革命に関するメモ

 「フランス革命―歴史における劇薬」という名の本がある。「フランス革命では多くの血が流れた。それは残念だった。しかしそれでも、フランス革命は人類歴史の転換(民主化)のために必要な劇薬だった」という趣旨の本だろうことは、書名で分かる(読まずとも)。
 しかし真実は単に、世界権力を我がものにしようとする者らによる極悪非道だった、というだけである。

 そして、「一七八九年のフランス革命もしくは恐怖政治は、カトリック教会とフランスのカトリック教徒に対してフリーメーソンが仕掛けた戦争であった」(マイケル・A・ホフマン II )。

 以下、ホフマンの本から。

 ヨハネ二十三世とパウロ六世の在位中、現代カトリック教会は、エリザベス朝時代のイギリス国教会大主教、トーマス・クランマー に範を取り、開放的で普遍的な「改革」を行う方針を打ち出した。そして第二バチカン公会議の精神は「改革と開放」であると宣言したのである。これ以降、会議には非聖職者も参加し、対話と民主主義を尊重するとした。

 この改革の範とされたクランマーは、伝統的な祈祷書はもはや必要ないとして、この祈祷書に固執する農民を軽蔑したという。このクランマーと同じように、第二バチカン公会議も新しい自由の名の下に、一般の人々の願いに逆らって、古い祈祷書を廃刊した。代わって、「人々の願い」によって登場したのが、フリーメーソンであるアンニメール・ブニュニーニが編纂した現代的な祈祷書と、廃刊を正当化するための「愛」の修辞学[レトリック]であった。

 ところで、クランマーは、古い祈祷書を擁護して蜂起したイギリスのカトリック農民を、徹底的に弾圧した。クランマーはこれら農民を大量虐殺し、西部蜂起として知られる暴動を鎮圧したマイケル・デイヴィス『クランマーの信心深き命令』、および イヴリン・ウォー『エドムンド・カンピオン』参照)

 このプロテスタントによる宗教弾圧は、今日ではめったに語られることはないが、この事実が無視され続けるのは、フリーメーソンの策略によるものなのである。彼らはカトリック教会と「異端審問官」を同罪視して、それを論拠にプロテスタント主義を唯一の「真のキリスト教」として推戴しようとしている。このような偽りの図式をフリーメーソンが掲げる理由は、彼らの思想をキリスト教に浸透させる手段として、プロテスタント主義を選んだからである。

マイケル・A・ホフマン著
『フリーメーソンの操心術』(1992年) pp. 41-42
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 つまりフリーメイソンはカトリック教会を押し込めるためにプロテスタントを利用した。そしてそうするためにはプロテスタントが人々を虐殺したりしていてはならなかった。

 フリーメイソン自身の言葉を聞こう。

「我々は我々の望みに対する忠実に関しプロテスタントに感謝する──彼等の大部分が、彼等の信仰的誠実の中で、自分達が実は我々に従っていると云う事に気づいていないとしても。我々は、キリスト教文明の要塞〔カトリック教会〕に対する我々の戦いに於いて、また全世界とジェンティーレの諸王国に対する我々の覇権の到来の為の準備に於いて、彼等〔プロテスタント〕が我々に与えている素晴らしい助力の故に彼等に感謝する。」

「目下の所、我々はヨーロッパの諸王権の殆どを打ち倒すことに成功している。残りのものも近い将来、後に続くだろう。ロシアは既に我々の支配を崇拝している。フランスは彼等のフリーメイソン政府の故に我等の指揮下である。イギリスは我等の金融に対する依存の故に我等の支配下である。そしてイギリスのプロテスタンティズムはカトリック教会の破壊の為の我等の希望である。スペインとメキシコは我等の手の中のオモチャに過ぎない。そして、アメリカを含む他の国々も既に我々の計略の前に屈している。」

ユダヤ人の危険性とカトリック教会

 また、イルミナティの極秘指令書 や AA1025の手記 にも「プロテスタントを利用する」という考えが歴然と見られる。

 再びホフマンの本から。

 また、比較的よく知られていることではあるが、一七八九年のフランス革命もしくは恐怖政治は、カトリック教会とフランスのカトリック教徒に対してフリーメーソンが仕掛けた戦争であった。この戦争では、ありとあらゆる拷問のための刑具が使われ、残虐な異端審問が行われた。

 このときのフリーメーソンのメンバーで死刑裁判官だった ジャン - バチスト・カリエ は、一万三千人のカトリック教徒の死刑執行を命じた。そして死刑囚は、この刑のために建造された船に乗せられて、ロワール川で溺死させられたのである。

 (The masonic hanging judge, Jean-Baptiste Carrier, ordered the execution of 13,000 Catholics, who were drowned in the Loire River in boats specially designed for that purpose.)

 一七九三年十二月二十三日、フリーメーソンの フランソワ・ウェステルマン将軍 は、サヴィニーのカトリックの村落を襲撃し、数百人の女性や子どもを殺害した。ウェステルマンは、「ガキどもを馬のひづめにかけ、女たちを殺して、もう山賊を産めないようにしてやった」と自慢している。

 (On Dec. 23, 1793, the masonic General Francois Westermann attacked the Catholic village of Savenay, killing hundreds of Catholic women and children. Westermann bragged that he had "trampled children under horses' feet and massacred women who will no longer give birth to brigands.")

 さらに、一七九四年には、フランス革命に参加した将軍の一人で、やはりフリーメーソンの ルイ-マリー・ツーロー は、ル・サ・ブローニュの村で数百人の子どもを殺害するよう命令した。

 (In 1794, another of the generals of the French Revolution, the Freemason Louis-Marie Turreau, ordered the slaughter of 109 Catholic children in the village of Lucs-sur-Boulogne.)

 フランス西部のナント近郊、ヴェンデという地名で知られる地域では、何十万というカトリック教徒がフリーメーソンに率いられた革命政府によって虐殺された。そして、何千というカトリック指導者たちは、フリーメーソンの秘密政治勢力が政権の座につくことに反対して、パリをはじめ、ほかの地域で殺されたのである。

 (In the western section of France, in the area around Nantes known as the Vendee, hundreds of thousands of Catholics were slaughtered by the masonic government of the French Revolution. Thousands of their religious leaders were also killed in Paris and other areas for their opposition to the suzerainty of the masonic cryptocracy.)

同書 pp. 43-44

 次はユースタス・マリンズの本から。
 (彼はあまりに反ユダヤの気持ちが強く、私としても引用するのに少し不安を感じるが、参考までに。)

仕掛けられた恐怖、フランス革命の惨[むご]たらしさ

 冷酷さと残忍さ──これがユダヤ共産主義の極印[ごくいん]である。フランス革命を煽動するために、ユダヤ人銀行家たちは、街の群衆を煽りたてる煽動家たちに金を支払っていた。一方のフランス国王はといえば、何が起こりつつあるのかまったく理解ができず、ただ仰天するばかりであった。

 著名なジャーナリスト、スタントン・コブレンツ(1896-1982)は、著書『文明の10の危機』の126ページで、フランス革命では「秘密の指導勢力が活動していたように思われる」と述べている。秘密の指導勢力とはユダヤである、とまでは述べていないが、これがコブレンツがためらったか、あるいはユダヤ人編集者が原稿からその記述を削除したかのどちらかであろう。ほかの多くの学者は、「フランス革命の背後の秘密勢力とはユダヤである」と名指しで指摘しているのだから。

 群衆を煽動して非ユダヤ人指導者を虐殺したのち、ユダヤは、何千人という尼僧と司祭を教会から引きずり出し、斧と鉈でめった切りにした。あるいは、キリストの祭壇の前で彼らを虐殺した。そのためにキリスト教の聖堂は、さながら、非ユダヤ人の血で悪臭を放ち、死にゆく女性や子供の悲鳴が響きわたる、伝統的なユダヤの会堂の地獄と化した。

 また、何百人もの絶望的なキリスト教徒の男女が丸裸にされ、カップルにして縛られ、川の激流に投げこまれた。その間ユダヤは川岸で見物し、この「革命的結婚式」の犠牲者たちを嘲っていたのである。こうしてフランス革命は、「ユダヤ共産主義者の偉大な勝利」として歓呼によって迎えられたのだ。

ユースタス・マリンズ著『真のユダヤ史(旧版『衝撃のユダヤ5000年の秘密—ユダヤはなぜ文明に寄生し破壊させたか?』) pp. 238-239

ロシア革命で二〇〇〇万人のキリスト教徒が虐殺された。

 一九一七年の時点ではレーニン主義者たちは、教訓を学びとっていた。五月に、ユダヤ人アレクサンドル・ケレンスキーに率いられた「ベルンシュタイン主義者」グループがユダヤ自由社会主義政府を樹立したが、彼らは誰も殺害しなかった。レフ・ブロンシュタインと好んで自称したトロツキーとレーニンは同年一〇月のボルシェビキによる権力奪取の先頭に立った。そして、フランス革命の例にならって、トロツキーは恐怖政治を開始した。

 ロシア革命後の三年間で、トロツキーらは、白系ロシア人の八八%を虐殺した。ロシアの三一二人の共産主義指導者のうち、非ユダヤ人はわずか二名で、残りはすべてユダヤ人であった。

 彼らの最初の公的活動は、反セム主義すなわちユダヤ批判を、共産主義ロシアでは人の犯す最悪の犯罪とする法律を通過させることであった。ほんの些細な反ユダヤ的ジョークを言おうとも、それは死をもって罰せられた。『シオン長老の議定書』のようなユダヤ関連の本を手にすることまでもが、死によって購わなければならない犯罪とされた。

 ユダヤ共産主義者による権力の掌握は、ペルシャのエステルの権勢期やフランス革命、その他の恐怖の場面でも展開されたように、非ユダヤ人の大量虐殺が特徴だった。何千という野蛮なユダヤ人エステルやモルデカイ(旧約聖書の登場人物。バビロンから流刑後、エルサレムに帰還した)の末裔たちが、司祭や尼僧を含む白系ロシア人を捕え、言葉にできないほど残酷な方法によって拷問を加え、そのあと銃殺隊の前に彼らを引き据えた。こうしてユダヤは、一九一七年から一九四〇年までのわずか四年足らずのあいだに、ロシアで二〇〇〇万人ものキリスト教徒を虐殺したのである。

同書 pp. 246-247

 マリンズの叙述に多少誇張が含まれていたとしても、それで「フランス革命には何もなかった、目を覆うような残虐行為など何も起こらなかった、カトリック教徒の犠牲もなかった」という事になる筈がないのである。
 だから、こう言える。
 東洋の司祭ならいざ知らず、ヨーロッパの知識人が、しかもカトリックの司祭が、フランス革命を高く評価するなら、それは「異常」なことである。(例: スキレベークス

 必見 フランス革命 血塗られたる「自由・平等・博愛」の神話

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