にプロテスタント革命家たちによって作られた新典礼で、それらは私の本 Pope Paul’s New Mass(パウロ6世の新ミサ)にくわしく記されている教皇パウロ6世の新しいミサと、数多くの危険な平行線をたどっています。

第三部 ローマ典礼の発達

驚くべきことに、1570年の布告クオ・プリムム・テンポレまでのローマ典礼においては、どこにもミサの挙行に関する教皇や公会議による法的規則はありませんでした。この布告発布の最も顕著な点は、ミサがどのように祝われるべきかという作法を法律化したのではなく、ミサが祝われている作法に法的認可を与えたということにあります。第二バチカン公会議までの典礼発達の主な特徴は、発達を法律が成文化したのであって、発達が法律によって方向付けられたことはありませんでした。

4世紀まで、ミサでは朗読の聖書以外、典礼書が用いられたことはありませんでした。ミサには明確な2つの部分がありました。最初の部分は、キリスト教化したユダヤ教礼拝の祈り、読書、説教でした。この「言葉の典礼」が終わると、まだ洗礼を受けていない洗礼志願者は去らなければなりませんでした。そのため、その部分は「洗礼志願者のミサ」と名付けられていました。次に、第二の部分である、キリスト信者の奥義である聖体祭儀が続きました。これは司教による即興的な祭儀でしたが、使徒の時代から、すでに固定した規範がありました。聖パウロが聖変化の言葉を詳しく述べた時、彼はすでに確立していた御聖体の定式文を引用しています。

信者は、適切な讃美歌と応答で、聖体祭儀に参列しました。それらは固定した形がなければ、彼らにとって不可能でした。キリスト信者の信仰の特徴は、保守的で、保護者的気質でした。このように、新司教は、前任者と同じ祈りを祈ることが期待されました。なぜなら、それがなされてきた方法だったからです。口伝えの伝承の概念は、事実上、現代社会では失われています。それは子供たちの中でのみ存在します。親が「赤ずきんちゃん」や「3匹のくま」の言い回しを変えると、必ず抗議の声があがるでしょう。口伝えの伝承の現象は、全ての文化に共通しています。北欧の吟唱詩人は、伝統的武勇談を、彼が若い時に吟唱詩人たちから学んだ版のとても多くの言葉を、何時間も、逸脱することなく最後まで歌うことができました。

使徒的教会の最も明白な特徴は、宣教への熱意でした。私たちの主は、使徒たちに福音を全ての国々に伝えるよう命じ、彼の命令を怠る者には災いがあると言われました。宣教師は新しい教会を建てると、彼は当然、彼が親しんできた典礼を使いました。異なる教会間でキリスト信者は常に移動するので、普遍的な様式がかなり一致するのを見たのです。さらに、この様式は、今日も使われている古代の典礼の全ての基礎を形作り、それは聖ユスティノ殉教者(164頃没)の記念の Apologia(弁明)にその典礼が明白に記されています。伝統的ローマミサの要素は全て、彼が述べ伝えたことによって、容易に識別可能です。

4世紀に典礼を書き記す作業がひとたび確立されると、以前使用されていた多かれ少なかれ同一の型は、4つの大元の典礼にまとめられ、それらは他の全ての本源となるのです。「rite」という言葉は、2つの異なる意味で使われます。それは特定の典礼儀式の礼拝方法を指すことができます。私たちはこのようにして、洗礼やミサの儀式、枝の祝福の儀式を指します。それはまた、特定の宗教の数々の儀式全体を指すこともできます。私たちは、ユダヤ教の儀式やキリスト教の儀式、ヒンドゥー教の儀式と言います。この意味でローマ儀式は、ローマ大司教区内のキリスト信者が用いる全ての儀式を指します。「liturgy」の単語もまた、複数の礼拝に適用され、そのため「Roman Rite」と「Roman Liturgy」には互換性があります。

4つの大元の典礼の内、3つは3つの古代総大司教区であったローマ、アレクサンドリア、アンチオキアから来ています。それらはニケア公会議(325)で認められました。総大司教区の統治権は自らの区に隣接した領域にも及んでいました。総大司教区の統治権は、首都大司教を叙階する権限も含み、総大司教区の主要な区の司教たちが告訴された時には彼らを調べ、彼らの判定に対する上告を聞くことでした。エルサレムとコンスタンチノーブルは、カルケドン公会議(451)に総大司教区として認められましたが、彼らの典礼はアンチオキアから派生しました。

総大司教区の威信は、その典礼が徐々に近隣都市で採用され、総大司教区全体に広まる結果となりました。典礼が総大司教区に一致するという原則は、その後一つの著しい例外に進化しました。4つの「大元の典礼」に言及しましたが「ガリア典礼」は総大司教区からは生まれませんでした。教皇は全西欧(ラテン)の総大司教でしたが、西欧の大部分はローマ典礼を使用しませんでした。イタリア北部(その中心はミラノ)、ゴール、ドイツ、スペイン、英国、そしてアイルランドは皆、独自の典礼を持っていました。これらの典礼は全て標準型の変形で、ガリア典礼に属しています。それは明らかに東方に起源があり、議論中ではありますが、おそらくアンチオキアから派生しています。西欧に広まるにつれて、典礼は地域ごとの変化や順応に応じてきました。

このように何世紀もの間、総大司教たちの中にあって、歴代教皇は自分の典礼を自分の総大司教区に強いたことはありませんでした。時折、教皇が統一に関心を示し、いくつかの試みでは、ミラノのアンブロジオ典礼に取って代わるものを作ろうとしましたが、英国で最も典礼に権威のあるフォーテスキュー神父によると、

大部分の人々は、物事の古い状態に対して、完全な無関心を示しました。他の司教たちが、ローマではどのようにして典礼が挙行されるのかと彼らに尋ねた所、彼らは説明書を送ってきましたが、異なる典礼の存在を許容していました。聖グレゴリオ1世(590~604年)は、新しくできた英国教会をローマに一致させる心配を示しませんでしたが、聖アウグスチヌスに対しては、彼が最もふさわしいと考えているローマかガリアからの典礼であれば、どちらであっても取り入れるようにと命じました。14

西欧における6世紀以降の典礼の歴史は、ガリア典礼からローマ典礼に徐々に取って代わりますが、これは教皇がそうしたのではなくて、教皇庁の使用形式に一致したいと望む地域の司教たちや君主たちがそうしたのでした。

5世紀以降の典礼の伝統と習慣は、典礼書と呼ばれる本に集められていました。典礼書は現代式ミサ典書とは一致しておらず、司祭によって祭壇で唱えられる、例えば集祷文、叙唱、カノンといった典礼箇所のみで、朗読や聖歌は含まれていません。これらの中で最も重要なのは、グレゴリオ典礼書で、伝統的に聖グレゴリオⅠ世によるとされています。現存する複写で最も古いものは、約811年または812年のものです。この典礼書は聖ピオ5世のミサ典書の元となり、典礼歴の基になりました。785年か786年には、カール大帝が彼の領土の典礼をより統一することを望んで、この典礼書の複写を教皇アドリアンⅠ世から入手しました。この典礼書は不完全で、通常の主日ミサを含んでいませんでした。カール大帝は、典礼改革をアングロサクソンの指導者、ヨークのアルクィン(735~804)に任せました。アルクィンは、ガリアを元として、そこからのミサと祈りで、グレゴリオ典礼書を完成させました。彼のミサ典書はフランク教会の公式ミサ典書となり、欧州中に広まりました。それは、改革前の欧州に存在した、高度な統一を達成するのに大いに助けとなりました。しかし、ガリア典礼は結局、ローマ典礼に取って代わりましたが、それはガリア典礼の要素を明瞭に含むローマ典礼でした。フォーテスキュー神父は次のように書いています。

ですから、遅くとも10世紀か11世紀には、2つの教区(ミラノとトレド)を除いて、ローマ典礼はガリア典礼を追い出し、それは西欧の至る所で唯一使用され、そしてついに、典礼は総大司教区に従うという原則がここでも打ち立てられたのです。しかし、長期間かけて徐々に、ガリア典礼からローマ典礼に代わるというのは、相手から影響を受けるものであり、ローマ典礼が遂に唯一のものとして出現した時には、それはもはや古い純粋なローマ典礼ではないが、私たちが今従っているガリア化したローマ式の儀式となったのです。15

ローマ典礼の要素は、落ち着いた、自制した、威厳のあるものですが、ガリアの要素はより生き生きとしていて、多様性と感情の備わったもので、それはローマ典礼を地上のどの典礼よりも完全なものに近付けるという重要な役割を果たしています。

教皇イノセント3世(1198~1216)の在位中に、フランシスコ会はローマ教皇庁の典礼に従ったミサ(短縮形はローマミサ典書)を採用し、遍歴する修道者たちが、結果的に世界中にこれをもたらしました。それは、すぐにキリスト教世界で優勢なミサ典書となり、まだ少し発達の余地として、例えば祭壇の階段祈祷や、司祭の奉献の祈り、最後の福音が残されてはいましたが、聖ピオ5世の改革への道を固めました。教皇ニコラス3世(1277~1280)は、教皇庁のミサ典書のフランシスコ会版の修正版を、ローマ教区で使うよう命じ、その中に聖ピオ5世のミサ典書の中にある重要な点が全て見つかります。最初に印刷されたローマミサ典書は、1474年ミラノで出版され、ミサの規則は事実上、1570年のミサ典書に含まれるものと同一でした。

第四部 1570年以降のローマ典礼の発達

1570年の改革以前にローマ総大司教区にわたってローマ典礼が使われるようになりましたが、地域によって、国ごとのみならず教区ごとに、かなり変化が認められました。改革前の英国では、数種類のミサ典書が使われていましたが、それらはミラノのアンブロジオ典礼のように独立した典礼ではありませんでした。それらはUses(儀式)と呼ばれていました。このようにイングランド、ウェールズでは、セーラム(ソールズベリー)、ヨーク、リンカーン、バンゴアとヘレフォードの儀式が共存していました。これに付け加えて、修道会、例えばドミニコ会、カルメル会、カルトゥジオ会が自分たちのミサ典書を持っていました。地域の習慣のせいで、異なるUses(儀式)の多様性は徐々に大きくなり、そして習慣は常に教会内で尊敬の目で見られてきました。

プロテスタントの宗教改革は典礼改革にいずれにしても必要であった刺激を与えました。ローマ典礼のいくつかの地域における変化のあふれるばかりの豊かさ、それは多くの続唱や沢山の習慣で、そのいくつかは奇妙で選択できるもので、とても長く続いてきていました。しかし、より重要なのは、カトリックの御聖体の教えの公認された典礼的表現と統一が必要であったことです。これはプロテスタント改革者たちが、彼らの新しい儀式で表現していたプロテスタントの異端に対する、真の信仰の砦となるでしょう。私が Cranmer’s Godly Order(クラマーの神聖な品級)で示したように、宗教改革者たちは、主に彼らがコントロール可能となった地域の教会で既に使われていたローマ典礼の変形から祈りを除くことによって、彼らの異端に典礼表現を与えました。2つの顕著なプロテスタントの betes noires(目の敵)は、奉献の祈りとローマ・カノンでした。

トレント公会議は、カトリックの御聖体の教えを明瞭に、しかし鼓舞する言葉で成文化しました。この教えは世の終わりまで変更されることなく残らなければなりません。

そして、それ故、公会議はこの敬うべき、神聖なる御聖体の秘跡について、真実で純粋な教義を教えます。──その教義とは、私たちの主キリスト御自身から、また彼の使徒たちから、そして教会の心に絶えず真実をもたらし続ける聖霊から教えられたとおり、カトリック教会がこれまで常に持ち続け、そして世の終わりまで持ち続けるものなのです。公会議は、最も聖なる御聖体について、この教令に説明され、定義されたこととは異なる信仰や教え、説教のいかなるものも今後、全てのキリスト信者に禁じます。16

公会議は、ローマ典礼の改革を命じ、それは単に道理にかなっているだけでなく、改革されたミサ典書が教義上の教えと同じく永遠であることを意図していたことは明白です。委員会が作業を終了する前の、1563年12月4日に公会議が閉会していたにもかかわらず、それはトレント公会議の法律となりました。この案件は教皇ピオ4世に委託されましたが、彼は作業完了前に亡くなったので、後継者聖ピオ5世が公会議の結果から、1570年7月9日に布告クオ・プリムム・テンポレと共にミサ典書を成文化しました。ミサ典書は、トレント公会議の教令なので、その公式表題は Missale Romanum ex decreto sacrosancto Concilii Tridentini restitutum(聖なるトレント公会議の教令によって復旧されたローマミサ典書)です。これは1570年の教会の歴史の中で、公会議や教皇が典礼に関して法律を制定した最初のものでした。

布告クオ・プリムム・テンポレ

この件について、以前の公会議や教皇による法律が無かったことは、1570年以前に使われていたミサ典書に、法的根拠がなかったことを意味するのではありません。それらは慣習法によって守られてきました。現存するミサ典書は慣習を表し、何世紀にもわたって遠い昔から慣習が使われてきたことが証明されている所では、それは明記された指摘によってのみ廃止することができます。布告クオ・プリムム・テンポレは、

  1. 新しいミサ典書を発布するのではなく、はるか昔からのローマ典礼を整理、成文化するのである

  2. 以下の場合を除いて、その使用はラテン教会全域に及ぶ

  3. 200年以上、その儀式が続いている場合、

  4. 全ての司祭に、このミサ典書を永久に自由かつ合法的に使ってもよいという特典が与えられる。

  5. 布告は但し書きに、適用する人、時間、場所がこと細かく記してある。

  6. これを守る義務は明記された罰則によって確認されている。

* 諸教皇はもちろんローマ司教をローマ管区の総大司教として、ローマ教皇とローマ管区のために典礼に用いる法律を布告してきていました。

クオ・プリムムによって公布されたローマミサ典書は、この布告の力によって存在するのではありません。つまり聖ピオ5世の個人的教令によるのではありません。ネリ・カッポーニ伯爵は、上記の随筆の中で、布告は慣習法の重みに実定法の拘束力を加え、教会法学者の合意はこのような場合、実定法が廃止された場合、慣習法が効力あるものとして残ると説明しています。実定法は慣習法を廃止しませんが、それに追加されます。第二バチカン公会議後、革命が起きるまで、ローマミサ典書に重大な変更がなされたことはありませんでした。この革命の擁護者は、同様の改訂の続きの最後であるに過ぎないという印象を与えようとします。このようにして、1979年8月26日に雑誌La Croix(ラクロア)に最初に発表され、続いて世界中にばらまかれたのですが、フランスの典礼学者モンシニョール・エメ・ジョルージ・マルチモールは第二バチカン公会議前の一連の改訂と公会議中に聖ヨゼフの名をローマ・カノンに追加して最高調に達した改訂を引用します。彼はミサ典書を改訂した3人の教皇クレメント8世、ウルバノ8世、そして聖ピオ10世を特に引用します。彼は、これは「トレント公会議の改訂には触れてはならない、と考えられたことがないことを示している」と主張します。モンシニョール・マルチモールは、教皇クレメント7世の小書簡 Cum Sanctissimum(クム・サンクティスィムム)、教皇ウルバノ8世の小書簡Si quid est(シ・クィッド・エスト)、そして聖ピオ10世の使徒的憲章 DivinoAfflatu(ディヴィノ・アフラトゥ)を読み、上手く答えます。*  クレメントとウルバノ両教皇の主な目的は、1570年の形にミサ典書を復旧させることでした。教皇クレメント8世は、例えば聖ピオ5世がたとえ彼のミサ典書に何も加えたり除いたりしてはいけないと禁じたとしても、何年もすれば変わってしまうと説明しました。彼はこのような変更が組み込まれたミサ典書は、それらが聖ピオ5世のもとで発行された原本と同じになるまで修正されない限り、ミサ挙行に使ってはならないと命じました。

* Cum Sanctissimumn と Si quid est はどちらもクオ・プリムム・テンポレの完全な文書と共に、トリエントミサの付録に含まれます。これら3つの文書は Pope Paul’s New Mass(パウロ6世の新ミサ)に Divino Afflatu と共に含まれています。

聖ピオ10世の改訂は「テキストではなく、音楽についてでした。1907年のバチカン聖歌集は司式者による新しい、というよりも復旧された聖歌の形式を含み、そのためミサ典書に印刷されました。」17  使徒的憲章Divino Afflatu は主に、詩篇の再編という聖務日課に関してでした。多数の列聖の結果、何名かの聖人の祝日は定期的に主日と平日ミサ、特に四旬節の美しい平日ミサに置き換わり、司祭は彼らの勤めの間には、各週の詩篇をもはや全ては暗唱しなくなりました。これは教会暦の変更をいくつか含み、そのためDivino Afflatu はミサ典書の最初に入れられたのです。これは教皇が学者の委員会を設立したローマ教会暦を完成させるために、とても必要とされた改訂の第一歩となるものでした。クレメント8世とウルバノ8世の両教皇の改訂と同様に、聖ピオ10世の改訂は、聖ピオ5世の改訂の延長線上と見ることができます。

1945年3月24日、教皇ピオ12世は、彼の使徒的書簡 In cotidianis precibus(イン・コティディアニス・プレチブス)を発行し、詩篇のラテン語訳の改訂版を公認しました。新しい版は義務ではなく、新しい訳はより正確でしたが、多くの聖職者たちは伝統的な版を好みました。教皇ピオ12世は、詩篇の改訂版を単にオプションとすることで、伝統への彼の深い尊敬を表しました。

1951年2月9日の典礼聖省で、教皇ピオ12世は、復活祭の徹夜の祈りの再開を、聖土曜日の朝から夜に再度移行することを公認しました。この改訂には多くの信頼できる理由がありますが、その中で聖土曜日は多くの労働者のために休日ではなくなり、前日の祈りはしばしば事実上、空っぽの教会で祝われていました。1955年に彼はミサ典書のルブリカの改訂と、主として教会暦に関連した聖務日課を公認しました。──このようにして、聖ピオ10世によって着手された作業は続きました。1955年11月18日、彼は聖週間の儀式の改訂の教令 Maxima Redemptionis(マクシマ・レデンプティオニス)を認めました。全ての改訂には十分な理由があり、以前の儀式との連続性がその証拠でした。教皇クレメント8世が Cum Sanctissimum で注意したように「これらの改良は、しかしながら、あたかも同じ源泉と同じ原則から流れており、新しい何かを導入すると言うよりは...意味を完成させているように見えます」。これらの改訂は、教皇パウロ6世の改革 ** に執念深く反対している伝統主義者たちの何名かからは歓迎され、高く評価されていますが、言うまでも無く、ミサの通常文 * は、これらの改訂の影響すら受けてはいないのです。

* ミサの不変部分は「通常文」と名付けられています。各ミサごとに変わる部分は「固有文」と名付けられています。このように、例え新しい聖人が列聖されても、新しい固有文がミサ典書に追加されるのです。

** 現在の典礼革命への最も一貫して学究的な反対が、フランスの批評 Itineraires で見付かりましたが、この批判は教皇ピオ12世の改訂をほめたたえる以外の何ものでもありませんでした。(1975年4月12日のNo.12 参照)エコンでの 聖週間の行事は Maxima redemptionis を守りました。

1955年3月23日、教皇ピオ12世は、教会暦に関するルブリカの改訂を公認しました。これは、聖ピオ10世によって着手された改訂と調和していました。この改訂は教皇ヨハネ23世の1960年7月25日の使徒的書簡 Novum Rubricarum(ノヴム・ルブリカルム)に引き継がれました。その表題(ローマ聖務日課とミサ典書の新しいルブリカ集)が示す通り、この改訂は主にルブリカと特に教会暦に関してでした。しかしながら、彼は通常文もいくつか変更しました。それらは教義的な重要性はないのですが、不幸なことに先例になってしまいました。最初の変更は最も小さなもので、詩篇 Judica me(ユディカ・メ)と、最後の福音を、ある場合には省略するというものでした。2回目は、Confiteor(コンフィテオール)と、人々の聖体拝領前の赦しを落としました。これはミサが一人だけで捧げられ、司祭だけが聖体拝領するならば、典礼の本質的部分ではないというのは、正しい根拠でしょう。それにもかかわらず、それは1570年以来、ミサの通常文への最初の変更で、それに続いて、聖ヨゼフの名前が1962年12月にカノンに追加されました。これは大聖グレゴリオの時代以来、カノンには変更がなされたことがなかったという伝統を中断してしまいましたが、これらの変更は聖ピオ5世のミサ典書を実質上変更することなく残しています。

典礼改革と発達の原則

トレント公会議までは、典礼が地域的に発達したか、またはより古くて威信ある教会から借りてきた習慣の集まりとして発達してきたことを、本冊子ではお伝えしてきました。ローマ典礼では、広範な国家的統一が自然に発達したにもかかわらず、各司教は自らの教区では自由に法律を制定していました。トレント公会議後、ローマミサ典書の使用は、ローマ典礼ではほとんど一般的となりましたが、クオ・プリムムにある例外のためと、ある複数の地域、特にフランスでは、何名かの司教は布告を無視し続け、彼ら自身のミサ典書と聖務日課をおよそ19世紀まで使用し続けました。ドム・ゲランジェは、フランスでローマミサ典書と聖務日課の使用を広めることに専心しました。後の教皇による改訂は、どれも1960年までは、ミサ典書を聖ピオ5世が発布した形に復旧させることで、新しい特別儀式の追加やルブリカの改訂──特に教会暦──音楽標記や詩篇の翻訳の改良、そして聖週間の行事の簡素化と合理化でした。これらの改訂は、どの教皇も、布告クオ・プリムムが将来、ミサ典書へのいかなる改訂も全く許さなかった、などとは想像していなかったことを示しています。布告が禁じたのは、教皇以外のだれも率先してミサ典書を変更してはならないということでした。デュラック神父は、法の基本的原則は “Par in parem potestatem non habet” つまり同格者は互いに対する権力を持たない、と説明しています。クオ・プリムムの最後に含まれているミサへの変更を禁じる条項が、その後の他の教皇が修正や廃止した法律に見付かり、関係した教皇が権限を越えた提案をしたことなど決してありませんでした。

しかしながら、教皇が法律的権利を持つことと、事実上の権利を持つこととは、区別することができます。ここでは、とても極端な一例を示すだけで十分でしょう。ローマ司教でバチカン市国の主権者である教皇は、聖ペトロ大聖堂を解体させて、今の時代の精神を反映していて、現代人によりアピールできるであろう、と彼が思うようなコンクリートの巨大な建物に置き換えように命じることはできるでしょう。明らかに、このような行動は人々を激怒させるでしょう。教皇は聖ペトロ大聖堂の所有者ではなく、管理者です。彼がこのような行動を取ることもできるような法律的権力を持っているという事実は、彼にそのようなことを行なうことが出来るような事実上の権利を与えるものではありません。どのような教皇であっても、このような行動を起こそうと思えば、激怒した信者が立ち上がって彼を阻むので、そのような行動は成功しないだろう、と私は確信します。同様に、英国女王は戴冠用宝玉を処分したり、バッキンガム宮殿を壊してショッピングモールに置き換えるために、売りに出す等ということもできないでしょう。

デュラック神父は、前任教皇の法律の廃止は、以下の原理に基づいて管理すべきである、という提案をしています。

もし教皇に、同じ権力を持つ他の教皇が拘束したものを、解く権力があるならば、彼はこの権利を最も重要で、確かな理由のためにのみ使うべきです。それは、彼の前任者が、自ら作った法律を、自ら無効にさせたいと促すような理由です。そうでなければ、最高権力の本質は、矛盾した命令の連続で、自ら腐食してしまいます。

後の時代の教皇による、聖ピオ5世のミサ典書への改訂版は全て異なるものですが、同じ状況下では彼も行なったであろうということは明白です。──それらは、彼の仕事との矛盾では無く、連続性を表しています。これらの改訂版はミサ典書を実質的には変更していません。教皇ヨハネ23世のミサ典書は、そのまま聖ピオ5世のミサ典書であるということに、疑う余地は全くありません。クオ・プリムムに従った改訂は、トレント公会議によって設立された委員会の連続作業であると言えば、最も適切に説明できます。

デュラック神父は、クオ・プリムムが廃止ということをあり得ないものとする、3つの特徴を備えていると考えています。

  1. 意図される目的は、統一した公の祈りによって、信仰の統一が守られ、明示されるために、ミサ典書が1つであるべきということです。

  2. その制定方法は、多くの可能性から考え出された人工的な創作でもなければ、急進的改革でもなく、古代のローマ・ミサ典書への回帰でした。このミサ典書が、平穏な未来を最もよく保証するものであるということは、過去が良く証明してきました。

  3. その原作者は教皇であり、彼は公会議のはっきりした望みに的確に一致し、ローマ教会の不断の伝統に従い、そしてミサ典書の主要部分に関する限り、普遍の教会に基づいて、使徒的権威を伴って全力で実行するのです。

聖ピオ5世のミサ典書は、トレント公会議の権威を伴っており、プロテスタントの異端に反するカトリックの御聖体の教えに、変わることの無い典礼表現を付けようとしたのであったという事実は、ミサ典書が実質的に永久に変わること無く保たれる事の論拠として、実に説得力があります。

一つのことは明白です。聖ピオ5世のミサ典書から教皇パウロ6世のミサ典書への取替えを、教皇パウロ6世は単に教皇クレメント8世に始まり教皇ヨハネ23世で終わる一連の改訂を継続しただけであったと主張する事によって、正当化しようとするのは、単に学問的でないというだけでなく、不正です。教皇ヨハネ23世のミサ典書にはクオ・プリムムが序文にあり、聖ピオ5世のミサ典書との連続性が強調されています。教皇パウロ6世のミサ典書で私が好きな一つの点は、編集者たちが少なくとも非常に正直であったので、クオ・プリムムやクム・サンクティスィム、スィ・クゥィド・エスト、ディヴィノ・アフラトゥを序章には入れなかった事です。新ミサ典書は以前のローマミサ典書の改訂版に過ぎないと主張する、新ミサ典書の擁護者は、もしこれが本当なら、なぜこれらの文書が削除されたのか、という事について説明するのに苦労するはずです。第二バチカン公会議以降に行なわれたのは、既存の典礼の一般的な復興では無くして、新しいミサ規定、ノブス・オルド・ミサの創作、それは典礼法が認めてもいないものでした。

第二バチカン公会議の典礼革命の理由と結果は、モンシニョール・ルフェーブルによって最も正確に要約されています。

これら全ての変更には、一つの理由しかありません。一人のプロテスタントを信仰に引き寄せることもなく、無数のカトリック信者にそれを失わせる、そして何が真実か、何が誤りかをもはや知らないさらに多くの心に、完全な混乱を吹き込む常軌を逸した無意味なキリスト教統一運動です。18

もし、私たちが真実にしっかりとつかまり、偽りを避けようと望むならば、私たちは17世紀の偉大なフランスの司教ジャック・ボシュエが彼の教区内の新しいカトリック信者たちに宛てた司牧的書簡の助言に従うのが一番です:

私たちは、祖先たちの信仰を非難せず、私たちがそれを受け取ったままに、それを正確に伝えます。神は、真実が牧者から牧者へと、手から手へと、いかなる明白な新奇さもなく伝えられることをお望みです。この方法によって、私たちは、何がこれまでずっと信じられてきたか、従って何を常に信じなければならないかを認識します。言うなれば、always(常に)という言葉から、真実と約束がそれらの権威を得るのです。その権威は中断がいかなる場所であっても見付かると、完全に直ちに消えてしまうのです。

注記

1.The Devastated Vineyard (Chicago, 1973), pp.3-5.

2.Ibid., P.19.

3.Ibid.

4.A Bishop Speaks (Edinburgh, 1976), PP. 37-38.

5.The Decomposition of Catholicism (London, 1970), P.99

6.The Development of Christian Doctrine, ch. V, sect. vi

7.The complete text of Memoriale Domini is included in Communion in the Hand and Similar Frauds.

8.Mediator Dei, paras. 66 and 67.

9.The Angelus, July 1979, p.4.

10.The Tablet, 25 October 1975, p. 1040.

11.Demain la Liturgie (Paris, 1976), pp. 9-10.

12.A much longer extract from this statement is available in The Roman Rite Destroyed, p. 30.

13.Op.cit., Note 5, p. 1.

14.The Catholic Encyclopedia (1912), Vol. XIII, p. 65.

15.Ibid., Vol IX, p. 312.

16.Denzinger Enchiridion Symbolorum (31st Edition), No. 873a.

17.A. Fortescue, The Mass (London, 1917), p. 209.

18.World Trends, May 1974.

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