当サイトはリンクフリー・引用転載フリーです。許可を取る必要はありません。
 

マイケル・デイヴィース著
両形色の聖体拝領

両形色の聖体拝領
「典礼革命——パウロ六世の新しいミサ」XXI章
マイケル・デイヴィース著
『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳
信徒が両形色の下に(sub utraque specie)聖体を受けることに関して、神学的異論が私にあるわけではありません。この点に関する論争はパンの形色のみの聖体拝領に神学的異議を申し立てた人たちによって引き起こされました。
十二世紀まで、聖体拝領はどの地方の教会でも普通両形色の下に授けられていました。この慣習は東方カトリック教会と正教会で現在に至るまで続いています。例えばウクライナ典礼のミサに与るラテン典礼のカトリック信者は、聖体拝領をその典礼独自の方法、つまり、司祭がホスチアの小片を御血に浸し、それを匙で舌の上に載せることが許されます。
ラテン典礼では、信徒がパンの形色の下でのみ御聖体をいただきますが、それには実際的、また規律上の理由がありました。別に神学的意味があってのことではありません。カトリック・エンサイクロペディアが挙げる理由の中には、この最も尊い秘跡への尊敬、御血をこぼすとかそのほかの危険、不便さ、大人数が御血を拝領するために要する時間の長さ、ミサが終わってから保存することの困難、同じカリスから大勢が拝領する際の極めて当然な衛生の問題などがあります。1
聖トマス・アクイナスは十三世紀に、ホスチアが信者に与えられてもカリスが与えられない「多くの教会での慣習」は、明らかにこれらの実際的理由によるものであり、そのほかに深い理由があるわけではない、と書いています。信徒に御血の拝領が許されないことについて教義的理由があるのではありません。聖人は、ミサの本質が私たちの主の御受難の再現であり、それが御体と御血の聖別によって実現すると言っています。ですから、二重の聖別はいけにえのために必要なのです。
私たちの主の受難は、御血無しに御体だけが聖別されることがあってならないこの秘跡の聖別の中に再現されます。
しかし、ミサはいけにえであり、秘跡でもあります。いけにえへの最も完全な参加は神的いけにえを拝領するときに実現されます。しかし、神的いけにえは単形色と比較して両形色の時にさらに完全に受けられるわけではありません。ですから、司式司祭は両形色の下に拝領をしなければなりませんが、そのほかの人たちがそうする必要はありません。
秘跡の完全性は両形色にあり、秘跡としては御体と御血両方を受けることがふさわしい。秘跡を聖別し、拝領する義務が司祭の義務であるので、司祭が御体だけ拝領して、御血を拝領しないことはどんな場合でも許されません。
 しかし、聖体拝領をする信者の側には、これほどの秘跡に対して何かふさわしくないことが起こらないように、最大級の尊敬が要求されます。さて、不敬は聖血の拝領のときに起こりやすいのです。なぜなら、もし不注意に御血をいただけば、それはこぼれやすいからです。そしてキリスト信者の数が増加したので、その中には老人もいるであろうし、若者も子供もいるであろうその中にはこの秘跡を受ける際に必要な注意を怠る者もいることが考えられます。そのためにある教会で御血を信者に拝領させずに、司祭だけが拝領するのは賢明な習慣です。…信者は御血無しに御体だけ受けても、それが秘跡を減じることにはなりません。司祭が全員に代わって御体と御血を受けるからです。そしてキリストはその両方の形色の下に完全に存在なさるからです。2
聖体拝領が両形色でなされていた時代にも例外は存在しました。テルトゥリアヌスや聖チプリアヌスは三世紀ごろから信徒が御聖体の小片を家で拝領するために持って帰り、保存する習慣が広くあったことを証言しています。おそらく迫害があった時代に発生したこの慣習については、四世紀の聖バジリオと聖ジェロニモも証言しています。これは東方教会では八世紀に至るまで続きました。病人とか子供たちには単形色の聖体拝領が許されました。ある東方教会では今でも、洗礼を受けた赤ちゃんがぶどう酒の形色の下に聖体拝領をさせられます。九世紀に至るまで、隠者たちには秘跡を保存することが許可され、パンの形色の下でのみ拝領することが許されていました。聖職者も信徒も一つの形色の下に御聖体を拝領する聖金曜日の典礼は四世紀にまで遡る慣習が残ったものであり、それは元々聖金曜日だけに限られたものではなかったのです。単形色の聖体拝領が広く、そしてこれほど長期に渡って受容されていたことは、教会がそれについて神学的に問題があったと決して考えていなかったことの証拠です。
十四世紀の初めに、ヨハネス・フスの追随者たちがボヘミアで単形色の聖体拝領に問題がある、と言って騒動を起こしました。単形色の聖体拝領は冒涜であるとさえ主張したものです。教会は自分の権威でそれまで認めてきたことが冒涜であるなどとは認めることはできません。それでフス派は一四一五年のコンスタンス公会議で破門されました。
この秘跡を初代教会の信徒は両形色の下に受けましたが、ある種のつまずきと危険を避けるために、聖別する者たちが両形色で拝領し、信徒が単形色の下に拝領する慣習が理由があって導入されました。なぜなら、キリストの御体も御血もパンだけの形色にもぶどう酒だけの形色にも、欠けるところなく存在することが固く信じられねばならず、片時も疑われてはなりません。故に、この決まりもしくは慣習を守ることが冒涜であると言ったり、間違っていると言ったりすることは間違っていると考えられます。そして以上の反対を頑なに主張する者はそれぞれの司教、また異端を取り調べる義務を課された彼らの役人たちによって異端として取り扱われ、厳しく罰されなければなりません。3
ここで強調されねばならないのは、公会議が両形色の聖体拝領でなく、単形色の拝領が神学的に問題があるとする主張を断罪しているということです。この同じ原理に基づいて教皇ゲラシウス(四百九十六年死去)は信徒に御聖体を両形色の下に拝領することを命じたのです。これはローマに多数いたにもかかわらず、カトリック信者であると偽って自分たちの隠された主張から注意を逸らそうとしていたマニ教徒をいぶり出す唯一有効な方法でした。マニ教徒はぶどう酒が不純であり、本質的に罪深い物であると思っていたので、彼らはカリスを拒み、ついに身元が判明したのでした。4
教皇ゲラシウスの勅令までマニ教徒たちがカリスに触れずに済んだ事実は、五世紀のローマで信徒による聖血の拝領が普遍的慣習でなかったことを意味します。そうであれば、マニ教徒たちはすぐに見破られていたはずです。教義上の理由からではないにしろ、多くの信者たちが単形色の聖体拝領をしていたので、これら異端者の行動が見破られることがなかったのです。
一九七九年一月、イングランドとウェールズのカトリック・トゥルース・ソサイエティーは、英国でこの慣習を強制しようと試み "Communion Under Both Kinds"(両形色の聖体拝領)というタイトルのパンフレットを発行しました。イエズス会のシドニー・スミス神父が書いた "Communion Under One Kind"(単形色の聖体拝領)というパンフレットも同社から出版されていたのですが、ジョージ・オルウェルの「一九八四年」式に、こちらの本は記憶のかなたに置き去りにされてしまいました。同社が教会の伝統的教えを擁護する本は次々に絶版になっています。そして、新刊はこれまでと反対の主張の本ばかりで、こちらの方がこれからはカトリック教会の教えであると主張します。さて、この「両形色の聖体拝領」で、単形色の聖体拝領は異教ローマが信じていたいけにえの概念から来る影響であったと主張しています。
このような考え方が、感謝のいけにえを捧げることに向けられたとき、明らかに本質的なことは司祭がキリストが命じたとおりに、パンとぶどう酒に向かって正しい言葉を唱えることでした。御聖体の配布と人々によるキリストの体と血の拝領でなく、その別々の聖別がいけにえの本質的要素であると考えられました。
ここには興味深い点が二つあります。まず、キリスト教と異教のローマが共存した時代に、信者は普通両形色で聖体拝領をしていました。単形色での聖体拝領は異教の慣習がもはや教会に対して何の影響も持ち得なくなった十二世紀まで広まりませんでした。次に興味深い点はカトリック・トゥルース・ソサイエティーが、含蓄的に異教的であるとして断罪している態度は正に、上述の聖トマスの教えそのものであるということです。聖トマスの教えは、そのすべての重要な側面において、トレント公会議が決して変更できないとした教えにほかなりません。5
コンスタンス公会議が断罪したフス派の主張が、十六世紀のプロテスタント異端者たちによって復活させられました。ドイツの改革者たちは、信徒へのカリスの拒否が神の掟と聖書に逆行しているとするアウグスブルグの告白(一五三〇年)で、自分たちの主張を公にしました。両形色による聖体拝領の導入は、クランマーが英国王エドワード六世の治下でまず行った改革でした。ガスケット枢機卿によると、まだカトリック的考え方をしていた聖職者たちもこれが単に規律の問題であるとして、改革にことさら反対するまでに至りませんでした。「両形色の聖体拝領の導入によって英国の改革者たちにもたらされた大きな利点は、伝統的ミサ典書と手を切る機会ができたことでした。」6  これは既存の慣習からの決定的決別が、伝統的教義からの根本的決別への道を開いた典型的譲歩パターンの一例です。私がCranmer's Godly Order で示したように、譲歩は自己保存の過程です。 両形色による聖体拝領の要求は最終的には英国国教の三十九の信仰箇条に含まれることになりました。その三十条は以下のとおり。
両形色について
主の杯は信徒に対して拒否されてはなりません。なぜかと言えば、主の秘跡にある両方の部分はキリストの定めと命令によって、すべてのキリスト信者に平等に与えられねばならないからです。
この箇条は一五六三年、パーカー大司教によって付け加えられました。これは明らかにその前年、トレント公会議第二十一回会議がこの点に関して発布した教令に対する英国国教側の反応でした。トレント公会議の教えは以下のアナテマにまとめられています。
両形色での聖体拝領に関する法規
1.  もし、それが神の定めであるからとか、それが救いのために必要であるからという理由で、キリスト信者が一人残らず両形色の下に御聖体を拝領しなければならないと主張する者がいれば、その者は破門されます。
2.  もし、聖なるカトリック教会が不当な理由で、信者とミサを挙行していない聖職者にパンの形色の下にのみ聖体拝領をさせる、もしくはそう指導する教会は間違っていると主張する者がいれば、その者は破門されます。
3.  もし、すべての恵みの源であり与え主であるキリストの全体を、ある者たちが間違ってそうしているように、パンの形色の下では受けないとか、このような聖体拝領がキリストによるこの秘跡の両形色の制定に合致していないと主張する者がいれば、その者は破門されます。7
三十条が以上の法規と真っ正面から対立していることに注意してください。これはラテン語の原文を比較すると特に明白です。規定一の文面は、両形色の下に御聖体を拝領することが「神の掟」= "ex Dei praecepto"  であると主張する者を破門にしています。三十条は両形色の下での聖体拝領が「キリストの定めと掟によって」= "ex Christi institutione et praecepto"  要求される、としています。
単形色での聖体を拝領する慣習をプロテスタントが断罪するために提示する理由、かつそれらに反論するために教会が挙げる決定的論証を、ここにすべて挙げる必要はありません。両者の詳細は Catholic Encyclopedia のそれぞれの項目にあります。8  この章の目的に必要なことすべては、信者とミサを捧げていない聖職者が単形色の下に聖体拝領をすることには何ら神学的問題が存在しないとするのが教会の教えである、ということです。上に引用したトレント公会議の法規は不可謬、不可変であり、カトリック信者であればそれを受け入れなければなりません。同時に、両形色での聖体拝領に神学的問題があるわけでないこと、および、トレント公会議の法規が、今後ラテン典礼でもその習慣を再導入することを禁ずるものでないことも繰り返しておきます。再度強調しますが、カトリック教会は両形色の聖体拝領を信者に禁止したわけではなく、それが禁止されているのはラテン典礼の信徒に対してだけです。
不幸なことに、プロテスタントは、特にプロテスタント人口が優勢である諸国で、カトリック教会が単形色の聖体拝領を許可したときに間違いを犯していた、と主張します。これらの国では、両形色の聖体拝領がローマカトリックの腐敗した習慣に対立する聖書中心主義のキリスト教の象徴になっています。それ故に、公会議で教会一致運動に一生懸命な教父たちがラテン典礼でもその慣習を復活させることを希望したとき、プロテスタントが優勢を占める諸国の教父たちが反対したのもうなずけます。そのような規律変更は教会が間違っており、異端の方が正しかったと認めるに等しいからでした。英国ウェストミンステーのゴッドフリー枢機卿は、両形色の聖体拝領に復帰することの意味はカトリック教会が英国国教とその他のプロテスタント諸派に譲歩した、と人々から受け取られることになることを警告しました。9
ところが教会一致運動派は、ラテン典礼のカトリック信者もプロテスタントの慣習に合わせることにこだわりました。両形色での聖体拝領が復活しないことには、彼らのプロテスタントの友人たちがカトリック教会を受け入れないであろうと考えたのは、正にそのとおりではありました。この問題に関する議事録を読むと、カトリックの枢機卿とか司教とかあろう方たちが、事もあろうに十六世紀プロテスタントが主張したのと全く同じ論法で議論なさったことが分かり、憂うつになってしまいます。例えば、オランダのアルフリンク枢機卿は「カリスを信者に拒むことは、信者がキリストの定めに従うことを教会が拒否していたからであった」と主張したものです。10
この討論の結果は典型的に第二バチカン公会議スタイルの妥協でした。つまり、伝統的な立場を守るように見えながら、進歩派の目標が全面的に達成される道を開くものでした。典礼憲章の五十五条は次のようなものです。
両形態による聖体拝領は使徒座が規定する種々の場合に、聖職者と修道者にも、また一般信徒にも司教の判断によって授けることができます。たとえば叙階ミサにおける受階者、修道誓願のミサにおける立誓者、洗礼に続くミサにおける受洗者です。ただし、トレント公会議によって確立された教理上の原則は不動です。
今になってみるとはっきり分かることですが、これは第二バチカン公会議特有の時限爆弾であり、後から、どんなミサであっても、だれでも、自由に両形色の下に聖体拝領できる道が開けてありました。
プロテスタント神学者ヤロスラフ・ペリカン博士は典礼憲章を限定付きではあっても、熱狂的に歓迎したものです。以下を読んでください。
…典礼的礼拝の諸形式を単にいじくるだけでなく、教会生活そのものを形成、改造することを狙うものです。これは十六世紀宗教改革者たちの狙いそのものでもあったので、改革派の学究である私が、マルチン・ルーテルの典礼思想の解釈として、拙著 Obedient Rebels(従順な反逆者)(Harper, 1964) で使用したルブリカのうちの三つで、典礼憲章に対する自分の反応を短く述べることが適切であろうと思われます。
ペリカン博士はさらにつっこんで、プロテスタント改革者が典礼を変更した目的は、ルーテルが説明するように、ミサを滅ぼすことによって教会を滅ぼしてしまう(Tolle Missam, tolle ecclesiam)ことであったと指摘することさえできたはずです。しかし、ペリカン博士は明らかにこの点に触れない方が賢明であると判断したようです。が、博士は典礼憲章の基本的原則のいくつかは「遅きに失した感はあるが、改革者たちが提案した典礼プログラムの受容を体現している…」と解説しています。
しかし、ペリカン博士の喜びは限定無しというわけではありませんでした。プロテスタントの考え方に譲歩した典礼憲章の中のある部分を解説して、博士は次のようにコメントしています。
このような声明は、改革が聖霊の業であったと信じるどのような人の熱狂的同意を喚起することでしょう。しかし、このような反応は一つの決定的点で失望に代わるのです。キリストによる明白な定めと初代教会の明らかな慣習を考慮するときに、「聖座によって決定された場合にのみ」(典礼憲章五十五項)などと定めるように、まだでも限られた特別の機会を除けば信者にカリスが拒否されるのは、どういう理由からなのでしょうか? 少なくとも私たちの主が定めた聖体拝領の形が復活されることは近い将来の典礼改革にとって最重要な課題でしょう。11
両形色の下での聖体拝領の導入に関して、ペリカン博士が引用した典礼憲章の五十五項「使徒座が規定する種々の場合に」はすぐに新しいミサの総則で長いリストになって現れました。それ以来、両形形色の下での聖体拝領は英国の進歩的チャプレンとか小教区主任司祭たちによって広められてしまいました。一九七九年一月、全米司教団はすべてのミサでそれを許しました。このようにして、彼らの国での聖体拝領はプロテスタントのやり方と全く同じになりました。
それが、東方教会とか東方典礼のカトリック教会でのやり方と同じであると理屈を述べることも可能です。しかし、英語圏でのエキュメニズム運動の真意はプロテスタント諸派との一致にあります。この点に関してプロテスタントと東方教会の方法が同じであるとしても、それは全くの偶然にしか過ぎません。私たちの改革の大部分は、それに見合った譲歩をする気配もないプロテスタントにすり寄るために、自分たちの典礼慣習を正統的でない方向に持っていったことでしかありません。
それは、手で受ける聖体拝領とか信徒の聖体奉仕者と同じく、法がそれを許したというより、違反を合法化するために法が曲げられたケースでしかありませんでした。英国では、例えば、英国国教・ローマカトリック教会国際委員会の共同司会者としての役割、また伝統を大事にする司祭たちへの迫害で悪名高いアラン・クラーク司教は一九七八年七月にはすでに主日ミサで両形色の下での聖体拝領を許していました。ちなみにこの国際委員会は聖体、司祭職、教皇の不可謬権に関するカトリックの教えをないがしろにする最終報告を出しており、また、この司教による司祭たちの迫害は何と聖座への忠実という口実でなされました。英国司教協議会の公的刊行物である Liturgy(典礼)誌一九七八年八月号には、十数人の信徒奉仕者の助けを得て、両形色の聖体拝領に伴う色々な問題をいかに上手に処理しているかを得々と説明した記事が見られます。この記事から可能な唯一の結論は「あなたたちも同じようにしたらいいのでは?」というものです。一九七八年八月の時点でも一九七九年八月(本書執筆時)の時点でも、両形色の聖体拝領の許可は聖座の許可を得ていませんでした。ですから、私たちが司教協議会の公的刊行物で目にするのは聖座に挑戦する勧告が司教協議会から出される、という世にも珍しい光景であったわけです。
一九七八年の司教協議会で、アメリカの司教たちがこの慣習をを採用する提案が討議されていたとき、ブリッジポートのウォルター・カーティス司教は自教区のある大きな教会でそういうことが別に問題もなくすでに実施されている、と臆面もなく報告したものです。12  エキュメニズムに熱心なアメリカの司教たちは、プロテスタントの同国人たちを手なずけたいがために、彼らの十一月定例会議に出席できなかった司教たちの票まで集めて、最終的にはわずか一票の差で決議に必要な票数を獲得したのでした。彼らは聖座の許可を得ることは必要でないと主張しました。
この改革にヴァチカンの許可は不必要です。聖座は一九七〇年にそれぞれの司教協議会にローマミサ典書に挙げられている十四の場合以外にも適当な機会を選択する許可を与えています。13
問題のこの文書は一九七〇年六月二十九日の教令『サクラメンターリ・コムニオーネ』です。この教令が与えている許可は平常の主日ミサを指しているのではありません。関連箇所を以下に引用しましょう。
1)両形色の下での聖体拝領は、この教令に伴うリストにあるように、聖座によって決定された場合には教区長の判断に従って許可されます。
2)それだけでなく司教協議会はその特別な共同体とか信徒のグループの霊的生活のために重要性があるほかのケースで、教区長がどの程度まで、どういう理由で、どのような条件で両形色の下での聖体拝領を許すかを決定することができます。
3)これらの範囲内で、教区長は特別なケースを申し出ることができます。しかし、この許可は無差別に与えられるものではありません。さらに、特別に注意が払われなくてはならないそれらの点とともに、その儀式は明瞭に指定されていなくてはならない、という条件の下にのみ与えられます。この許可は聖体拝領をする信者が多い場合に与えられるべきではありません。この許可が与えられるグループはこの儀式の意義について、適当に教育されていなければなりません。14
第三項は、明らかに、司教たちにいつでも、どのミサにおいてでも聖体を両形色の下に授ける許可を与えることができると解釈され得るものではありません。一九八〇年のことですが、私はあるローマ聖省の長官であられる枢機卿にこの点について尋ねる機会を得ました。枢機卿は私と同意見で、米国の司教たちが自分たちに与えられた権限を越える決定をローマからの許可もなくしていると言われました。明らかに、両形色の下での聖体拝領がローマから許可された特別な場合にだけ許される、という規定は主に米国司教団を念頭に置いたものであると言わざるを得ません。この章の最後にこの点に関する補遺があります。
エキュメニズムの熱狂的賛同者たちは、自分たちの希望とその理由を隠そうともしなかったのです。一九七八年十二月十五日のセント・ポール・パイオニア・プレスは大司教区典礼担当司祭のジェームス・ノートバート神父の以下のコメントを記載しました。
神学上で二つのことが起きました。私たちは根元に立ち戻り、十六世紀以来カリスを受けている非カトリック様式の聖餐ともさらに近い関係になりました。
INDEX
1. CE, vol. IV, p. 175,col.2.
2. ST, III, Q. LXXX, Art. III.
3. D, 626.
4. CE, vol. VI, p. 406, col.1.
5. D, 873a.
6. EBCP, p. 79.
7. D, 934-6.
8. CE, vol.IV, p.175.
9. XR-1, p.115.
10. XR-1, p.116.
11. Op.cit., Chapter XX, Note 6, pp. 179-181.
12. Our Sunday Visitor, 3 December 1978.
13. Catholic Telegraph, 15 December 1978.
14. AF, p. 207.
15. Our Sunday Visitor, 3 December, 1978.
16. A longer extract is available in Chapter XII.
17. A.F. Smith, Communion Under One Kind (CTS, 1936), p.23.
18. Liturgy, August 1978, p. 239.
19. Mediator Dei, Paras. 66 and 68 (CTS edition).
20. D. 930.
21. Op. cit., Note 17, p.29.
22. NAL, pp. 149-150.
inserted by FC2 system