教皇パウロ六世回勅
『ミステリウム・フィデイ 聖体の教義と崇敬について』

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パウロ六世の回勅

『ミステリウム・フィデイ』

Mysterium Fidei

聖体の教義と崇敬について

(1965年9月3日発布)

訳者 沢田和夫

ミステリウム・フィデイ

PDF (A5版)

目 次

尊敬する兄弟、
使徒座と平和を保ち、交わりをもつ総大司教、首座大司教、大司教、司教、その他の教区長、全世界の聖職者と信徒にあてて、教皇パウロ六世は回状を送る。

尊敬する兄弟たち、
親愛なる子たち、
ご健康を祈り、使徒的祝福を祈る。

ことばに言い尽くせぬ信仰の秘義である聖体のたまものは、教会の花婿たるキリストから、大きな愛のしるしとして、贈られたものであって、カトリック教会は、これを、もっとも尊い宝物としていつもたいせつにしてきたのであるが、第ニバチカン会議に際して、教会は、この聖体に、あらたに、おごそかな信仰宣言と崇敬の表明をささげたのである。

1. 会議の師父は聖なる典礼の刷新を取り扱ったのであるが、世界の教会のためを思って、その際、なによりも考えたのは信徒が、それぞれに役割を引き受けて、この至聖なる秘義の祭儀に、まったき信仰と最大の信心をもって参加するように、そして司祭とともに、神へのこのいけにえを、自己ならびに全世界の救いのためにささげ、さらに、霊の食料としてこれをもって自己を養うように、奨励するということであった。

2. 教会が生きていくうえで、聖なる典礼が主たる位置を占めるのであるが、聖体の秘義は聖なる典礼の中核とも中心ともいうべきものである。聖体は潔[きよ]め、かつ強める生命の源泉であって、これによって、われわれは、もはや自分自身のためではなく、神のために生き、相互に愛をもって緊密に結ばれるようになるものである。

3. 信仰と信心とが密接に結ばれていることを明らかにするために、公会議の師父は、至聖なる聖体の秘義の章のはじめに、教会がつねに堅持し、教えてきた教え、トリエント公会議がおごそかに定義した教えを確認して、諸真理の集大成ともいうべきものを前文としておいたのである。

4. 「われらの救い主は、ひき渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の儀牲を制定された。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託するためであった。すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、 そして未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活のうたげである。」(典礼憲章第二章四七)

5. これらのことばをもって、公会議は、いけにえと秘跡とをともに称湯している。いけにえは、日々行なわれるミサの本質に属し、秘跡のほうは聖体拝領をもってこれに参加する人びとがキリストの御肉を食べ、キリストの御血を飲むのであるが、こうして、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の生命を有し、終わりの日に、その人をわたしは復活させる」(ヨハネ六の五五)という主の御ことばがあるように、永遠の生命のはじまりである恵みと「不死の薬」を受けるのである。

6. 典礼の刷新によって聖体信心の多くの成果が得られることをわたしはせつに願うものであって、信心のこのしるし、人びとの救いのためになるこのしるしを掲げて、聖なる教会が日々一致の完成(ヨハネ一七の二三)に向かって進み、そしてキリスト信者の名をいただいているすべての人を信仰と愛の一致へと招き、神の恵みの働きによってやさしく引きつけるようにせつに願うものである。

7. 典礼刷新の憲章をカトリック教会の子たちが、待っていたとばかりに喜びをもって受けとったのを見ると、わたしはその成果をすでにかいまみ、その初穂を味わう思いがする。聖体をめぐる教えを、特に聖体と教会の秘義との関連を、探求して深め、深く知っては人びとに裨益[ひえき]しようとする多くの労作を見てもそうである。

8. 尊敬されるべき兄弟、こういうことすべては、わたしにとって大きな喜びであり、楽しみであって、わたしはみなさんとともにこれを分かちあいたいと思うのである。そしてみなさんも、すべての恵みの与え主である神に感謝をささげていただきたいと思う。神はその霊をもって教会を治め、いよいよ多くの徳をさずけて教会の子を育てるのである。

憂慮すべきこと

9. ところで、尊敬されるべき兄弟のみなさん、ここで取り扱っている事がらについて、司牧上大いに心配もし、憂慮すべきことがあって、わたしは使徒的任務の責任上、黙することはできない。

10. この至聖なる秘義について、あるいは語り、あるいはものを書く人びとの中には、まるで教会で一度決定した教義を忘れてもよいかのように、それとも真正なことばの意味、つまり本来の概念の力を弱めるようにこれを解釈してもよいかのように、私的に挙行されるミサ、実体変化の教義、聖体崇敬について、信者の心を乱し、信仰上のことについて混乱を引きおこすような見解を広める人のいることをわたしは知っている。

11. 例をあげて言えば、「共同体的」というミサを推賞するため、私的に挙行されるミサを軽んじるということはゆるさるべきことではない。あるいはまた、秘跡的しるしの本質論を力説するあまり、だれでも認めている聖体の象徴という面をもってこの秘跡におけるキリストの現存の本質が全部言い尽くされているかのようにいうのも、ゆるされないことである。あるいは実体変化の秘義を論じるにあたって、トリエント公会議のいうキリストの御からだへのパン全実体の、御血へのぶどう酒全実体の転換(コンベルシオ)については一言もいわないで、それがただの「トランスシグニフィカチオ」(意味転過)と「トランスフィナリザチオ」(目的転過)であるかのようにいうのも、あるいは、ミサ聖祭の終わったのちに残った聖別ホスチアのうちに主キリストはもはやおいでにならないという説を提唱し、これを実行に移すのもゆるさるべきことではない。

12. これらおよびこれに類する見解が広まれば聖体の信仰と崇敬とが少なからず傷つくことはだれでもわかることである。

13. 尊敬されるべき兄弟のみなさん。聖体信心の新しい光が全教会に行きわたるという、公会議によって生じてきた希望が、虚偽の見解の種のまかれたために、消えうせることのないように、使徒的権能をもってこのことについて話し、わたしの考えを明らかにしようと決心したのである。

14. このような驚くべき見解を広めている人たちが、偉大な秘義を窮め、その宝を明らかにし、われわれの時代の人びとにこれをわからせようとする考えをもっていることは軽視すべきことではなく、この努力はわたしも認め、かつ是認するものであるが、この人たちの提唱する見解は是認できないもので、正しい信仰にとって重大な危険であると注意するのがわたしの務めであると信じる。

聖体は信仰の秘義

15. みなさんは十分ご承知のことであるが、合理主義の害毒を退けるために、もっとも必要なことを思いおこしておきたいと思う。それは多くのとうとい殉教者が自分の血をもって証し、著名な教父、教会博士たちが異口同音に告白して教えたことである。すなわち聖体が偉大な秘義であるということ、まさに典礼がいう「信仰の秘義」であって、教皇レオ十三世が言っておられるように「自然を越えたすべての現実がここに不思議な、驚くべき多様性と豊かさをもって含まれている」のである。(1)

16. そこでこの秘義に近づくにあたっては、人間の理屈をもって近づくのではなく、特にへりくだった従順の心をもって近づくべきである。人間の理屈は黙すべきで、われわれは神からの啓示につき従う確固たる心でこの秘義に近づくのである。

17. みなさんもご承知の金口聖ヨハネは聖体の秘義について、崇高な表現と信心ぶかい認識をもって教えた人であるが、あるとき信者たちにこのことを教えて適切にも次のように言った。「いつにても神に従順に従い、さからうのはやめましょう。たとい神の言いたもうことがわれわれの理性と知性に反すると見えても。むしろ、神のことばが、われわれの理性に優先すべきです。そこで〔聖体の〕秘義に関しても、ただ感覚に感じとられるものだけを見つめるのではなく、みことばに沿うように行動しましょう。神のみことばはまちがうことはないのです。」(2)

18. スコラの学者たちも同様に言っている。この秘跡のうちに真のキリストの御からだ、真のキリストの御血のあることは聖トマスが言うように「感覚ではわからないが、ただ神の権威の上に立つ信仰によって知られる。ルカ二二の一九の『これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである』に対してキュリロスはこう言っている。これがほんとうか、どうかと疑うなかれ。むしろ信仰の心で救い主のことばを受けよ。主はまことに在して偽ることはない」(3)

19. そこでこの天使的博士のあとに続いてキリスト者の民衆は、つねづねこう歌うのである。「ここに今、見、触れ、味わうところのみにては、主なることを認めがたけれども、ただ耳に聞けるところによりて確信するなり。われは神の御子ののたまいしことを、ことごとく信じたてまつる。この真理のことばにまさるまことは、世にあることなし。」

20. 聖ボナベンツーラはこういっている。「キリストがこの秘跡のうちに、しるしのうちにというようにおいでになることについてはなんの困難もない。だが天においでになると同じように真に秘跡のうちにおいでになるということは、もっともわかりにくいことである。それゆえこれを信じるということはもっとも功の大きいことである。」(4)

21. キリストの弟子のうちの幾人もが、キリストの肉を食べ、その血を飲む話を聞いたとき「この話はわかりにくい。だれがこれを聞き得よう」といって主をすてて去って行ったと述べるところで聖福音はすでにこの同じ点にふれている。十二人も去って行きたいのかとのイエズスの問いかけに答えて、ぺトロは即座に確固たる態度をもって、「わたしどもはどこに行きましょう。あなたこそ永遠の生命のことばをお持ちです」と言って自分と他の使徒たちの信仰を言いあらわしたのであった。(ヨハネ六の六一~六九)

22. そこでこの秘義を探究するにあたって、われわれが教会の教導職を星のように仰いでこれにつき従うのは理の当然である。神なるあがない主は、書きしるされ、あるいは伝承された神のことばをこの教導職に託して守らせ、言いあらわさせ、われわれは「たとい理性でいかようにも探知できなくても、ことばでどうにも説明ができなくても、真の力トリック的信仰をもっていにしえより述べ伝えられ、信じられて全教会に行きわたっていることがらを真実である」(5) と確信するのである。

23. それで足りるというわけではない。傷なき信仰を保ったうえで、さらに正確なことばづかいを守る必要がある。不注意なことばづかいをしたために、もっとも崇高なことがらの信仰に関して誤った見解が生じることになってはならないからである。聖アウグスチヌスは、哲学者の用いることばづかいとキリスト者の用いるべきことばづかいの違いについて厳重にいましめてこう言っている。「哲学者は、なかなか知り尽くしにくいむずかしいことについて信心ぶかい人の耳を傷つけることも恐れずに自由な話し方をする。わたしたちは一定の規準に従った話し方をするようにしなくてはならない。あまりにも自由なことばづかいをしたために、これらのことばの示す物事をめぐって信仰に反する見解を生み出すようなことがあってはならないからである。」(6)

24. 教会が幾世紀の長い年月の労苦をもって、実に聖霊の助けのもとで確立し、公会議の権威をもって確認したことばづかいの基準は、たびたび正統信仰の証明とも旗じるしともなったもので、これは尊重されるべきものである。あるいは気ままに、あるいは新しい学問という口実のもとで、変えてはならないものである。たびたびの公会議が至聖なる三位一体と託身の秘義のために用いた教理表現が現代の人びとに適しないものであるという論を進めて、ほかの表現をそれらのかわりに軽率に取り入れるようなことは許されるべきことではあるまい。同様に、トリエント公会議が聖体の秘義の信仰を言いあらわした表現形式を、だれでもが自己流に変えてよいものではない。それらの表現形式は、教会が信仰の教義を表わすときに用いる他の表現形式と同じように、ただ単に特定の文化の形態とか、科学の進歩の一段階とか、特定の神学学派に結びついた概念をあらわすものではなく、人間の精神が事物について普遍的、必然的経験をもって知覚したものを、あるいは通俗のことば、あるいは洗練されたことばの中から選んで的確に表現したものであって、したがってあらゆるときと場所の人びとに適したものである。

25. それらの表現形式がいっそう明解に説明されて人びとのためになるということはあっても、最初の意味と異なる意味で用いられることがあってはならない。信仰について、いっそう深く知るようになっても、信仰の真理は不動のものだからである。第一バチカン公会議が教えているように、聖なる教義は「聖にして母なる教会が一度宣言した意味で保持すべきであって、いっそう高い深い知り方という外形や名のもとに、その意味から離れてはならない。」(7)

聖体の秘義はミサのいけにえのうちに成し遂げられる

26. 尊敬されるべき兄弟のみなさん。聖体の秘義についてカトリック教会が、受けついだものとして守り、一致して教えている教えを思いおこしておくことは、ためになることでもあり喜びでもある。

27. この教えの総合とも頂点ともいうべきものをここに最初に思いおこしておく、とすれば、カルバリオにおいて一度成し遂げられた十字架のいけにえは、聖体の秘義によって、感嘆すべき仕方で再現され、絶えず思いおこされ、救いのその力はわれわれが日々犯す罪のゆるしのためにあてがわれるのである。(8)

28. 新約の仲介者である主キリストは聖体の秘義を制定し、御血をもって新約を固めたのであるが、かつてモイゼが雄牛の血で旧約を固めたのと同様である。(出エジプト二四の八)。福音史家が語っているように、主キリストは最後の晩さんに際し、「パンを取り、感謝してさき、弟子たちに与えて、これはあなたがたのために与えられるわたしのからだである。わたしの記念として、これを行ないなさいとおおせられた。食事ののち、さかずきも同じようにして、おおせられた。このさかずきは、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である。」(9)  主キリストは、弟子たちに、これをご自分の記念として行なうように命じて、これがいつまでも新たに行なわれることをお望みになったのである。初代教会は、使徒たちの教えを守り、そして聖体のいけにえを行なうために集まって、このことを忠実に果たしたのであった。聖ルカが注意ぶかく証言しているように「かれらは、使徒たちの教えること、兄弟的な一致、パンをさくこと、祈りをすることに専念した。」(使徒行録二の四二)。そして、そこからキリスト信者の心に熱心が生まれ、かれら「信者の群れは、心と霊とを一つにしていた。」(使徒行録四の三二)。

29. 主から受け取ったことをわれわれに忠実に伝える使徒パウロは(コリント前一一のニ三)キリスト信者たるものは主の食卓にあずかったのであるから異教のいけにえにあずかるべきではないというにあたって聖体のいけにえのことをはっきり述べている。「わたしたちが祝する祝聖のさかずきは、キリストの御血にあずかることではないか。わたしたちがさくパンはキリストの御からだにあずかることではないか。……あなたたちは主のさかずきとあくまのさかずきとを、同時に飲むことはできない。また主の食卓とあくまたちの食卓とにともに、加わわることはできない。」(コリント前一〇の一六)。マラキアが予告したこの新約の新しいささげ物を、教会は、主と使徒たちから教わったままに、つねにささげてきたのである。「それはただ生きている信者の罪、刑罰、つぐのい、その他の必要のためのみならず、キリストにおいて死に、まだ十分清められていない人びとのため」なのである。(10)

30. ほかの数多くの証言にはここではふれないこととして、ただ一つエルサレムのキュリロスの証言をここに引くこととする。キリスト教信者に教えて、記憶に銘記すべきこのことばを残したのである。「とりなしのささげ物の上に、血を流さない仕方で霊のいけにえをまっとうしたのち、われわれは、全教会の平安のため、世界の正しい秩序のため、皇帝のため、軍人と協力者のため、病人のため、苦しんでいる人びとのため、すべての助けを必要としている人のために、みんなで神に祈り、この犠牲をささげます。さらに聖なる師父司教たちをはじめ、われわれの中で死んだ人たちのために祈ります。とうとい畏[おそ]るべき犠牲の横たわるまえで、かれらの霊魂のためにする祈りは、かれらの助けになるものだと最大に信じて祈るのです。」そして流された人がゆるしをいただけるように皇帝のために編む冠を例にとってしっかりと教えようとして聖なる博士はこういって結ぶ。「同じようにわれわれも、死者のため、たとい罪びとであっても、神に祈ります。冠を編むことはしませんが、傷ついたキリストをわれわれの罪のためにささげ、われわれ自身のためにも、かれらのためにも神のいつくしみを求めようとするわけです。」(11)  “われらのあがないのいけにえ” を死者のためにもささげるという習わしがローマ教会にあったことは聖アウグスチヌスによっても知られることで (12) 、聖アウグスチヌスはこれが師父たちから受けつがれて全教会で守られていることだと言っている。(13)

31. もう一つ、教会の秘義を明らかにするために役だつことなので、ここに付けたしたいことがある。キリストとともに司祭の役割をも果たし、犠牲ともなる教会は、ミサのいけにえを全体でささげ、ミサのいけにえにおいて全体でささげられるということである。この驚嘆すべき教えは、すでに師父たちの教えたところであり (14) 、数年前ピオ十二世も説き (15) 、最近第ニバチカン公会議が教会憲章の中で神の民のことを扱ったときに言いあらわしたことであるが (16) 、わたしもこのことがいっそう解明されて信者の心のうちに深く納められるようにと願うものである。ただし共通の司祭職と位階的司祭職との間にある、単なる度合の相違ではない本質的区別をはっきり守りとおすべきことはいうまでもない。(17)  この教えは、聖体の信心を養い、すべての信者の尊厳を高揚し、惜しむところなく自己をささげて神に仕えることにほかならない聖性の頂に達するように人を励ます最適の教えである。

32. さらにこのことの当然の結論として明らかになる「いかなるミサも、常に公的、社会的性格をもつ」(典礼憲章一章)ということを思いおこしておく必要がある。どのミサも、ひとりの司祭が私的にささげるミサも私的なミサではなく、キリストと教会の行為であって、教会はささげるいけにえのうちに、自らを普遍的ないけにえとしてささげることを習ったのであり、十字架のいけにえの無限のあがないの力を全世界の救いのためにあてがうのである。実にどのミサも、ただある人びとのためだけにささげられるものではなく、全世界の救いのためなのである。そこでミサの祭儀に、信者がそれぞれに役割を引き受けてしきりと参加することは本来ふさわしいことではあるが、正当なわけがあれば侍者ひとりが仕えて答え、司祭が私的に、聖なる教会の規定と正当な伝統に従ってミサをささげることは批難すべきことではなく、是認すべきことである。ミサは司祭自身のためにも、信者の民衆のためにも、全教会のためにも、さらに全世界のために、少なからず恵みをもたらすもので、これは聖体拝領だけでは得られないものである。

33. そこでわれわれの喜びであり、主における冠である司祭たちに、せつに訴える。主の名においてミサを、すなわち神へのいけにえをささげる権能を叙階の司教から授けられたことを忘れずに(ローマ司教典礼書)、毎日、熱心にミサをささげ、十宇架のいけにえからくる多くの恵みを司祭も他のキリスト信者も受けるように。こうして人類の救いのためにも多く貢献することになるのである。

ミサのいけにえにおいて
キリストの秘跡的現存が実現する

34. ミサのいけにえについて、少しばかり述べたので、聖体の秘跡についてもいくつかのことを述べようと思う。いけにえと秘跡とは同一の秘義に属し、一方を他方から切り離すことのできないものである。パンとぶどう酒の形態のもとに、信者の霊的な糧として、主が聖別のことばによって、秘跡的に現存しはじめるとき、十字架のいけにえを再現し、その救いの力をあてがうミサのいけにえにおいて、主は血を流さない仕方で犠牲に供されるのである。

35. キリストがその教会の中に、いたもう仕方はひととおりでないことは、われわれみなの知るところである。典礼憲章が簡明に言いあらわしたよろこばしいこのことを、もう少し詳しく述べることはむだではあるまい。(18)  キリストはその教会が祈るとき、ともにいたもう。キリストは「われわれのために祈り、われわれのうちで祈り、われわれの祈りを受けたもう。われわれの司祭としてわれわれのために祈り、われわれの頭としてわれわれのうちで祈り、われわれの神としてわれわれの祈りを受けたもう」からである。(19)  それに主自ら「わが名において二人、 三人集まっているところには、わたしもかれらのまん中にいる。」(マタイ一八の二〇)と約束なさったのである。キリストはその教会がいつくしみのわざを果たすとき、ともにいたもう。もっとも小さいその兄弟のひとりになんらかの善を行なうときわれわれはキリスト御自らに対してそれをする(マタイニ五の四〇を見よ)からであるだけでなく、このわざを教会によって行なうのはキリストだからである。キリストは絶え間なく神なる愛をもって人びとを助けたもう。旅する教会が永遠の生命の港に到達しようと欲するとき、キリストはともにいたもう。信仰によってわれわれの心のうちに住まい(エフェソ三の一七)、聖霊をわれわれに授けてこれによって愛を教会のうちに注ぎたもう。(ローマ五の五を見よ)

36. これとはわけが違うが、キリストは、その教会が教えを宣べ伝えるとき、真実に教会とともにいたもう。告げ知らされる福音は神のみことばであって、それは人となられた神のみことばキリストの名において、その権威と助力のもとでのみ宣べ伝えられるものだからである。こうして「ひとりの牧者に守られた一つの群れ」となるのである。(20)

37. キリストはその教会が神の民を支配し治めるとき、ともにいたもう。聖なる権能はキリストからのものであり、これを行使する牧者とともに、「諸牧者中の牧者」キリストは、使徒たちになさった約束のとおりに、いたもうのである。(21)

38. そのうえ、いっそう崇高な仕方で、キリストは、その教会が、み名においてミサのいけにえをささげるとき、諸秘跡を授けるとき、ともにいたもう。ミサのいけにえをささげるにあたってキリストがいたもうことにっいては、金口聖ヨハネが、驚きをもって、雄弁に、言った真実をここに思いおこしておきたい。「今わたしは、ある驚くべきことを述べようと思う。しかしあなたがたは、驚いたり恐れたりしてはならない。すなわち、いけにえは同一であると。それをささげるものがだれであろうと、すなわちパウロであろうがペトロであろうが同じである。キリストが弟子たちに与えられたいけにえと、今司祭が執行しているいけにえとは、同一のものである。後者が前者に劣ることはない。なぜなら、後者を聖化されるのも、人間ではなくて、前者を聖化されたのと同じ御かただからである。神の発せられたみことばと、今なお司祭の発していることばとが同一のものであるように、ささげものもまた同一のものである。」(22)  なお諸秘跡がキリストの行為で、人間を使ってキリストが、それを授けるのだということを知らない人はない。それゆえに諸秘跡は、それら自体、聖であって、キリストの力をもって人のからだに触れるとき、たましいに恵みを注ぐのである。

こういう臨在の仕方は、人を驚きで満たすもので、秘義として教会をうち眺めるようにさせるものである。だが、聖体の秘跡においてキリストがその教会とともにいたもうという、さらにすぐれたわけがある。そしてそのために聖体の秘跡は他の諸秘跡の中でも特に「信心にとって味わいぶかく、知るに美しく、つつむところとうとく」(23) 、実にキリスト自身をつつみ、「霊的生活の完成、すべての秘跡の目標」(24) である。

39. この現存を「現実の」現存というが、それはほかの臨在が「現実」でないという除外のゆえにいうことではなく、神にして人である全キリストが現存するようになるという実体的現存の崇高さのゆえである。(25)  そこで栄光のキリストの御からだが、「プネウマチカ」と称される性質の臨在をもってどこにでもいたもうという説明を仮想してこの現存のわけを説こうとする人がいるが、これは正しくない。あるいはまた象徴の限界内にとどめてしまって、このとうとい秘跡が「キリストの霊的臨在と、神秘体の中でのキリストと忠実な四肢との親密な結合との」有効なしるし以外のなにものでもないとするのは正しくない。(26)

40. 聖体の象徴性については、特に教会の一致に関連して、事実、多くの教父、多くのスコラ学者が論じている。そしてトリエント公会議はかれらの教えを総合してこう教えた。われわれの救い主は、聖体を「一致と愛のしるしとして」ご自分の教会のうちに残された。主は「この愛をもって、すべてのキリスト信者が互いに一致し結ばれることを望まれた」のであって、「したがってまた、かれ自らその頭である唯一のからだの象徴」としてこれを残されたのである。(27)

41. またキリスト教文化の初期には「ディダケあるいは十二使徒の教訓」と題する著作の、名の知られざる著者はこのことに関して次のように書いている。「聖餐に対しては次のように感謝せよ。……この裂かれたパンが山上において分散せられ、集められて一つになりしごとく、御身の教会も地の果てよりみ国に集められんことを。」(28)

42. また聖キプリアヌスは離教者に対して教会の一致を力説してこう書いている。「堅固で不可分の愛をもって結ばれるキリスト教の一致を、 主のいけにえそのものが表わしている。多くの粒が一つになってできたパンを、主がご自分の御からだと呼ぶとき、ご自身がささえて一つに集められたわれわれの民を示すのであり、ぶどうのふさが多くの種もいっしょに、しぼられて一つになったぶどう酒を御血と呼ぶときは、一つに集められた多くのものの混合によって結ばれたわれわれの群れをあらわしている。」(29)

43. そしてだれよりも先にコリントの人びとに手紙を書き送った使徒がいる。「パンは一つであるから、わたしたちは多数であっても一体である。みな一つのパンにあずかるのである。」(コリント前一〇の一七)。

44. ところで聖体の象徴性が、神秘体の一性というこの秘跡固有の結果をわれわれに知らせるのに適しているとはいえ、これによって他と区別されるというこの秘跡の本性を説明するものでも、明らかにするものでもない。カトリック教会が洗礼志願者に授けてきた不断の教え、キリスト教民衆の心、トリエント公会議が定議した教義、そのうえ、至聖なる聖体の制定にあたってのキリストのことばそのものは、われわれに告白させる。「エウカリスチヤがわが救い主イエズス・キリストの肉であること、われわれの罪のために苦しみ、御父の御いつくしみにより、よみがえらされたその肉であることを。」(30)  これはアンチオケの聖イグナチオのことばであるが、さらに、この点に関しては教会の信仰の忠実な証言者であるモプスエスティアのテオドロスが民衆にさずけたことばを加えることができる。「主は、これはわたしのからだの象徴であるとおっしゃったのではない。これはわたしの血の象徴であるとおっしゃったのではない。これはわたしのからだ、わたしの血であるとおっしゃったのである。こうして、感覚に対して提示された、そこに横たわるものの本性に注意を向けないように教えられるのである。感謝と、その上に発せられたことばによってそれらは肉と血とに変わったのである。」(31)

45. 教会のこの信仰の上に立ってトリエント公会議は「パンとぶどう酒とが聖別されたのち神聖なる聖体の秘跡の中に、真の神にして人であるわれわれの主イエズス・キリストが、それら感覚的なものの形色のもとに、真に、現実に、実体的に、含まれているということを明瞭に、また無条件に告白する。」そこでわれわれの救い主は、その人間性によって自然の存立の仕方でただ御父の右に座したもうだけでなく、同時に聖体の秘跡のうちに、いたもうのであって、「その存在の様態を、われわれはことばによって表わすことは、ほとんどできないが、しかし神には可能であることを、信仰を通して照らされた認識によって、会得することはできるし、またきわめて堅固にこのことを信じねばならない。」(32)

主キリストは聖体の秘跡のうちに
実体変化によって現存していたもう

46. だが、自然の諸法則を越えた、同類のすべてのものの中の最大の奇跡であるこの現存の仕方 (33) を人がまちがって解することのないように、教える教会と、祈る教会の声に、すなおな心で従う必要がある。キリストの声をつねに反響させているこの声は、われわれにこういう。キリストが、この秘跡のうちにいたもうようになるのは、ほかでなく、パン全実体のからだへの、ぶどう酒全実体の御血への転換によるもので、不思議で独特なこの転換のことを力トリック教会は適確に実体変化と呼ぶ。(34)  実体変化ののち、パンとぶどう酒の形態はたしかに新しい意味と新しい目的を持つようになる。すでに普通のパン、普通の飲み物ではないからで、聖なるもののしるしであり、霊的な食料のしるしである。ただし新しい意味と新しい目的を帯びるようになったのは、それらが新しい “現実” を含むからで、われわれがこれを “存在論的” と呼ぶのも当然のことである。上述の形態のもとにはまえにあったものではなく、まったく別のものが、今はひそむのであるが、それもただ単に教会の信仰がそう見るというのではなく、事実、パンとぶどう酒の実体が、言い換れば本性が、キリストの御からだと御血へと転換したうえでは、パンとぶどう酒とで残るのはただ形態のみで、その形態のもとに、全キリストがそのまま、物的 “現実” をもって、いたもう。物体が場所にあるというのと同じ仕方ではないが、からだをもって、いたもうのである。

47. このゆえに、このとうとい秘跡について考えるにあたって感覚にたよらないようにと教父たちは、しきりに、信者たちに訓[さと]したのであった。感覚はパンとぶどう酒の性質を告げ知らせるだけである。むしろパンとぶどう酒をキリストの御からだと御血に変え、すっかり変え、“原素変過[トランスエレメンタ]” するほどの力を持つキリストの御ことばをたよるようにと、しきりに訓[さと]したのである。実に、教父たちが一度ならずいうように、これをなす力は、時のはじめから、事物のすべてを無から創造した同じ全能の神の御力なのである。

48. エルサレムの聖キュリロスは、信仰の秘義についての話を終えるにあたってこう言っている。「パンに見えるものも、味覚に味わいがあってもパンではなく、キリストの御からだであり、ぶどう酒に見えるものも、そういう味がしてもぶどう酒ではなくキリストの御血である。これらのことを教えられ、もっとも確かなこの信仰を授かって……このパンを霊的なパンとして受けて、あなたの心を固め、あなたのたましいの顔をかがやかせよ」。(35)

49. 金口聖ヨハネはさらに念をおしてこう言う。「ささげものがキリストの御からだと御血になるようにするのは人間ではなく、われらのために十字架につけられたキリスト御自らです。かたどりを実現して、司祭は立ち、かのことばを発するが、力と恵みは神のもの。これはわたしのからだであるという。このことばが、ささげものを、すっかり変えるのです。」(36)

50. 聖マタイの福音書を注解して次のように書いたアレキサンドリアの司教キュリロスと、コンスタンチノポリスの司教ヨハネとの一致もみごとなものである。「直接、指し示すようにおっしゃったのです。これはわたしのからだである。そして、これはわたしの血である。見えるものがただのかたどりだと思ってはならない。ささげものは全能の神によって、不思議ななにかの仕方で、キリストの御からだと御血に、すっかり変わるのであってこれに参加することによって、われわれはキリストの、生かす力、聖化の力を受けるのです。」(37)

51. ミラノの司教アンブロジウスは聖体の転換について明解に述べてこう言っている。「われわれが証明しようとするのは、これが自然によって作られたものではなく、祝福によって聖化されたものであるということ、祝福によって自然そのものも変えられるから、祝福の力が自然の力よりも大きいということである。」そして秘義の真理を確認しようとして、聖書に語られている多くの奇跡の例を示し、なかでもおとめマリアからのキリスト自らの誕生を示し、そののち創造のわざに注意を向けて、こう結んでいる。「存在しなかったものを無からつくることができたキリストのことばが、存在しているものを他のものに変化させえないということはありえない。ものの本性を変えることは、ものの本質をつくることより容易である。」(38)

52. だが、多くの証言をもたらす必要もない。むしろ教会が一致してベレンガリウスに抵抗したときの堅固な信仰を思いおこすほうがよい。ベレンガリウスは、人間の理性が示す困難に譲って聖体の転換を否定した最初の人である。教会は、もとにもどるにあらずばとて幾度もその誤りを責め、教皇聖グレゴリウス七世は、次の明文による宣誓を要求した。「祭壇におかれるパンとぶどう酒は、聖なる祈りの秘義により、われらのあがない主のことばをもって、生命を与える真実正銘のイエズス・キリストの御からだと御血に、実体的に転換するものであって、そして聖別ののちは、おとめから生まれ、世の救いのためにささげられて十字架にかかり、御父の右の座にある真のキリストの御からだであること、そしてキリストの脇腹から流れ出た真の御血であること、それもただ単に秘跡のしるしと力とによってではなく、本来の本性において、実体の真実において、そうであることを、わたしは心で信じ、口で告白する。」(39)

53. これらのことばと、ラテラン、コンスタンツ、フイレンツエ、ならびにトリエントの各公会議が、聖体の転換について、がるいは教会の教えを述べ、あるいは誤りをしりぞけて一貫して教えたこととが一致するが、これこそ力トリック的信仰の安定性のみごとな実例である。

54. トリエント公会議ののち、教皇ピオ六世はピストイア会議の誤りに対して厳重な警告を発し、教えを説く任務にある主任司祭が、信仰箇条の中に数えられる実体変化について、ひかえてふれないことがないようにと説いた。(40)  また、教皇ピオ十二世は、実体変化の秘義について微妙な仕方で論議する人たちに越えてはならない限界のあることを思いおこさせ (41) 、わたしもまた、最近ピザで開かれたイタリア全国聖体大会のおりに、教皇の使徒的任務にもとづいて、教会の信仰証言を、公に、おごそかに、行なった。(42)

55. そもそもカトリック教会は、聖体におけるキリストの御からだと御血の現存の信仰を教えるだけでなく、生活のうちにこれを守り、ただ神のみに帰するべき礼拝をささげてこの大いなる秘跡をいつの世にもとうとんできた。このことについて聖アウグスチヌスの言うには「主は肉体をもってこの世に住み、その肉体を救いの食物としてわれわれに与えられた。だれもまず礼拝してからでなければその肉を食べることはない。……礼拝すればわれわれは罪を犯さないが、それだけでなく、礼拝しなければ罪を犯す。」(43)

聖体の秘跡の礼拝

56. カトリック教会は聖体の秘跡に対する礼拝をミサのあいだだけでなく、ミサ外でも、いままでも、いまも、ささげる。聖別されたホスチアを注意深く保存し、おごそかに信者の崇敬の対象とし、民衆の喜びのうちに聖体を行列して運ぶのである。

57. このような崇敬についての証言は、教会のもっとも古い資料の中にも見いだされる。信者が自宅に持ち帰った聖体を注意ぶかく守るように、教会の牧者はいつも信者に訓[さと]したのであった。「キリストの御からだです。信者のいただくべきものであって、軽んじるべきものではありません。」聖ヒポリトスはこういって厳重に訓した。(44)

58. 事実、オリゲネスのしるすところによれば、信者は、もしも主の御からだを受け、注意と崇敬を尽くして保存したものの、怠りのためにそこから少しならと脱落したときは、当然のことながら、自己を有罪と信じるのであった。(45)

59. 当然尽くすべき尊敬を欠いた人たちを、牧者がきびしく叱ったことは、この点では信じるに足りるノバチアヌスから知らされる。「主の祭儀から退出して、いつものように聖体を持ったまま、主の聖なる御からだを運び回って、自宅にではなく、見世物に走る」人は断罪に値するとした。(46)

60. そればかりではなく、アレキサンドリアの聖キュリロスは、聖体の中の一部を次の日に残したのではすこしも聖化に役だたないという人たちの見解は、正気の沙汰ではないとし、「キリストが変質するわけでもなく、とうとい御からだに変化が生じるわけでもない。祝別の力と、生命を与える能力と恵みとは、いつまでも、そこにつづく」と言った。(47)

61. また、その昔、迫害下の信者や、隠修生活を愛して孤独の生活をした人たちが、司祭、または助祭の不在のおりに、自分自身の手で聖体を受けて拝領し、毎日でも聖体を食料としたことも忘れてはならない。(48)

62. ここでこのことを言うわけは、その後の教会法で定められ、今なお行なわれている聖体保存と聖体拝領の仕万を変えたほうがよいというためではなく、ただ、いつも同一である教会の信仰について、ともに喜ぶためである。

63. 聖体の祝日が生まれたのもこの同じ信仰からであるが、聖体の祝日は、リエージュ司教区で、特に神のはしため福者ユリアーナ・デ・モンテコルネリの努力によってはじめて祝われ、教皇ウルバノ四世が全教会に広めたものである。さらに、多くの聖体信心の団体が、神の恵みのもとに、数を増し、力トリック教会は、いわば、競いあうそれらによって、キリストに礼拝をささげ、この大いなる恵みのゆえに感謝し、御いつくしみを祈り求めている。

聖体の崇敬を増進せよと訓[さと]

64. 尊敬されるべき兄弟。みなさんにゆだねられて、みなさんが見守りつつ世話しておられる民衆のもとで、まちがった危険な見解をしりぞけてくださるように、キリストと使徒たちのことばへの忠実を、あくまで守ろうとするこの信仰を、そのまま純粋に保ち、ことばと労を惜しむことなく、聖体の崇敬を増進してくださるようにとお願いする。ほかの信心の形は、けっきょくそこに向かい、そこに尽きるものである。

65. みなさんに励まされて、キリスト信者がいよいよ「生命を得ようとする人は、生きるところを持っている。生きる源を持っている。生かされるために、近づけ、信ぜよ、一体となれ。四肢と連なることを断念するな。切り捨てられるに値する腐敗した四肢となるな。恥じるゆがんだ四肢となるな。美しく、整った、健康な四肢であれ、からだに付添い、神によって神に生きよ。今地上で労苦を忍び、のちに天で君臨するようにせよ」(49) ということを知り、経験するようにとわたしは願う。

66. 毎日、多数のキリスト信者が、それぞれに分担を引き受けてミサのいけにえに参加し、清くとうとく聖体拝領をもって自分を養い、そして、このような大きなたまもののために主キリストに相応の感謝をささげることは望ましいことである。「すべてのキリスト信者が、日々聖なる会食に連なるようにというイエズス・キリストと教会の望みは、キリスト信者が秘跡によって神と結ばれ、そこから欲望を支配する力を得、日々の軽い落度から潔[きよ]められ、弱い人間の陥りやすい重大な罪を避ける」(50) ことをなによりも願うものである。信者はそのうえ、一日の間に聖体訪問を怠らずに行なうようにすべきで、聖体は聖堂の中のとうとい場所に尊敬を尽くして、典礼法規によって保存すべきである。聖体訪問は、そこにいます主キリストへの感謝の証拠だてであり、愛のしるし、尽くすべき礼拝の務めを果たすことだからである。

67. 神聖なる聖体がキリスト信者民衆にこのうえないとうとさを授けるということは周知のことである。というのは、いけにえがささげられ、秘跡が行なわれるときだけでなく、いけにえをささげ終わり、秘跡を行ない終えたあとも、聖体が、聖堂もしくは礼拝所に保存されるとき、キリストは実にエンマヌエル、つまり「われらとともなる神」である。昼も夜もわれわれのまん中にいて、恵みとまことに満ちてわれわれのうちに住み、(ヨハネ一の一四を見よ)、習俗を正し、徳を養い、苦しむ人を慰め、弱い者を強め、近づくものみなにご自身にならうように、その模範によって心の柔和、謙遜な人になり、そして自己のものではなく神のものを求めることを学ぶようにと促しておられる。そこで特別の信心をもってご聖体に向かう人で、無限にわれわれを愛するキリストに、すばやく、なにものをも惜しまない愛をもって答えようとする人は、キリストとともに神のうちに隠された生活(コロサイ三の三を見よ)がどれほど貴重なものであるか、キリストとともに話しあうことが、どれほどとうといことか、この地上でこれほど心に安らぎをもたらすものはほかにはなく、これほど聖性の道を走るための力となるもののほかにないことを、経験して知って、喜ぶこともでき、その成果をもおさめることができる。

68. 尊敬されるべき兄弟、みなさん。ご承知のように、ご聖体は、聖堂または礼拝所に保存されて、修道的共同体もしくは小教区共同体と、さらに世界の教会と全人類の霊的中心をなすものである。それは両形態のおおいのもとに、教会の見えざる頭、世界のあがない主すべての心の中心、「すべてのものは、かれから出、わたしたちもかれのために存在する」(コリント前八の六)キリストをつつむからである。

69. そのために、神聖なる聖体の崇敬は、“社会的な” 愛を培うようにと人を動かすもので (51) 、そのような愛によって、われわれは私的なしあわせよりも共同のしあわせを先行させ、共同体のこと、小教区のこと、世界の教会のことをも引き受けるのであるが、それもキリストの四肢がいずこにもあると知るからである。

70. 聖体の秘跡はキリストの神秘体の一致のしるしであり、もとであり、いっそうの熱心に聖体を崇敬する人びとのうちに “教会的[エクレジアレ]” ともいわれる精神を興すものであるから、尊敬されるべき兄弟、みなさん、皆さんの信者に対して、聖体の秘義に近づくとき、教会のことをわがこととして、教会の子たちがみな一つになり、心を一つにし、そこに分裂はなく、使徒の命じる心、同じ考えをもって完全に一致するように(コリント前一の一〇を見よ)、そしてキリスト信者の名を誇りとしていながらカトリック教会から離れて完全な交わりでもってまだ結ばれていないすべての人が、われわれとともに一刻もはやく、神の恵みにより、キリストが特にご自分の弟子たる人びとのものであってほしいと望まれた信仰と交わりの一致の恵みに浴するように、絶え間なく神に祈り、教会の平和と一致のために、よみされるいけにえとして自己をささげるように、せつに勤められることを願うものである。

71. 教会の一致のために祈り、かつ自己をささげようという望みは、男子、女子の修道者は特に自分たちのことと考えるべきである。修道者は特に聖体礼拝の任務を授けられているものであり、誓願を立てたことにより、地上にいるかぎり聖体をとりまく冠となっているのである。

72. すべてのキリスト信者の一致を望むことは、教会にとって今も昔も、なによりも貴重な願わしいことであるが、かつてトリエント公会議が聖体についての教令を結ぶにあたって用いたことばを用いてわたしはこれをもう一度表明したい。「最後に聖なる公会議は、父親としての愛情をもって、次のことをわれわれの神のあわれみに訴えて(ルカ一の七八)勧告し、励まし、求め、願う。すなわち、キリスト信者と呼ばれているすべての人が、おのおのわれわれの主イエズス・キリストの大いなる尊貴といと深き愛とを覚えて、この一致のしるしにおいて、この愛のきずなにおいて、この協調の象徴において、いまやついに一致し、協調するように。主は愛するその魂をわれわれの救いの代償として与え、その肉をわれわれが食べるために与えたもうたのである。(ヨハネ六の四八以下)。主の御からだと御血とのこれらの聖なる秘義を、絶えざる、堅き信仰、献身、敬けんと崇敬とをもって、信じ、とうとぶがよい。そしてあの超実体的パン(マタイ六の一一)をしばしば受けることができるようにまたそれが真に霊魂の生命、精神の絶えざる健康となり、その力に強められて、やがてはこの苦難の巡礼の旅を終え、天なる故郷に到達できるようにするがよい。今は聖なるおおいのもとで食べている同じ天使のパン(詩編七七の二五)を、そこではなんらのおおいなしに食するに至るのである。(52)

73. すでに死が間近に迫っていたとき、いつくしみぶかいあがない主は、御父に祈り、ご自身を信ずるすべての人が、ご自身と御父とが一つであるのと同じく、一つになるように祈られたのであった。(ヨハネ一七の二〇、二一)。そのあがない主が、世界の教会とともなるこの祈りをすみやかに聞き入れ、みなが、口をそろえ、信仰を一つにして、聖体の秘義を行ない、キリストの御からだにあずかって、キリストの望みであったようなつながりをもって結ばれた一つのからだ(コリント前一〇の一七)をなすに至るようにとわたしは祈る。

74. さらに、とうとい、東方の諸教会に属する人びとに、兄弟的愛の心をひらいて語りかけたい。この手紙の中で、わたしは、東方諸教会の誉れ高き教父の聖体に関する信仰の証言を喜んで引用したが、聖体をめぐるあなたがたの信仰は、われわれの信仰でもあって、これを思うとき、大きな喜びが心にみなぎるのである。この大いなる秘義を行なうにあたってあなたがたの用いられる典礼の祈りに耳を傾け、聖体崇敬に接するとき、このとうとい秘跡をめぐる教えをあるいは述べ、あるいは守ろうとする神学者の著作を読むとき、わたしは大きな喜びにみたされる。

75. この秘跡においてパンとぶどう酒の形態のもとに「存在し、ささげられ、食される」(教会法典八〇一条)肉は主キリストが聖母マリアから受けられたのであるが、その聖母マリアをはじめ、神のすべての聖人、聖女、特に聖体に対する信心に熱心であったかたがたが、どうか、いつくしみの御父のもとにとりなし、聖体の崇敬と共通の信仰に発して、すべてのキリスト信者のあいだの交わりの完全な一致が、強められるようにとわたしは祈る。そして分離、分裂の悪をさとし、それに対する薬は聖体であると説くとうとい殉教者イグナチオのヒラデルヒヤの人びとにあてたことばが、心に銘記されるように。

「ゆえに唯一つのエウカリスチヤにあずかってください。わが主イエズス・キリストの肉はただ一つ、一致せしめる御血の杯はただ一つ、祭壇はただ一つ、司教はただひとり……。」(53)

76. 聖体崇敬の増進が全教会と全世界に、多くの善き吻をもたらすにちがいないというよろこばしい希望にささえられ、尊敬されるべき兄弟、司祭、修道者、みなさん、そして助け手となって働いているすべての人、みなさんの世話にゆだねられている信者のすべての上に、愛の心をこめて、天の恵みを祈り求めて、使徒的祝福をおくる。

一九六五年九月三日教皇在職三年

聖ピオ十世の祝日にあたり
ローマ聖ペトロのかたわらで

司教にして教皇 パウロ六世

(1) Litt. Encycl. Mirae caritatis ; Acta Leonis XIII, XXII, 1902-1903, p. 122

(2)In Matth. homil. 82, 4 ; P. G. 58, 743. (金口聖ヨハネはコンスタンチノポリスの司教。四〇七年歿。)

(3)Summa Theol. III q. 75 a. 1

(4)In IV Sent. dist. X. P. I art. un. qu. I ; Oper. omn. tom. IV, Ad Claras Aquas 1889, p. 217

(5) S. Augustin. Contr. Iulian. VI. 5, 11 ; P. L. 44, 829

(6)De Civit. Dei X 23 ; P. L. 41, 300

(7)Const. dogm. De Fide cathol c. 4

(8) cfr. Concil. Trid. Doctrina de SS. Missae Sacrificio, c. 1

(9)Lc 22, 19-20. cfr. Matth. 26, 26-28 Mc 4 P, 22-24

(10) Concil. Trid. Doctr. De SS. Missae Sacrif. c. 2(上智大学神学部「トリエント公会議の聖体とミサの犠牲に関する教令」訳一六ページ。)

(11)Cateeheses, 23 [myst. 5] 8-18 ; P. G. 33. 1115-1118(聖キュリロス、エルサレムの司教。三八六年歿)。

(12) cfr. Confess. IX, 12. 32 ; P. L. 32. 777 ; cfr ibid IX, 11, 27 ; P L 32. 775

(13) cfr. Serm. 172, 2; P. L. 38. 936 ; cfr. De Cura gerenda pro mortujs, 13 ; P. L. 40.,593

(14) cfr. S. Augustin. De Civit. Dei, X, 6 ; P. L. 41 284

(15) cfr. Litt. Encycl. Mediator Dei, A. A. S. XXXIX, 1947, p. 552

(16) cfr. Const. dogm De Ecclesia, c. 2. n. 11 ; A. A. S. LVII, 1965, P. 15

(17) cfr. ibid. c. 2. n. 10 ; A. A. S. LVII 1965 p. 14

(18) cfr. cl. n. 7 ; A. A. S. LVI 1966 pp. 100-101

(19) S. Augustin. In Ps. 85, 2, P. L. 37. 1081

(20) S. Augustin. Contr. Litt. Petiliani III 10. 11 ; P. L. 43. 353

(21) S. Augustin. In Ps. 86, 3, P. L. 37. 1102

(22)In Epist. 2 ad Timoth. homil.2, 4 ; P. G. 62. 612(P. ネメシェギ訳)

(23) Aegidius Romanus, Theoremata de Corpore Christi, theor. 50, Venetiis 1521, p. 127

(24) S. Thomas, Summ. Theol. III q. 73. a. 3 c.

(25) cfr. Concil. Trid. Decr. de SS. Euchar. e. 3

(26) Pius XII Litt, Encycl. Humanae generis ; A. A. S. XLII, 1950 p. 578

(27)Decr. de SS. Eucharistia, prooem. et c. 2(上智大学神学部「トリエント公会議の聖体とミサの犠牲に関する教令」訳一~四ページ。)

(28)Didachè, 9, 1 ; F. X. Funk. Patres Apostolici, 1. 20.(佐藤清太郎訳二七ページ。)

(29)Epist. ad Magnum, 6 ; P. L. 3, 1189

(30) S. Ignatius, Epist. ad Smyrn. 7. 1 ; P. G. 5. 714(G・ネラン/川添利秋訳一二一ページ。)

(31)In Matth. Comm. c 26 ; P. G. 66. 714

(32)Decret. de SS Eucharistia, c. 1

(33) cfr. Litt. Encycl Mirae caritatis; Acta Leonis XIII, XXII, 1902-1903, P. 123

(34) cfr. Council. Trid. Decret. de S. S. Eucharistia, c. 4 et can. 2.

(35)Catecheses, 22. 9 [myst. 4]; P. G. 33. 1103

(36)De Prodit Iudae, homil. 1, 6 ; P. G. 49. 380 ; cfr. In matth. homil. 82, 5, P. G. 58. 744

(37)In Matth. 26, 27 ; P. G. 72, 451(アレキサンドリアの司教キュリロスは四四四歿。)

(38)De myster. 9, 50-52 ; P. L. 16. 422-424(P・ネメシェギ訳)

(39) Mansi, Coll. ampliss. Concil. XX, 524

(40) Constit. Auctorem Fidei, 28 Aug 1794

(41)Allocutio, 22 Sept. 1956, A. A. S. XLVIII, 1956, p. 720

(42) A. A. S. LVII 1956, pp. 588-592

(43) In Ps. 98. 9 ; P. L. 37, 1264(P・ネメシェギ訳)

(44)Tradit. Apost ; ed, Botte, La Tradition Apostolique de st. Hippolyte, Münster 1963, p. 84

(45)In Exod fragm ; P. G. 12. 391

(46)De Spectaculis ; C. S. E. L. III3 p. 8

(47)Epist. ad Calosyrium ; P. G. 76. 1075

(48) cfr. Basil. Epist. 93 ; P. G. 32. 483-486

(49) S. Augustin, In loann. tract. 26, 13 ; P. L. 35, 1613

(50)Decr. S. Congr Concil ; 20 dec 1905, approb. a S. Pio X ; A. A. S. XXXVIII. 1905. P 401

(51) cfr. S. Augustin. De gen. ad litt. XI, 15, 20 ; P. L. 34, 437

(52) Decr. de SS. Eucharistia, c. 8

(53)Epist. ad Philadelph. 4 ; P. G. 5. 700(G・ネラン/川添利秋訳一〇三ページ)

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