マイケル・デイヴィース著
ルフェーヴル大司教と「信教の自由に関する宣言」

転載元 http://hvri.gouketu.com/religiousliberty2.htm
ルフェーヴル大司教と「信教の自由に関する宣言」
マイケル・デイヴィース著
成相明人 訳
(以下はわずか17ページの小冊子 "Archbishop Lefebre and RELIGIOUS LIBERTY" の訳です。読者が不適切な訳、分かりにくい訳、誤字等を発見したらメールでお知らせ下さい。校正が済み次第出版する予定です。同著者による「第二バチカン公会議と信教の自由」というもう一つの関連ファイルもありますが、これはそれが完成するまでの暫定的ファイルと思ってくださって結構です。)
ルフェーヴル大司教の批判者たちは、同大司教が第二バチカン公会議の文書を受け入れなかったと主張しています。しかし、真実は全部で十六ある文書の十四に署名し、二つに関してだけ拒否したのです。そのうちの一つは現代世界憲章(Gaudium et spes)です。この憲章は直接にカトリックの教えに反していなくても、その基調がカトリック的であるとは言い難く、カトリックの司教であれば署名を拒否するのが当然とさえ言えます。この文書の欠陥に関して知りたければ、教皇ヨハネの公会議(Pope John's Council)の索引で、教会憲章の項を見て下さればすぐに分かります。
ルフェーヴル大司教が署名を拒否したもう一つの文書は「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis humanae)です。この場合、彼が拒否した理由はそこに見られる教義でした。第二バチカン公会議文書は教会の通常教導職の範疇に属します。そのような場合、以前の教えと矛盾する新しい教えがあれば、誤謬があり得るのです。この文書の場合、伝統的に諸教皇が教えてきたことと矛盾していない、と言いかねる箇所がいくつか見られます。第二条に「あるいは公的に」(et publice)という二つの言葉がありますが、これは伝統的教義に真っ向から反しているように思われます。
ナショナル・カトリック・レジスターのポール・H・ハレット氏は恐らく、米国でもっとも尊敬され、かつ学識の深いカトリック信徒ジャーナリストでしょう。一九七七年七月三日、彼は次のように書いています。
「信教の自由に関する宣言」は信仰に関する声明ではありません。また、信教の自由に関して教会が従来教えてきた教えに基づくものでもありません。ですから、その曖昧さに関して説明を要求するのは信仰に不忠実であることとは異なります。そこに曖昧さが存在しないかのように振る舞うことは決して良いことではありません。
ハレット氏は、この宣言に見られるさらにいくつかの不満足な箇所を挙げて批判を加え、「この宣言に書かれてあるいくつかの文章は、さらに明瞭にされ、伝統に忠実である必要がある」と結論しました。不幸なことに、「保守的カトリック信者」を含むルフェーヴル大司教の批判者たちは、大司教を非難することにかまけて、彼の主張に耳を傾けようとしませんでした。これらの人々がハレット氏に倣っていれば、信教の自由だけでなく他の面でも、大司教の立場がよりよく理解できたはずです。しかし、大声を上げて非難する方が、念を入れて研究するよりも簡単なのです。
教皇レオ十三世は、回勅『リベルタス・フマナ』で、現代社会は、すべての人が権利として持っているとする一群のいわゆる自由がある、と信じこんでいる、と警告しておられます。その理由として考えられるのは、自由思想家たちが推進する基本的主張がもはや自明の真理としてカトリック信者でさえも認めるようになったほど、彼らが成功しているという事実によるものでしょう。自由主義の核心は個としての人間には自分の生き方を決定づける規範を自分で決定する権利があるということに尽きます。何が善であり、何が悪であるかは自分に決定する権利があると思うのが自由主義者です。だから、彼にはどのような外的権威に服する義務がないと考えるのです。自由主義的に考えると、良心の自由とは宗教とか道徳の分野でも、自分が望むことを考え、信じる自由のことです。それは、個人的会話、マスメディア、その他の手段で、自分の考えを発表し、他人にもそう考えるように誘導する自由のことです。自分の発言で社会秩序を乱さないかぎり、彼を束縛するものは何もありません。つまり、国家はすべての宗教に同等の権利を与えなければならないということです。
『リベルタス・フマナ』で教皇レオ十三世が断罪したのは、まさにこのような理論でした。教皇は、国家が「最終的には無神論になってしまうような政策を採用すること、つまり、種々の(自称)宗教を平等に遇し、それらに同じ権利と特権を平等に与えること」は、許されないのは少しでも考えると分かると教えておられます。そこからして、国民の大多数がカトリック信者であれば、そのような国家はカトリックの国家であるべきです。このような国家にあって、法律は神法に基づくべきであり、国家行事における宗教儀式はカトリックの典礼に基づくものでなければなりません。さらに、カトリック教会には教育の分野などでは特権的地位が確保されなければなりません。その理由は、すべての権威は神に由来するからです。教皇レオ十三世は回勅『インモルターレ・デイ』に次のように書いておられます。
…というのは神のみが真理であり世界の至高主であられるからです。例外なくすべてのものが神に従い、仕えなければなりません。ですから、国家を治めるものはだれであっても、その力を、その唯一の源つまり、すべてを治める方であられる神から受けるのです。
現今使用されている意味で教皇が民主主義を断罪されるのは、この教えに基づくのです。もし、治める者の権威が国民に由来し、国家の法律は民衆の多数が希望することを反映しなければならない、とするのが民主主義であれば、諸教皇はこれを断罪してきたのです。この考え方によれば、もし大多数の国民が離婚、中絶、安楽死、ポルノ販売の許可を希望するのであれば、これを国家の法律が許可するように書き換えなければならないことになります。『インモルターレ・デイ』の引用からも分かるように、教会の教えによれば、権威は神から由来し、治める者は神の代理者として治めるのです。教会は、もし、国民の投票に基づいて自分たちを治める者を選出するのであれば、ことさら反対しません。教会は特定の政治形態を支持するものではありません。教会は専制君主であっても、議会法による民主主義であっても協力を拒みません。教会は治める人たちがどのような方法で選出されるとしても、彼らが自分たちに与えられた権威を神法に基づいて行使するように主張するのです。それが神法でであれば、個人であっても、国家であっても犯す権利を持っているわけがありません。教皇レオ十三世が教えられたように、神が「至高にしてすべてを治める方」であれば、その法を犯すことが権利であって、乱用でないなどと主張するはナンセンスです。すべての人は救い主イエズスの権力に服さなければなりません。教皇ピオ十一世はその回勅『クワス・プリマス』で、この点について次のように書いておられます。
この点に関して、個人、家庭、国家の間にも違いはありません。なぜなら、すべての人は個人としてもグループとしても、キリストの支配の下にあるからです。キリストのうちに個人の救いも社会の救いもあります。
カトリック国家の存在を前提とすれば、国家が取るべき少数派の宗教に対する正しい態度がどのようなものであるべきかという問題が生じます。エクレジアスティカル・レヴューの一九五〇年九月号に、モンシニョール・W・シーは、次のように書いています。
この点について、まずはカトリックの宗教を、国家が非カトリック信者に強制することがあってはならない、ということに注意しなければなりません。個人の良心に対する尊敬があれば、また、宗教とか信仰行為の性質からしてもこれは当然のことです。こういうことは強制されるのであれば無効になります。
(不幸なことに、カトリック教会の歴史において、それが必ずしも守られていたわけではありませんが)カトリック神学の基本原則によれば、公的にも個人的にも、自分の良心に反する行為を強制されることがあってはなりません。また同様に、(自然法に反するのでない限り)個人的に自分の良心に従って行動する際、同じように、妨害を受けない権利があります。このように、大体において、教皇領ではユダヤ人に対する寛容策が取られていました。ユダヤ人たちが私的礼拝のために集まることは許可されていましたが、公の場所での礼拝とかカトリック信者を改宗させることは許可されていませんでした。この最後の点は本書の核心になります。つまり、カトリック国家には異端の公的表現を制限する権利がある、とするのは諸教皇が一貫して教えてきたことなのです。ですから、カトリック国家で、プロテスタントにミサ参加を強制することはできません。しかし、彼らが自分たちの礼拝の場所以外に広告を張り出したり、礼拝時間のお知らせをしたり、戸外で公に宗教儀式をすることは禁止することができるのです。わたしが英国陸軍に在籍していたころのマルタ島がその良い例です。プロテスタントの牧師たちは町中でローマンカラーを着用することすら許可されていませんでした。軍隊付きの牧師たちでさえもこのような法律に規制されていたものです。同じく、カトリック国家で、プロテスタントは実体変化の信仰を表明するよう強制されることはありませんが、文書でも口頭でも、公にこの教義を非難することは許されないのです。一九四九年、レデンプトール会のフランシス・F・コンネル神父はこの点を次のように説明しています。
ですから、国家は国民が自由恋愛を宣伝することを禁止することができるように、御聖体の中にキリストが存在しないというような、カトリック信者に損害を与える教えを広めることを禁止することができます。1
また、コンネル神父によると、カトリック国家が異端を抑圧する権利を持ってはいても、これはそうしなければならないという義務ではありません。カトリック国家内に少数派とはいえどある程度の数を占める人たちがいれば、彼らが異端を表明する自由を宣伝することによって善よりもさらに大きな悪が生じるかもしれません。このような場合、異端は二つの悪のうちより小さな悪として容認されることになります。そのような悪の例として挙げられるのは、フランスでプロテスタントを抑圧しようとして起きた内戦です。しかし、容認されるべきものと正しいことの違いは明白であり、かつ重要です。
以上をまとめると、諸教皇が一致して教えてきたことはカトリック国家には異端の公的表現を制限する権利があっても、その義務はありません。抑圧が善より悪をもたらすのであれば、容認政策の方が勧められるでしょう。カトリック国家の為政者が宗教的少数派に対する政策を決定する際、基準にしなければならないのは共通善です。一般社会の目的はその国民の世俗的共通善、つまり、この世における国民の善の推進です。しかし、人間は超自然的生命に召されているのですから、その共通善は人間の超自然的目的を視野に入れなければなりません。ですから、カトリックの政府は国民がキリストの超自然的法を守れるように尽力しなければなりません。これは国民を異端とか不道徳に陥ることのないように保護する手段を執ることが可能であることを意味します。自由主義者たちは公共の秩序を乱さない限り、どの市民にも自分の好む手段でもって、自分の考えを表明する権利があると主張します。ポール・ハレット氏は、それが余りにも制限された意味を持ちうることに気づきました。一九七七年七月三日の記事で彼は次のように書いています。
それは、民の福利にとって重大な脅威になることに対応する保護策を含むことができ、また含むべきです。ここからして、真にキリスト教の政府であれば、キリストの神性を否定するような劇は、目に見えるような争乱が生じないとしても、放映を禁止するはずです。
1864年、教皇ピオ九世は回勅『クァンタ・クーラ』で「聖書と諸教父の教えに反して、意図的に、公共の平和が要求しない限り、カトリックの宗教を誹謗する者を政府が定の刑罰で処罰する義務が認められないのが政府の最良の形態である」と主張する者たちを譴責なさいました。
異端を公に宣伝することを禁止しようとすれば、結果的に善より悪をもたらすようなカトリックの国は少数でしかないかも知れません。しかし、例えこういう事実があったとしても、カトリックの政府には、共通善が要求するのであれば、このような行動を取る権利があるという事実を変えるものはありません。以下、コンネル神父の主張を読んでください。
しかし、カトリック信徒の国民の霊的福祉に有害であったり、キリストの真の宗教を誹謗するものであったりしかねない偽りの宗教が、公に催し事をしたり活動したりすることを禁止もしくは制限する権利が為政者にあるのは当然です。しかし、現代にあっては、しばしば、このような政策は、これらを完全に放任するよりも、もっと大きな悪をもたらすでしょう。しかし、原則は不変です(強調は著者による) 。2
教会は、例えば自分が少数派である米国のような国では、他の宗教と同等の権利を主張し、マルタとかスペインのように自分が多数派であれば特権的地位を要求する、という不平等な二重基準を要求している、としばしば非難されてきました。教会が唯一にして真の教会であるとする主張を認めない者でも、少なくとも、この主張によって、教会の態度が一貫しており、それが真理の権利に基づいていることは認めるべきです。一九六四年十月、教皇ピオ十二世はその教話「エッコ・ケ・ジア・ウン・アンノ」の中で、以下を述べておられます。
以前にも述べたように、カトリック教会は完全社会であり、その基盤は神によって誤ることなく啓示された真理です。そのために、この真理に反するものは必然的に誤謬に他なりません。そして、客観的に真理に与えられているのと同じ権利が誤謬に与えられてはなりません。同じく、思想の自由と良心の自由は啓示における神の真実のうちに、その本質に由来する制限を受けます。
誤謬は抽象であり、従って初めから権利を持ちようがない、という理由で、「誤謬に権利はない」 という原則は自由主義者、特にジョン・コートニー・マレー神父から攻撃されています。人格もしくは法人だけに権利があるのであれば「誤謬に権利はないという原則自体が無意味である」という主張がなされました。このような議論はずるいだけでなく、愚かでしかありません。コンネル神父は一九四六年のアメリカン・エクレジアスティエル・レヴューの記事でこの愚説を論破しています。
ある人たちは誤謬に権利がないとしても、自分の責任でないのに間違った教えを信じている人たちにはそうする権利がある、と主張しようとしてきました。しかし、忘れてならないのは、誤謬は人間によってのみ信じられ、広められ、活性化されるので、もし、だれかが「人間には誤謬を広める権利がある」と言うのであれば、同時に「誤謬に広められる権利がない」と言うことが何を意味するか不明です。つまり、両方の場合に「権利」が同じ意味で使われるのであれば…です。客観的に誤謬であることとか道徳的に間違っていることを信じ、広め、実践する真正な権利がだれかにあるとは考えられません。真正な権利は客観的に真理であり善であることに基づいているからです。3
モンシニョール・シーとかコンネル神父のような神学者は、国家には公の異端を弾圧する権利がないとか、真理にも誤謬にも同じ権利が与えられるべきである、とかの主張を非常に厳しい言葉で断罪してきた諸教皇の指導を忠実に反映しています。教皇ピオ七世はボローニャの司教に宛てた手紙の中でこのような主張を「とんでもない、非難されるべき異端」であるとされました。教皇グレゴリオ十四世は回勅『ミラーリ・ヴォス』でそれを「気違い沙汰」 として断罪なさいました。ピオ十世は回勅『クイ・プルリブス』では「怪物のような誤謬」 、回勅『クァンタ・クーラ』では「カトリック教会と魂の救いにとってもっとも有害である」、シラブス・エロールム(誤謬一覧)では「人々の道徳と知性を腐敗させる」もの、また、「無関心主義という疫病」を拡散するものである、とされました。教皇レオ十三世は回勅『インモルターレ・デイ』で、それを「公の犯罪」とか「名前こそ異なっていても無神論」である、回勅『リベルタス』では「理性に反するもの」である、とされました。
明白であるのは、諸教皇が真理の権利について常に強張してきたことを現代の進歩主義者たちはひどく忌み嫌っているということです。誤謬を拡散する権利を含む無形源の自由が至上の基準であるようです。このような自由は、フリーメーソンに影響されたフランス革命の人権宣言と同じで、唯一の制限は公共秩序の要求だけでした。現代アメリカ社会に受け入れられるようなカトリシズム、を熱望していたマレー神父のようなカトリックの進歩主義者たちにとって、カトリック国家に誤謬を弾圧する権利があるなど、とは恥ずかしいことでさえありました。疑いなく、彼の努力は善意のものではあったでしょうし、それが教会の利益になると信じていたには違いありません。彼が強く主張していたのは、上述の諸教皇の教えは教会史の特定の時期に関連するものであって、永久的な有効性はない、ということでした。一九五三年五月、アメリカン・エクレジアスティカル・レヴューで、この意見に反論したのは、何と、オッタヴィアーニ枢機卿自身でした。
これらの人たちが犯した第一の間違いは、真理の武具と過去の世紀における諸教皇、特に現在の教皇ピオ十二世が、この点について回勅、教話、その他あらゆる機会に与えられた指導を心から受け入れようとしなかったことです。
自分たちを正当化しようとして、これらの人々は教会の教えには永久的なものと一時的なものの二種類があると主張します。彼らは、後者が特定の時代に当てはまる条件を反映するものでしかない、と主張します。
不幸なことに、彼らはこの戦術を教皇文書で教えられている原則にまで当てはめようとします。これらの原則がトリック教義の遺産の一部になってしまうほど、諸教皇の教えは一貫していました。(強調は著者による) 。
ディグニターテ・フマネ 第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」
この宣言は第二バチカン公会議文書の中で最重要文書の一つです。第二バチカン公会議後の楽天的風潮は、それ無しには考えられません。教会がカトリック国家には異端の表現を抑圧する権利があると主張し続ける限り、教会一致運動の顕著な進歩は不可能なはずでした。
公会議前、ポール・ブランシャードは、全米切っての反カトリック毒舌家でした。彼が忌み嫌っていたのは信仰の自由に関する教会の教えでした。彼が「信仰の自由に関する宣言」を激賞している事実は、伝統的教義が妥協に追い込まれていることを意味するので、正にこの文書に死刑宣告を下すようなものです。ブランシャードは、「信教の自由に関する宣言」が「カトリックの政策にとっては大きな進歩であったし、おそらく公会議四会期中で原則におけるもっとも大きな進歩であった」と主張しました。4  彼はこの宣言第二条に「最良の段落がある」5  ことに気づいたのです。この宣言の草稿作成とその推進に当たってマレー神父と協力したモンシニョール・パヴァンも同じ意見でした。モンシニョール・パヴァンは「信教の自由に関する宣言」の解説を書き、それはフォルグリムラー神父のCommentary on the Documents of Vataican II(第二バチカン公会議文書の解説)に掲載されています。この本は高い評価を受けていまが、このような評価の理由は、公会議を高く評価する進歩主義者たちの仮説全部がそこに述べられてあるからです。モンシニョール・パヴァンは「第二条は疑いもなくこの宣言の中でもっとも重要である」と解説しています。6  それは、教導職の修正がない限り、公会議全文書の中でも確かに最重要であるかも知れません。なぜなら、それは一貫して繰り返されてきた、従って不可謬であり得る教皇職の教えに反しているだけでなく、含蓄的には、王であるキリストを否定することにもなりかねないからです。
このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく…
この点までは伝統的教義と両立します。でも以下を読んでください。
また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある…
「公的に」という点が従来の教義と異なっています。「正しい範囲内で」という箇所も、それがもし「共通善に反しない限り」となっていれば、問題がなかったでしょう。でも、メーソンの影響を受けた人権宣言に従って、「正しい範囲内で」は後から「公共の秩序」とされるようになるのです。
宣言は以下のように続きます。
なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを公会議は宣言する。
「あるいは公的に」と言う言葉が使用されると、その瞬間から、この宣言にある「信教の自由」が外的フォーラムでは、公共の秩序の要求によってのみ制限されることになり、啓示された神の言葉と理性とに合致せずに済むことを、忘れてはなりません。もし、旧約聖書を通じて明白に教えられている教義が一つあるとすれば、それは外的フォーラムでは何人も誤謬を宣伝する権利がないということです。これに反する者に神が課した罰則は死でした。神が人権として確立した権利を人間が行使すれば、このような人間が死刑にされることを神が命じた、と信じなければならないのでしょうか。また、人間には誤謬を公の場で教える生来の権利があるという主張も納得できません。中傷とか悪口に関する市民法もこの点を明白にしてくれます。
以下はモンシニョール・パヴァンの解説です。
…この宣言が何度も繰り返すように、信教の自由に関する権利は、人間にとって基本的権利もしくは生来の権利、つまり人間の性質に基づいている権利です。7  (強調は著者による)
これをコンネル神父の書いたものと比較してください。
疑いもなく、「礼拝の自由」という表現を、普通、非カトリック信徒は次のように理解しています。つまり、「四つの自由」を主張するとき、彼らが個人的に気に入った宗教を受け入れ、実践するのは、神に由来する権利によるというのです。良心的なカトリック信者であれば、礼拝の自由に関するこのような自由を主張することはできません。なぜなら、カトリックの原理によれば、存在する権利がある唯一の宗教は神が啓示して、すべての人に義務として課している宗教だけです。そこからして、人間には真の宗教を受け入れる生来で神与の自由だけがあります。誠実に何らかの非カトリックの宗教を実践しなければならないと信じている人はそうする良心上の義務があります。しかし、間違った良心に基づくこの主観的義務は、彼に真の権利を与えるものではありません。真の権利は客観的で、真理に基づかなければなりません。ですから、絶対的に言って、カトリック国民の霊的損害を防止するために、非カトリック宗派の活動を制限する権利がカトリックの国家にあることを否定するような信教の自由をカトリック信者は弁護してはなりません。8
以下は第二バチカン公会議の宣言の続きです。
信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。
回勅『クァンタ・クーラ』で、教皇ピオ九世は次のような考えを主張する人たちを断罪なさっています。
…カトリック教会と魂の救いにとって極めて有害で、(先ほども引用した)グレゴリオ十六世が狂気の沙汰(deliramentum)(回勅、1832年8月13日)とさえ呼んだ間違った意見、つまり「良心と宗教の自由は法律によって保証されるべきすべての人の基本的人権である」と、敢えて述べる者は断罪される…
コンネル神父がカトリック信者であれば主張してはならない、としたことは、正にこの宣言が権利として宣言しているのです。モンシニョール・パヴァンはその解説の中で「宗教に関しては誰であっても、自分の良心に反するよう強制されてはならない。また、誰であっても自分の良心に従って行動することを妨げられては鳴らない」(強調は著者による)。
「クアンタ・クーラ」と信教の自由宣言が両立できると思わないのは伝統主義者たちだけではありません。後者が前者の発展したものであると誰が言えるのでしょうか?  また、信教の自由にに関する教皇の教えの中で「クアンタ・クーラ」とシラブスが占める重要性を鑑みても、信教の自由宣言の脚注にそのいずれも記されていないことは奇異な感じを与えます。「最近の諸教皇」による教えの参照箇所が多くなる中で、その引用箇所の一つとして、外的フォラムにおける信教の自由に関する権利に付いて触れていません。伝統的教えとの離反する点は、突き詰めて言えば、「信教の自由に関する宣言」にあるラテン語の二つの単語 "et publice"(そして公に)です。伝統的教義と第二バチカン公会議の教義が合法的発展であることを証明するに当たって困難を感じた多くの伝統軽視主義者の中に4」人公会議のペリティがいます。彼らの証言は最重要です。なぜなら、その中でも最初の3人は宣言の草案作成自体にもっとも深く関わっていたからです。その3人はイエズス会のジョン・コートニー・マレー神父、ドミニコ会のイーヴ・コンガール神父、ハンス・キュング神父です。
マレー神父は、信仰の自由に関する宣言の教義が発展であると誰も説明できないことを、公に認めています。しかし、彼は単にそれが従来の教えの発展であると主張しています。
シラブス(1864)がどのようにして信仰の自由に関する宣言(1965)に発展したかは、今後、神学者たちによって解明されなければならない。9
モンシニョール・パヴァンは、以前の教皇文書で信仰の自由に関する宣言と一致する者がないことを認めています。せいぜい、最近の教皇が何人かはそれに「近づく傾向があった」と主張する程度でした。しかし、これらの教皇たちの中には、伝統的立場を強く擁護したピオ十一世とピオ十二世が含まれているのは、一体どういうことでしょうか。以下はモンシニョール・パヴァンの文章です。
…もちろん、教義的な発展はありました。その最後の段階においては、公会議文書で言われていることとまったく同じではないにしても、それに近づきつつありました。
コンガール神父は「信教の自由に関する宣言」第二条に関して、以下を書いています。
この様なテキストが、1864年のシラブスと異なるどころか、文書の命題15と77-79とはほとんど反対でさえあることを実際に述べていることは否定できません。10
1977年10月21日、ナショナル・カトリック・リポーターに掲載されたハンス・キュングのインタビューには、以下があります。
最近の著作で彼は、保守主義者たちには正しい答えがないかも知れないが、しばしば彼らは正しい質問をする、ルフェーヴルも例外ではない、と述べています。
「わたしの意見によれば、彼は間違っているが、彼が疑問にしているところは理論的には未回答の質問である」
キュングによれば、ルフェーヴルには公会議文書「信教の自由に関する宣言」について疑問に思う権利があります。なぜなら、第二バチカン公会議は説明も無しにそれまでの立場を完全に逆転してしまったからです。
キュングによると、公会議はその問題をうやむやにしてしまいました。なぜなら、そこには不可謬権の問題が絡んでくるからです…彼は(信教の自由に関して公会議をリードした米国人)コートニー・マレー神父と夜遅くまで交わした会話に思いを馳せます。
「複数の公会議教父たちは『単に発展という考え方で、それまで断罪されていた信教の自由を今度はどうして肯定できるようになるのだろうか。それはあまりにも複雑すぎて説明できない』と言っていました」
キュングにとっても、この問題が解決されているわけではありません。それは教義の永続性、継続性、不可謬性を考慮に入れることなしには解決不可能です。そのために、司教達が19世紀に不可謬的に決定したことが20世紀には通用しない、とでも言わなければならないのかも知れません(強調は著者による)。
しかし、何と言っても、「信教の自由に関する宣言」にとってもっとも手厳しい断罪は激しい反カトリックのポール・ブランジャードから寄せられた賛辞でしょう。彼はそれを「カトリック教会の政策における大きな進歩、おそらく4会期中に成し遂げられた原則上の最大の進歩」とまで褒め讃えられているのです。ブランシャード自身の文章を読んでください。
何世紀も遅れた挙げ句、カトリシズムは、175年以上前から米国憲法に書かれていたことを今頃やっと提唱することで、少なくとも部分的に、国連、西欧プロテスタント教会、ヨーロッパの社会民主諸党に肩を並べた…信教の自由についての最後の声明は重要な成果であったと言えよう。11  これで、宗教の自由を勝ちとる世界中での戦いがさらに容易になることであろう。これからは、全ての自由主義者も自由の原則を認めるカトリック教会の公的宣言を引用することができる。
しかし、ブランシャードは、起ったことが教義の発展でなく変更であることで大喜びしているのです。第二バチカン公会議がブランシャードの立場に立ったことを彼は喜んでいるのです。正に彼が言っているとおり、これは以前からの伝統的教義をひっくり返すことによってのみ可能でした。教会のこの伝統に反対し続けてきたブランシャードですから、誰よりも以前の教義がどんなものであったかを知り尽くしていました。彼は教義の変更を発展という名目でごまかそうとする試みをせせら笑います。このような試みはせいぜいずるいとしか言えませんし、最悪の場合は不正直でさえあります。以下は彼の文。
米国司教団のスター、ジョン・コートニー・マレー神父の仕事は、月並みな司教達に、自分たちが伝統的教義が変更していると気づかないまま、古くからの教義をいくつか変更するためにどう言えばいいか教えることでした。彼は巧みに言葉の橋を架けて米国の司教達を誘導し、彼らは大喜びでその橋を渡ったものです。彼らは自分たちがこれで、良いアメリカの民主主義者であり、同時にカトリックの学者であることができると思いこんでいました。マレーは、カトリック教会の過去の指導者によるいくつかの教えは、特定の歴史的情況に合わせてあり、そのような情況は変わってしまったので、もはや現在の情況には適合しない、と論じました。教義は「発展」が可能であると彼は主張したものです。それが本当に変わってしまうことを認めないまま、それが変わり得る…何という巧妙なやり方でしょう。
教会が伝統を重んじる事実によって束縛されると感じた神学者達は、「変化しない教会」というこの巧妙な言い抜けをしばしば使用したものものです。このような言語的操作で知られているイエズス会の長上たちでさえも、しばしばこれを不正直であると考えたものです。公会議後、アメリカン・カトリック大学で教えていたイエズス会のジョン・C・フォード神父は「教義に反対するだけでなく、その矛盾を発達と進化の名の下に偽装するのは、神学的合法性を欠き、公平でも正直でもない」と主張したものです。13  (強調は著者による)。
ブランシャードは以下も言っています。
自分はしばしば、カトリック教会に関する意見が変わったか、人から聞かれます。その答えは「そのとおり」。しかし、それはカトリック教会が変化した程度に応じて…という程度です。
この重要問題に関するわたしの論文は必要上短いものでした。しかし、ポール・ハレットがナショナル・カトリック・レジスターに書いた記事「だから、信仰の不明瞭な点に関して疑問の解明を求めることは信仰への不忠実ではない。不明瞭な点が存在しない振りをすることによって得るところは何もない」の中で述べたことが、完全に正しかったことを明らかにするに足る証拠を提示できたと信じます。また、ルフェーヴル大司教を軽蔑して、「信教の自由に関する宣言」に対する彼の批判に耳を貸そうとしない、(必ずしも進歩主義者ではない)多くのカトリック信者たちは、正しくありません。ルフェーヴル大司教が第二バチカン公会議を批判したというだけの理由で、大司教の言い分に耳を傾けようともせずに断罪するのに、それほど知的努力と誠実の必要もありません。いや、公的なカトリック出版界では大司教の弁護も存在しないでしょうから、それほどの勇気もいりません。皮肉なことに、信教の自由憲章は、大司教に公の場で自分の考えを表現する自由を与えないことによって、守られることになりました。この件に関して両方の議論を研究したい、公平な心の持ち主のために、わたしは「信教の自由に関する宣言」について本を書きました。その出版は1980年の予定です。
この補遺は、ポール・ハレットが1977年7月3日に書いた記事からの引用が最善の結論になることでしょう。
「信教の自由に関する宣言」には、数多く原則上のすばらしい記述が見られます。しばしば全ての宗教にとって脅威となる無神論に対してこういうことは主張されなければなりません。それは結構なことです。しかし、カトリックの宗教だけでなく、全ての宗教の保護のためには、「信教の自由に関する宣言」で歌われている以上に、ある事柄はさらに明白にされなければなりませんし、もっと伝統に忠実でなければなりません。
NOTES
The Amen'can Ecclesiastical Review has been abreviated as AER.
1. "Discussion of Government Repression of Heresy," Proceedings III (March 1949), pp. 98-101.
2. AER, No. 119, October 1948, p.250.
3. AER, No. 151, February 1964, p. 128.
4. Paul Blanshard on Vatican II (Beacon Press, Boston, 1966), p.339.
5. Ibid., p.89.
6. H. Vorgrimler, ed., Commentary on the Documents of Vatican II, IV, 64.
7. Ibid., p.65.
8. AER, No. 109, October 1943, p.255.
9. W. Abbott, The Documents of Vatican II (America Press, 1967), p.673.
10 Challenge to the Church (London, 1977), p. 44.
11 Bhnshard, p. 339.
12 Ibid., pp. 88-89.
13 Ibid., pp. 87-88.
14 Ibid., Preface.
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