フランス革命 血塗られたる「自由・平等・博愛」の神話

検証  フランス革命二百年
血塗られたる「自由・平等・博愛」の神話
澤田昭夫
(はじめに)フランス革命は自由の光明か?
 今や世界中が赤、白、青の三色[トリコロール]で彩られ、フランス革命二百周年祝典行事で沸き立っている。フランスのミッテラン大統領は、初回当選の一九八一年から今年の祝典行事を大国フランスの栄光昂揚のため、斜陽の社会党のイメージ・アップのために、国をあげての準備にとり組んできた。
 革命を起した連中は、それを「自由・平等・博愛」そして「人権」の革命と宣言した。フランスの共和主義政治家、学者たちはその宣言を大切に擁護してきたし、それをそのまま真に受けて信仰している人はまだ世界中にいるので、ミッテラン大統領はそれをだしに使って、革命二百周年祝典を世界中に輸出した。某観光会社が縁の下の力持ちになり、日本にも革命二百年祭日本委員会が設置された。
 世界中の自由・人権の友は博愛(同胞)の連帯を組んでパリにお参りし、今年の祝典行事に参加させて頂ける喜びにひたっている。
 六月にはアメリカ五〇州の代表がやってきて、七五〇〇人編成の楽隊が「マルセイエーズ」革命歌(今のフランス国家)とベートーベン第九の「歓喜・同胞愛の合唱」を演奏しながら、パリ市会からエッフェル塔(革命軍事パレードの練兵場「シャン・ド・マルス」跡に革命百周年記念に建てられた)まで行進する。
 自由と人権の象徴は何よりもパリのブルジョワジー大衆による「バスティーユの要塞監獄奪取」(七月十四日)だから、その監獄跡には世界一を誇る新しい人民オペラ座が総工費二二億フランで建設された(野党の反対もあって完成は二年後)。
 東京も今年は三色の洪水である。「革命二百年祭のパリで私たちもお買物革命」(『ミス』誌六月特集号)程度のことなら笑って済ませるが、「二百年祭を日本文化再構築の機会に」などと説く大学教授がでてくる(『フランス革命二百年祭日本委員会』『産経新聞』五月十二日付)となると笑って済ますわけにもいかない。フランス革命は私にいわせれば最も狂気じみた、血なまぐさい文化大革命だからである。
 革命教信徒は「フランス革命=自由・人権」として、あたかもそれ以前に自由はなかったかのようにいう。彼らはいう。「それ以前は暗黒の旧体制だったから自由はあり得なかった」という。これは革命のレトリックの魔術である。「旧体制」ということば自体が革命賛美のために革命が生んだ概念なのである。
 いわゆる旧体制には、どの時代にもあるような細かい問題や不満があったけれども、政府を転覆させて王を処刑せねば解決のできないような問題はなかった。全国的、恒常的飢餓もなかったし、経済的にフランスはイギリスに優るとも劣らぬ地位にあった。革命が起きるまでの六年間、戦争知らずだった。国内でひどい政治的弾圧もなかったから、強力な反王・野党勢力もなかった。アメリカ独立戦争での植民地側援助による政府負憤とか、均衡財政を達成したネッケルの解任と無能な蔵相カロンヌの登場などに由来する財政上の問題があったから、百七十五年ぶりで聖職者、貴族、庶民の三身分会議が招集されたけれども、誰も革命など予想していなかったから王は会議招集に同意した。旧体制は革命教信徒が描くほど暗黒ではなかった。
 フランス革命はしからば何であったのか。調べれば調べるほどに分ってくるのは、革命は単に自由の光明の起源というにはあまりにも影の部分が多いこと、革命教信徒たちはくさいものにふたをするかのように、その影の部分をひたかくしにしてきたこと、つまり、自由・平等・博愛・人権は多分に神話だということである。
 それがどういう意味で神話なのか。従来かくされ勝ちだった次の諸側面に光をあてて、フランス革命を「非神話化」することが本論の試みである。(一)フランス革命の自由・平等の実の名は血なまぐさい大量虐殺、迫害だったこと。(二)迫害の究極目標はカトリック教会の撲滅にあったこと。(三)それは同時に都会的中央勢力による地方農村文化(ヴァンデー)の圧殺だったこと。(四)革命の究極目的は、暦の改革による「生活の質」ないし文化の座標軸の転換だったこと。つまり文化のベクトルを、天(聖なるもの)を仰ぐ垂直方向から地(俗なるもの)のみに限られた水平方向に捻転させることが究極目的だったということ。
 フランス革命は何よりも、これらの諸側面が連関して形成された教会迫害、宗教文化迫害としての文化大革命だった。その意味でのロシア革命、ナチスのホロコースト、中国の文化大革命と同類の文化大革命である。四つの側面がなぜ相互に連関していたか。それは結論で答えたい。
(一)バスティーユの神話と「九月の大虐殺」
 フランス革命は血なまぐさい大量虐殺、迫害、人権蹂躙だということを、まず「バスティーユ奪取」事件について、そしていわゆる「九月の大虐殺」について明らかにしておこう。
 バスティーユは、多くの政治犯を収容して、ブルボン王朝の専制のシンボルと見なされてきたパリの監獄兼要塞だった。圧政に打ちひしがれていた人民が蜂起して、武器を探しにバスティーユに向かった。人民大衆は力ずくで要塞に進入し、政治犯を解放した──というのが神話の筋である。
 現実には、パリの人民大衆は「奪取」に参加していない。参加したのはドイツ人などの外人を含めた少数のごろつきと下層市民で、ブルジョワは一人もいなかった。過激派革命家たち、デムラン、ダントン、サンテールなどは最初の小ぜりあいには参加していなかった。彼らに煽動されて入った暴徒が見出した「多数の政治犯」は、四人の偽証人、近親相姦の貴族一人、アイルランド人を含む二人の精神異常者の計七名であった。奪取、進入という事実もなく、革命家たちは要塞の司令官ロネの指令で開かれた入口から入った。要するにバスティーユは自由の歴史とは無関係なエピソードであった。
 私にいわせれぱ、バスティーユの象徴的意義は、「解放」が済んでからなされた背信残虐行為にある。要塞の入口を開く話しあいに応じた司令官ロネを暴徒たちは殺害し、遺体をバラバラにし、切った首を槍先に刺して市中を行進した。パリの商人団長フレッセルも同日に同様な運命にあった。曝し首の行列をやったのは暴徒だが、フレッセルをピストルで射ち殺したのは昂奮した暴徒ではなく彼が市会を出てくるのを待ち伏せていた一人の暗殺者だった。暗殺者の裏にはオルレアン公フィリップの謀略があったともいわれる。公はフリーメーソンの著名な組合長であった。因みにメーソンといえば、一七八七年当時のフランスにはパリを中心にフランス全土八二都市にメーソンのロッジが組織されていた。パリ市内の八〇のロッジのメンバーには、コンドルセー、ベイリー(フレッセルの政敵)、デムラン、ダントン、シェス、ミラボー、マラー、ロベスピエール、そしていわゆるギロチン斬首台の発明者ギヨタン博士などの革命家たちが名を連ねていた。
 さて次に、フランス革命を自由・平等のシンボルとして謳歌する方に知っておいて頂きたいのは「九月の大虐殺」のことである。これは二世紀以前の「聖バルトロメオ祭の大虐殺」(一五七二年八月二十四日)以来パリで見たことのない残酷で、計画的、組織的な大虐殺である。一七九二年九月二日から六日、七日にかけて起ったことで、主にパリ市内の監獄の囚人たちが犠牲者であった。計画したのはマラーだったらしい。彼の新聞『人民の友』が煽動したのはたしかである。
 九月二日、日曜の午前中に、魚屋区とルクサンブール区の区会で殺しの準備が完了した。市会の留置場からサン・ジェルマン・デ・プレのベネジクト会修道院に移されることになっていた約二〇名の囚人は、修道院前で馬車から降りると同時に殺された。二日の午後から一晩中、そして四日早朝まで、カルメル会修道院、サン・ジェルマン修道院、またフォルス、コンシェルジュリー、シャトレーの三監獄での虐殺が続いた。修道院は当時監獄として使われており、カルメルでは、二日、三日の両日で約一〇〇人の司祭が殺された。三日には聖フィルマン神学校の囚人たちが、そのあとはビセトルの感化院とサルベトリエール養老院監獄の女性囚人たちが襲われた。
 なぜ、やったのか。表向きの理由は、囚人たちはフランスに迫る外敵と内なる王党派と内通して内乱を起す危険があるということだった。たしかに革命下のフランスは当時オーストリア・プロシア連合軍と戦闘中で、プロシア軍が九月二日にヴェルダンを占領するという緊迫した状況にあった。革命家で殺し屋のメイヤールは、サン・ジェルマン・デ・プレの修道院で人民裁判を行なったが、それは裁判の名には値しない形式的な手続でしかなかった。囚人たちは殴り殺され、撃ち殺され、斬首されたり咽喉を裂かれたり、虐殺は残忍を極めた。
 そのため、パリ市民の間では事実を誇張した残酷物語がまことしやかに語り伝えられた。ド・モンモランは串刺しにされ、半死半生のまま議会に連行されたというような話もある。しかし、たしかなのは、ビセトルの感化院では十二歳から十七歳までの精神薄弱児・浮浪児たち三三人が虐殺されたということ、そして、フォルス監獄の中庭で、ランバル公夫人が虐殺された、しかも最も残酷な仕方で虐殺されたということである。
 王室の女官長のような職にあったランバル公夫人は、途中で失神するほどのきびしい訊問を受けても王制否定の宣誓を拒否し続け、処刑された。彼女は死後レィプされ、頭と心臓と性器は切り分けられて槍に串刺しにされた。殺し屋たちは串刺しの「賞品」を片手に、そして裸にされた屍体を片手で引きずりながら、タンブル宮殿の塔内に軟禁されていた王妃マリー・アントワネットのもとに向かった。途中で彼らは美容師をよんで槍先の頭髪を整えさせ、頭に化粧させた。王妃にキスさせようという目論見だった。
 他の囚人たちはこれほど念入りではないが、多かれ少なかれ同様に残酷なやり方で殺害された。ふつう囚人たちは二列に並んだ「処刑人」の間を歩かされた。処刑人の中には監獄から特別出所を許された凶悪犯もいた。彼らは刀、槍、斧、肉切り包丁などを与えられ、一日六フラン、無料ブドウ酒という条件でやとわれていたのだ。
 九月の大虐殺の犠牲者はふつう約一〇〇〇人から四〇〇〇人といわれるが、これを専門に研究したカロンによると、一〇九〇人ないし一三九五人。その内訳は非政治犯が七三七人から一〇一三人、俗人の政治犯が四九から八七人、司祭が二二三人、スイス護衛兵が八一ないし八二である。司祭というのは、あとで脱明する一七九〇年の教会国有化法に反対の司祭たちである。俗人の政治犯というのは、そのような司祭を支持する、あるいは王制を支持する俗人である(因みにカルメル修道院の監獄で殺された殉教者一九一人は一九二六年公式に、福者の称号をローマから与えられた)。王制廃止の決定をもたらした八月十日の革命のあと、パリの監獄はそのような司祭や貴族や王宮近衛師団のスイス衛兵で満杯になっていた。
 九月の大虐殺の犠牲になったスイス衛兵は一七八九年、バスティーユ要塞の護衛に当っていた兵士である。いったんバスティーユ襲撃が自由と平等のシンボルとされると、襲撃の障害になった勢力はすべて自由と平等の敵とされる。気の毒なことに、法と秩序の勇敢な防衛者として国際的に知られているスイス衛兵は、八月十日の革命でもすでに革命家たちの手で残酷無比な処遇を受けている。
 八九年の秋以来、ルイ十六世とその家族はヴェルサイユの宮殿からパリのテュイルリー宮殿に居を移していたが、九二年の八月十日革命で暴徒に襲われ、国民議会の議場内桟敷に避難することになる。そのときも最後まで留まって王宮を暴徒の掠奪暴行から守ろうとしていたのがスイス衛兵である。桟敷の王から「もう抵抗はやめよ」との指示が来て降服したスイス衛兵たちに対して暴徒たちは攻撃を加え、宮廷の料理人から御用掛の貴族にいたるまでのすべての人間と同様、虐殺した。そしてあのランバル公夫人と似たような形で屍体をこま切れにした。パリの通りで槍先にスイス兵の首が曝されていない通りはないといわれたほどである。タ方には子供たちがスイス兵の首を蹴とばしてたわむれていた。女たちは裸の屍体から肉を切りとっていた。
 殺し屋や掠奪者は王宮から盗んだものの一部を「国民」への贈り物として議会に運びこんできた。そのなかには王宮聖堂の聖櫃をこじあけて取り出した金の聖杯もあった。中にはキリストの聖体がまだ入っていた。
(二)「聖職者民事基本法」と力トリック教会撲滅政策
 従来の革命記述でかくされてきた第二の側面は、一七九二年の虐殺はもちろん、すでに八九年以来いくどとなく繰り返され、犠牲者総数三五万とも六〇万ともいわれる虐殺、迫害の究極目標は力トリック教会の撲滅にあったということである。
 革命は一七九二年秋には王制廃止を決定したが、王制は本来の攻撃対象ではなかった。一七九〇年二月、十一月に議会が定めた忠誠宣誓文は、市民に対し「国民と法と王」への忠誠を要求している。翌年九月末に王が改定憲法に同意したとき国会議場には「国王万歳」という満場の叫び声がこだました。
 一七八九年十月のヴェルサイユ宮殿への行進の際に革命群衆は「そらくるぞ、そらくるぞ」というリフレインで知られる革命歌を歌った。九二年八月十日の革命でもこの歌が聞えた。後にこの歌の次の句は「貴族たちはガス燈へ(首吊りに)」だとして知られるようになったが、八九年当時の句は「司教はみんなガス燈へ」(「ガス燈」は本書の表紙の画にでている)だった。たしかに「貴族」ということばは今日の「ファシスト」のように、進歩主義者の気にくわぬ者すべてにつけられる代名詞になったが、フランス革命は本来貴族制反対ではなかった。ミラボー、ロベスピエール、バラ、ボナパルトなど革命家の主要人物自身が貴族出身で、口では「市民的生活」を説きながら、実際は貴族的生活を常にあこがれてきた。革命軍はなるべく貴族の城を攻撃しないように努めた。革命政府が努めたもうひとつの点は、貴族がなるべく外国に亡命しないようにということだった。「革命の中で貴族のように生活する幸福」というようなことがいわれたものである。
〔上で「本書の表紙の画」として言及された絵。説明は以下の通り〕
[カバー装画]
『フランス栄光の頂点:自由の頂上』ジェイムズ・ギルレイ
一七九三年一月二十一日の「革命広場」(今日のコンコルド広場)でのルイ王処刑がアナーキーと流血時代の幕開けであることを象徴した風刺画。キリスト像の上には「ユダヤ人の王ナザレのイエズス」のかわりに「だんな、おやすみ」と記されてある。ガス燈(ランテルヌ)に首吊りになっているのは、裁判官、大司教、修道士。司教杖の上に「自由」とある。ギヨタン刑台に横たわる王をガス燈の上に座って楽しげに眺めているのは一人のサン・キュロット。三色旗の上に「自由万才」とある。広場の東北の聖母被昇天教会は炎上中。「宗教、正義、忠誠そしてすべての『非啓蒙』(蒙昧)精神の化物達よ、おさらば」という皮肉がこの画の副題となっている。ちなみに、これはギヨタン刑台の最初の画像。
 本来、立憲王制的、貴族主義的フランス革命が、初めから終りまで一貫して敵視してきたのはカトリック教会であリキリスト教である。しかし敵視したのはカトリックだけでなくキリスト教一般、そして結局宗教そのものである。
 九月の大虐殺の前に、九二年六、七、八月、フランス各地で多くの司祭が石殺し、絞首、溺死などで虐殺されていた。八九年のバスティーユ事件の前日に、貧民救済活動で知られたヴァンサン・ド・ポールの建てたパリの聖ラザロ修道院が愛国的暴徒によって掠奪・破壊された。
 このような反教会、反修道院テロリズムの裏には、啓蒙哲学の理神論や自然主義の思想運動がある。啓蒙哲学の専門書は一般人の読むところとはならなかったが、革命の指導者たちはほとんど例外なしにヴォルテール、ディドロー、ホルバックなどの反教会、反宗教宣伝の洗礼を受けている。『百科全書』のためディドローが書いた「寄付行為」項目の論文はミラボーが胆に銘じて普及させた思想の源泉だったという。
 ディドローによれば、来世や超自然や魂の不滅を信じて、教会や修道院に祈祷を頼んで寄付したりするのは愚の骨頂である。来世や超自然や不滅の魂などは神と同様に実在しないものなのだから、そのような愚かな信仰の上に由って立つ修道院や教会に存在理由はない。われわれにとって最高の掟は来世での魂の救いではなく、現世での公共的利便である。
 ディドローは一七九六年に『修道女』という小説も出版して修道生活の非人間性、非合理性を訴えた。啓蒙主義者にとって宗教は「狂信」でしかなかった。無教育で、社会的利便のない無用の長物、それが啓蒙哲学者たちの見たフランスの教会であった。
 これらの批判はもちろん多くの場合、意図的な歪曲である。寄付行為で集積した教会や修道院の富は、病院、養老院、貧者救済施設、そして多くの無料学校経営のために用いられていた。デムラン、ダントン、ヴェルニヨー、ロベスピエールなど、多くの革命指導者たちはカトリック系学校の卒業生ないし奨学金受領生であった。孤児のロベスピエールは、アラの司教の奨学金を得て一流のイエズス会系学校ルイ・ル・グランで学んだ。革命当時の教会には、さまざまの欠陥もあったが、文化大革命を必要とするほど堕落していたわけではない。全体的には健全で、聖なる教会であった。だから「その成員の何人かのいくばくかの悪徳にも拘わらず、革命時代フランスのカトリック聖職者より優れた人々を知らない」と述べたトックヴィルは正しいのである。
 教会の破壊を目ざした措置は八九年からつぎつぎにとられていた。身分会議は解散され「聖職者」という憲政上の身分は消滅した。十分の一税という教会税は廃止になり、八九年十一月に教会財産は国有化され、翌年十月からその競売が始まった。そのしばらく前に、ベネジクト会とかカルメル会などの観想修道会の事実上の解散も始まっていたので、教会だけでなく修道院の土地や建物も売りに出された。クリュニーとかジェミエージュ(セーヌ河口)の千年の歴史をもつ大修道院も、すばらしい建築、教会芸術作品、彫刻、絵画、図書、手敲、典礼用具、大理石、木材、鉄柵、ドアの把手までも含めて、丸ごと売りに出されて消滅していった。
 観想修道会と違って病院や学校の経営にたずさわるいわゆる活動修道会はしばらくの間存続を許された。社会的に有益だと考えられたからである。しかし、九一年夏までには修道院はすべて閉鎖されることになった。
 力トリック教会撲滅のための措置として大切であるだけでなく、フランス革命一般史のなかでもバスティーユの「奪取」などよりはるかに歴史的意義の大きい事件は九〇年七月十二日に国民議会で票決された「聖職者民事基本法」である。この法案は、フランスのカトリック教会を口ーマから独立させ、国内では教会を反キリスト教的国家の下に隷属させるものだった。
 基本法のもとで、教会の司教区は、革命政府が新たに作った「県」と称する世俗の行政単位にあわせて再編成された。その結果一三五人の司教は五三人になり、村や町の約四〇〇〇の古い教会が整理消滅させられた。
 民事基本法は、教会を教会法の管轄下でなくフランス民法の下に置いた。司教、司祭の候補者は世俗の地方行政区の市民代表によって選挙される。したがって司教は自分の司教区の中では、国が定める評議員会の同意なしには何もできなくなった。
 このようにして九〇年夏までに、ローマと無関係にだけでなく、フランスの伝統的教会組織とは独立に、「上から押しつけられた、(形式的には)下からの民主的、民族主義的国有化教会」の枠組が完成した。
 ここで、それに先立つ約一年前の八九年八月二十六日に票決されていたもうひとつの大変化にも触れておかなければならない。それは、フランスにおいて人はいかなる宗教的意見をもとうともそのために迫害されてはならないという第一〇条を含んだ人権宣言の決定である。これは、今日多くの人々が当然と考える政教分離の思想である。しかし、これは当時のフランスにおいては未曾有の大変革を意味していた。なぜならフランスではクローヴィス王が四九六年にカトリック教徒になって以来千三百年間政教一致の伝統が続いており、十八世紀半ばからプロテスタントが公認されるようになってもカトリックを国の主要宗教としておくというのが国民大多数の考えであったようだ。しかし国民議会の大多数はそう思わず、宗教は金く個人の問題であり、公共生活にはいかなる影響も有すべきではないと考えていた。宗教信仰を社会生活から完全に閉め出そうという聖俗分離が、革命の政教分離の哲学だったのだ。
 皮肉なことに、人権宣言をめぐる討議だというのに、この第一〇条をめぐる討論で、少致意見の保持者には発言の機会さえ封じられた。もうひとつ皮肉なこと。人権宣言の第一〇条には、どんな宗教を個人的に信仰してもよいし、その自由を保障するというくだりのあとに、「ただしその表現が、法によって確立された公共秩序を乱さない限り」というただし書きがついている。そしてそれが、すでに述べた九月の大虐殺のような、そして教会人に対するすべての迫害、虐殺の法的根拠になるのである。
 人権宣言は九一年の九月半ばに王も承認した新憲法の序文となって公布された。立憲国民議会が「国王万歳」と叫んだのもそのころの話である。
 さて、民事基本法の成立以後考えられた教会撲滅策の次の手は、この基本法への忠誠宣誓である。このの法への忠誠を公に宣誓せぬ司教や司祭、修道者を公務員として免職処分に付すというのが九〇年十一月二十九日票決の法令である。キリシタンの踏み絵である。
 基本法成立後も信徒の大多数は、革命政権が任命した新しい神父や司教をほんものの聖職者とは認めなかった。新しい教会と古い信仰との間に溝が作られていた。
 宣誓の要求はその溝をいっそう深くし、内乱の危険をいっそう増大させる。多くの新しい聖職者も宣誓案には反対した。国民議会のメンバーになっていた司教は黙っていたが、ヴィアンヌの大司教、ブローニュの司教など地方の多くの司教たちは反対した。王は法案の承認を渋っていたが、周りからの圧迫にまけてついに十二月二十六日に承認した。どうせ大部分の司教たちは宣誓するだろうと思ったらしい。
 ところが年末から翌年春にかけて各県の行政府が実施した宣誓手続のふたをあけてみると、司教たちのなかで宣誓したのはオタンの新大司教ダレイランを含めた四名だけだった。賛成派と反対派のそれぞれが激しい宣伝戦を展開した。ローマ教皇は三月初めに議員の司教たちとフランス教会宛に警告の書簡を送ったが、五月初めまでパリでにぎりつぶされ、公表されなかった。時流にあまりにも烈しく逆らうものと受けとられたからである。書簡は基本法だけでなく自由と平等の人権宣言をも批判していたのである。そして、その批判は、フランス革命のいう自由と平等が何を意味するか知る者にとっては当然の批判だった。そしてこの書簡の公表引きのばしの裏には、宣誓反対派の勢力伸長を妨げようとする意図もあったに違いない。結局、司祭たちのなかで賛成派と反対派の数は約半々になったらしい。西部には反対派が多く、賛成派の多かったのは東部と中央部だった。
 反対派は免職処分に付され、そのために生じた空席を埋めるために九一年から九二年にかけて、再び司教、司祭候補者の選挙があった。この選挙の参加率は極めて低かったので、プロテスタントも無神論者も狩り出されてカトリックの聖職者を選挙した。
 昔の司教は学識教養あり、多くは貴族出身者であったが、新しく人民投票で選ばれた司教たちは大部分、革命でもなければ司教には決してなれなかったといわれる無学無教養のやからであった。しかし、そのような司教に限って、新任の儀式を昔の司教よりも数倍盛大に行なうよう要求した。愛国的音楽が奏でられ、礼砲がとどろいた。教会や修道院はいっせいに鐘を鳴らすよう義務づけられた。九一年のことだが、陶器で有名なリモージュの南にあるドルドンニュ川沿いのサルラの町のクララ会修道院の修道女たちは、ペリギューの新司教の着任祝いに際して市会が命じた鐘つきの指令に抵抗して鐘を鳴らさなかった。その後「愛国者たち」は修道院を襲撃して、手あたり次第に家具を破壊した。
 九一年十一月の法令は宣誓拒否の聖職者を反逆者と定めていたが、九二年五月二十七日の法令は、二〇人以上の市民からあやしいと告発された司祭を追放刑に定めた。自分のやったことを悔いていた王は、九二年夏、ふたつの法令に対して拒否権を行使して承認を拒んだ。それがひとつのきっかけで、革命家たちは結局八月十日にテュイルリー宮殿を襲い、王は議会の議場に避難する破目に陥ったのである。そして王の拒否権行使は無効になった。
 革命に同調する司教、司祭は「宣誓者」と呼ばれ、反対する聖職者は「宣誓拒否者」ないし「非宣誓者」と呼ばれた。宣誓拒否者に対する弾圧は日ましに厳しさを加えた。九二年八月二十六日の法令は十五日以内の国外退去、不服従の場合は南米ギアナへの流刑を定め、九三年三月十八日と四月二十三日の法令は、国外退去を避けて地下に潜行する宣誓拒否者は死刑と定めた。ナントのカルメル会修道院監獄に入れられていた拒否者の老神父は船に乗せられロアール川の川底に沈められた。
 宣誓強化の結果、無数の聖職者が諸外国に追放された。自由の闘士エドマンド・バークが『フランスの苦しむ聖職者の件』を書いて被迫害者への援助を世論に訴えたのもこのころのことである。イギリスはローマと対決する英国教会の国であるのに、約一万人の追放カトリック聖職者を受け入れた。国外追放の憂目にあった司祭は約四万、フランスの全司祭団の約三分の一と推定される。
 教会弾圧措置はさらに厳しさを増し、宣誓者であろうとなかろうと、聖職者はすべて迫害されるようになる。九二年の八月には司祭服、修道服の着用が禁止された。聖職者はそのアイデンティティを外面的に表現してはならないということである。
 非常に重要なのは九月二十日の法令による離婚の合法化と誕生・結婚・死亡手続の世俗化である。これらの手続は何百年にもわたり教会で神父が行ない、その記録は神父が保管することになっていた。そのすべてのしごとは今や司祭から奪われて、市役所の所管に移った。教会に記録文書を保管することも処罰の対象となった。結婚は伝統的に神聖な不可侵の秘蹟とされてきたが、今や役場で届ければそれでことは済むようになった。
 国民公会と称するようになった議会が聖職者の結婚を奨励したこともあり、九二年末から、結婚するカトリック司祭の数が増えてきた。このことは教会の伝統に対する大きな打撃となった。
 要するに、聖職者民事基本法とそれに対する宣誓要求はフランスのカトリック教会撲滅のためのきわめて重要な、制度的変革をもたらした。宣誓の強制による迫害の強化は、最初にあげた九月の大虐殺、そしてそれと同時に始まる恐怖政治(九三年九月から九四年七月)の出発点ともなった。
 しかし、それは同時にまた、「宣誓拒否者」として地下潜行、海外追放その他さまざまの苦難を余儀なくされている聖職者を支持する信徒を奮起させる結果にもなった。そのような信徒の方が、「宣誓者」を支持する信徒よりも多かった。そして迫害の激化と比例して、「宣誓拒否者」──彼らは「よき聖職者」と呼ばれた──を支持する多数派信徒の受動的抵抗は、特に西フランスにおいて積極的抵抗へと転換していった。
(三)「ヴァンデーの集団虐殺」・地方文化、宗教文明の圧殺
 フランス革命は、カトリック教会撲滅の試みであると同時にフランス社会の大部分を構成する農村社会、きわめて豊かな地方的伝統と、素朴なしかし深い宗教信仰に根ざした伝統的価値観を備えた農村社会に対して、そのような現実を全く理解しないパリ中心の少数派の都会的インテリが、地方農村社会に暴力をもって無神的共和主義の理論を押しつけようとした無謀、無慈悲な試みであった。その好例が、ヴァンデーである。
 「もはやヴァンデーというところは存在しません。それは、女子供とともどもに、われわれの自由の剣のもとで死に絶えました。私は奴らをサヴネーの湿地帯に埋葬しました。餓鬼どもは馬の蹄鉄で踏みにじらせ、女どもは虐殺して、これから泥棒たちを産めないようにしてやりました。私のことをとやかくいう捕虜はひとりもいません。奴らはみんな消してやったからです」
 これはヴァンデー地方をすみからすみまで破壊し、焼き払い、「叛徒ども」を全滅せよという九三年八月二日の公会の法令に従って、ヴァンデーの農民蜂起の弾圧にあたったフランソワ・ジョゼフ・ウェスターマン将軍が行なった報告の一部である。
 ヴァンデーというのは、革命以前にはなかった地方である。それは革命政府による地方行政区画再編成後につけられた県名で、本来はロアール河の河口の南方を中心にした旧アンジュー・ボアトゥー地方、俗称「生けがき地方」をさす。ヴァンデーの農民蜂起とは九三年三月初めに起った広汎な蜂起のことである。それはヴァンデーからさらにロアール河の北方にも広がったので西部の蜂起ともいわれるが、マルクシズム史学ではまともにとりあげられないか、あるいはとりあげられても反乱、謀反と片づけられてしまう事件である。ソルボンヌ大のオラール教授によれば、外国の軍勢や亡命貴族がフランスを攻撃しているというときに、それと呼応して背後から祖国を攻撃した国賊的存在がヴァンデーなのである。
 たしかにこの蜂起の背景のひとつには革命フランスの戦争があった。九二年九月にオーストリア・プロシアと亡命貴族の連合軍をヴェルダンの近くのヴァルミで破って勢に乗った革命軍は、今のベルギー地方も自由と博愛の名において占領した。革命公会は九三年二月一日に、イギリス、スペイン、オランダに対しても宣戦布告するという拡大政策をとった。この大戦争にはどうしても兵士が不足する。公会は三月三日に三〇万人の徴兵を決定。地方白治体は四十歳以下の男子をくじ引きで徴兵することになった。
 この徴兵令は西部においてはいわばプライバシーの侵害として極端な反感を買った。初めは五〇〇名、六〇〇名、そしてさらに多くの若者たちが集まって役場を攻撃し役人を殺した。この地方の村々は孤立して広く散在し、交通の便はきわめて悪いが、村の教会の鐘を鳴らしては連絡をとって反革命軍がふくれ上がっていった。三月十四日からは地方の貴族たちも参加し始めた。農民が主体だが職人、市民、貴族も入った混成旅団が動き出した。
 徴兵令がこの蜂起のひとつのきっかけではあったがそれが最大の理由ではなかった。さまざまな階層の人間をひとつにまとめた共通項は第一に信仰、第二に王制であった。共和制絶対反対派は多かったが、共和制と妥協してもよいという連中も少なくなかった。しかし伝来の教会と正統信仰、これだけはほとんど皆が皆、絶対に譲れないと考えていた。
 「聖なる信仰のために闘おう」。彼らはこう叫んで、フランス国王旗とイエズスと聖母マリアの聖心の旗じるしを掲げて行進した。三月十九日からは、マルセイエーズの革命歌のメロディーにあわせた替歌が唱われ出した。
 「カトリック軍よ前進しよう。栄光の日はやってきた。共和国に対抗して、血ぬられし旗はあがる」
 この蜂起の主な原動力は徴兵令忌避ではない。この地方の深い地方的、農村的宗教文化である。フランスの他の地方で宗教心がなかったというわけではないが、西部は南部と並びことさらに宗教心が厚かった。特に聖者ド・モンフォールの育てた司祭たちは福音宣教、使徒的活動にぬきんでており、この地方の信徒はそのような「よき司祭」の指導のもとで、十字架、聖体、ロザリオなどの信心に励み、村の司祭と村人の間には深い信頼関係があった。
 今日ヴァンデーと呼ばれる地方は、郡ごとに方言や習慣も異なるような多数の村落群の集合であってもともと単一の文化地域ではなかった。その地方の村人をひとつに結びつけたものは、共通の信仰であった。そして他の地方よりもことさら信仰心の厚かったヴァンデーの住民は、都会の中央共和政府による教会と教会的農村文化の弾圧に対してことさら敏感に反応したのである。
 何千人の行列をなして夜通し、ロウソクの光で歩き、諸聖人の連祷を祈りつつ、賛美歌を唱いつつ、聖母マリアの祠へ巡礼することによって革命政府の宗教政策への抵抗を示していたヴァンデーの人々は、武力による抵抗へと移ったのである。司祭たちは忍耐せよ、犠牲を献げ物として神に献げよと説いていたが、ヴァンデーの信徒たちは「カトリック・王党軍」を組織するに至ったのである。
 初めはいくつかの拠点や町を占領するのに成功していたが、九二年夏ごろからは旗色が懇くなり、中央からの援軍を得た共和軍の攻撃の前にカトリック・王党軍は十二月までに完全に消滅したと思われた。
 しかし、そうではなかった。九四年の一月にはテュロー将軍統率下の悪名高き「地獄軍団」がヴァンデー地方に投入された。「焼き、こわし、掠奪する」という獰猛なゲリラ部隊である。それに対してもヴァンデーは新たな抵抗を始めた。公会は九五年に休戦を求めてきた。しかし九五年に再び戦闘が再開。ヴァンデーの蜂起と抵抗と虐殺の歴史は一八〇一年まで続く。ヴァンデーの集団虐殺の犠牲者数は、最初の約十八カ月で一二万にのぼるという。一七九三年十月から九四年十月までにアンジェー市とその近郊で捕えられ処刑された聖職者、修道女、俗人信徒の計九九人は信仰のために命を捧げた殉教者であると、教会は公式に認定している。ヴァンデーの蜂起の原動力は宗教心ではあるが、同時にそれはジャコバンの中央集権的な異質文化の押しつけに対する、地方、農民の抵抗の表現だった。革命は「県」の幾何学の議論による「地方」の心情の論理の圧殺であった。
(四)暦年改革・生活の質とリズムの革命
 フランス革命は、より深い次元においては何よりも「生活の質」ないし「生活のリズム」の根本的転換をはかったという意味で、最も深刻な文化大革命であった、そういう意味でのフランス革命の真髄を最もよく表現しているのが暦年改革である。なぜなら、人間の日常のいとなみを最も具体的に、根元的に律しているのは時間であり、暦年であり、祭りである。キリスト教を、宗教を撲滅したければ、従来の伝統的、キリスト教的カレンダーであるグレゴリオ暦を別のものと取りかえねばならない。
 伝統的キリスト教信仰によると一年、一週、そして毎日は祭りである。祭りとは世俗の時間を忘れて永遠に心を向けさせる場である。教会の伝統的カレンダーつまり典札暦を見ると、日曜日はキリストの受難復活記念の祭日だが、週日も毎日が聖人の記念日とか何かの祭日である。そのほかにクリスマスとか復活祭とか聖霊降臨祭とか大きな祭日が一年の季節を、時間から永遠に向かう救済史のひとこまひとこまとして区切っている。
 フランス革命は、六世紀半ばに導入されて以来千数百年にわたって人々の生活を律してきた教会典礼中心の暦を僅か数年間で廃棄することによって、人々の心から永遠なるもの、時間を超えるもの、聖なるものに対する感覚を奪い去ろうとした。
 もちろん、そのような大変革は急いで、しかし徐々になされねばならなかった。人は少しずつ変革されていくものなら、結局しばらくたってみると実は大革命である場合でも、大変革ないし革命と意識しないからである。
 暦の改革を行なう前に革命議会がまず始めたのは祭りのなしくずし的な世俗化である。祭りは本来、教会の中で行なわれる典礼儀式であったが、それが少しずつ世俗の儀式になって行く、しかし、世俗の儀式であっても、それに教会の儀式を刺身のつまのように添えておくというのが八九年から九一年ごろまでの方式である。
 「連盟祭」というのもバスティーユ「奪取」記念の祭りとして定められた。この祭りは、みなの同胞的連帯を祝う祭りであるから「連帯祭」とでもいうべきであろう。みんないっしょになって楽しく騒こう、その場合、みんなでという民衆的要素が大切である。教会の祭りも本来民衆共同体の祭りだったからである。みんなの夏祭り、それに軍事パレード、そして最後にシャン・ド・マルスの練兵場での野外ミサという工合である。
 一七九一年の四月と七月に、ミラボーとヴォルテールをパンテオン神殿に殿堂入りさせる儀式が行なわれた際は、宗教儀式はなかったものの、それは聖人の崇敬式のような感じで、教会敵視の感じを起させるようなものでばなかった。
 しかし基本法の成立と宣誓の強制以後、聖書だとか、ミサとかは世俗の祭りにはそぐわないとされるようになる。公会時代にバスティーユ記念式典がノートルダム大聖堂で行なわれるが、それはオペラ座のオペラ上演だった。政治が直接教会の中に入ってきたのである。「テ・デウム」(われら汝、神を賛美せん)の伝統的賛美歌だけは歌われたが、それは飾りものに過ぎなかった。聖なる教会堂が俗事に利用されたに過ぎない。九一年九月十八日、例のシャン・ド・マルスで新憲法が祝われたときはミサもなく「テ・デウム」の代りにフランス愛国歌が唱われた。
 九二年ごろから九四年にかけ祭りの性格が偽似キリスト教的から明らかに反キリスト教的になり、祭りはみんなで楽しむ祭りではなく、細かく規制された政治教育、洗脳の手段になり、共和主義独自のシンボルが用いられ始める。一七九三年十一月十日にノートルダム大聖堂で行なわれた「理性の祭り」では、小さい神殿を頂上にいただく山が教会の中央に築かれた。神殿には「哲学へ」という文字が掲げられた。啓蒙哲学のことである。山は公会議場の左翼の高みに陣取って山岳党といわれた過激派を象徴していた。やがて神殿の奥からオペラ座の踊り子が出てきて山のふもとの緑もうせんに座り、共和主義者からの表敬を受ける。彼女は「自由の女神」の象徴であると同時に、聖母マリアに対する冒涜のシンボルでもある。
理性の祭り Festival of Reason
 ここで見られるように、革命にはざまざまの視覚的シンボルもつきものである。伝統的宗教、伝統的教会を否定した新しい啓蒙・共和のイデオロギーが、さまざまのシンボルを通して自己自身に人工的な神聖さを付与して、手づくりの人間的教会を建てるようになる。そのような人工宗教の象徴として登場するのは「聖なる山」「緑色」のほかに「赤帽」(縁付き帽子をしていた貴族への反抗の象徴)「(赤白青の)三色」、さまざまの色付きの軍事徽章や「自由の樹」などである。ニッカボッカーとしてわが国でも知られている、膝でしばる半袴をはいていた貴族への反抗のしるしとしてはやり出した革命的服装が「半袴なし」つまり今日われわれがはいているズボンである。虐殺された狂信徒(キリスト教徒)の曝し首にはよく三色リボンがかけられていた。
 さて共和祭典のこのような発展と並行して工夫、制定され、革命祭典の枠組ともなったのが共和暦年である。それは九三年の十月公共教育委員会に委託されて、革命家の数学者ロンムと革命家の詩人デグランティンが作製した、奇想天外な案に基づいて作られた。
 ロンムは共和暦年元年は一年さかのぼり九二年の九月二十二日の秋分から始めるべきだとした。昼夜平等の日から始めるのが共和主義にふさわしいというのだ。一年は十ニカ月だが一カ月はすべて三週間。つまり一週間は十日である。一年の終りの半ぱな五日ないし四年に一度の六日はサン・キュロットの日といって「天才」「意見」「褒賞」などと名づけられるが、ふつうの週日は月、火、水ではなくラテン語の数詞をもとに第一日、第二日などと呼ばれる。古い週日には神々の名が入ったりして不都合だったからである。月の名称も、自然や気候に関係のある「霧月」とか「雪月」とか「風月」「花月」「果実月」などになった。
 週を十日にして第十日を休日とした。これがキリスト教の日曜日を廃止させるための手段であったことは当事者が明言したところなのである。そして従来の教会暦年にあった聖人の祝日やクリスマスの大祝日を「粛清」するために、自然や生物にちなんだ新しい名称がつけられた。そこで十一月の「諸聖人の祝日」は「ばらもんじん」という植物の日になり、クリスマスは「犬の月」になった。
 このような方法で暦年の革命化を進めて行くうちに、人のファースト・ネームに聖人名をつけることも御法度になった。誕生の登録は教会ではなく村や町の役場でやるから、役人がつける新生児の名には「自由」とか「にんじん」とかいうきてれつなものもでてきた。
 同様に、地名からも王や聖人の名は消された。パリの今の「共和広場」は革命時代は「革命広場」と名づけられたところ。それは本来「ルイ十五世広場」だった。「聖ミカエル山」は「自由山」に変身した。
 革命はこのように、バスティーユを「奪取」はしなかったが、永遠につながるキリスト的時間を「簒奪」し、人間の日々を最も根源的なしかたで世俗化した。キリスト教的救済史のこのような意味での世俗化を如実に提示しているのは、有名な「マラーの死」の油絵(ダヴィッド作)である。マラーの手に握られている、彼の暗殺者シャルロット・コルデーの手紙の日付は一七九三年というキリスト教暦年である。公会がキリスト教暦年の廃止を九二年に遡って決定したのは、この絵が完成する八日前であった。床の傍の箱の中央には「共和暦二年」と書かれてあり、箱の右下、左下には一七九三年という字が消された跡が見える。この画の構図と雰囲気はミケランジェロ作の「キリストの臨終[ピエタ]」図とそっくりだといわれる(H・マイヤー)。革命は共和暦によって「神は死せり、キリストは死せり」と宣言したのである。
(結び)不寛容、思い上がり、野獣化の原理としてのフランス文化大革命
 フランス革命は、総計三五万とも六〇万人ともいわれる市民を殺戮した血なまぐさい大量虐殺であった。それは自由・平等・博愛・人権を宣言した革命の偶然の逸脱であったのだろうか、そうではない。それは、ロベスピエール的市民的徳の共和国、ユートピア的千年王国を、人間が人間の力で、革命的エリートの指導力に頼って生み出せると信じた啓蒙の楽天的哲学の楯の裏面に過ぎない。その根底にあったのは、ルソーのいわゆる「万人の総意」の思想である。革命的エリートが「万人の総意」を知り、代表して政治を行なうという彼らの主張は、緒局、独裁制をもたらしたにすぎなかった。何故なら、「万人」なる存在は実在しない抽象概念であり、したがって「万人の総意」なるものは革命エリートの恣意に他ならなかったからである。
 口ベスピエールの信じたルソーの思想には人間の弱み、欠点、悪への傾きについての警戒はなかった。「自然人」は有徳の善人でしかありえなかった。国民の総意が何であるか、何が公共善かを、先験的に知っているのは有徳・理性的な革命エリートだけであるとした途端、独裁制が始まる。たてまえ上は万人平等だが、革命家エリートは例外とされたからである。しかも独裁者の示す「総意」に拍手することが美徳で、異議を唱えることは犯罪であり、処罰されねばならない。だから自由を唱えた革命家たちはギロチンを発明する。「総意を体現する」独裁者が支配するユートピアは暴力と虐殺なしでは実現できない。
 不寛容な独裁へのこのような傾きをもったフランス革命の指導者たちは、その自由・平等・人間の理想を、博愛・同胞愛の理想に従って他民族にも押しつける。受容しないものには武力によってでも押しつける。解放軍に占領され民族は自由であるが、解放者の意志に反して一歩たりとも動くことは許されない。反抗する民族は虐殺される。
 地方文化の差異も許されない。すべては中央の指導によって画一的、合理的、数学的に統一されねばならない。血縁や親分子分関係、特に村の司祭や貴族領主を中心に築き上げられた階層的農村共同体の愚かな農民は、都会の啓蒙開明の個人主義的、合理主義的指導者の指導に従わねばならない。ここでも指導は説得ではなく三〇万の国民防衛隊、騎馬警備隊などが実力で行なう。指導に応じないものば粛清されねばならない。
 このようにすべてを画一化し、わが意のままに操縦して社会も人間の本性すらも、人民民主、共和主義の原理で改造し、「新しい人間」を創り出せるとした彼らは結局、自己神格化の妄想に陥ったのである。自己を神格化した革命家にとって、神とカトリック教会とそれが代表する宗教文化は最も憎むべき敵であった。人間の権力には神法、自然法、そしてそれを実定怯化した教会法による制約があると説き、人間は原罪の弱みを負うているので、完全に堕落してはいないが、善を行なうカを与えられていると同時に悪への傾きをももっているから、究極的には神の救いの恩寵を必要とする、とする教会は完全に世俗権力、共和主義政権の支配下に置かれねばならない。その支配に抵抗する者は、すべての反抗者と同様に粛清される。そして日常時間の生活の中で、キリスト教的救済史を具現する教会暦は、自己神格化の「思い上がり」にとって最も有害な障害として粛清されねばならなかった。
 信仰への理性の反逆としての革命は、結局理性の自殺に終ったといえよう。自らを神格化する過程のなかで革命が生み出した擬似宗教的制度や祭儀は、人間の幼稚化過程の極みといえる。「実験を修了するまであと四日待ってくれ」と懇願した化学者ラヴォアジエーに対して返って来た答は「革命は頭脳を必要としない」だった。一七九四年五月八日、彼は斬首刑に処された。フランス革命は、単なる事実としての反逆ではなかった。反逆を法原理とする革命だった。王制、教会、そして神への反逆。あらゆる権威を否定する体系的反逆だった。そこでは義務は忘れられ、服従は悪徳とされ、反逆が美徳とされた。ただし、そのような原理への反抗は許容されなかった。人権宣言は人間の絶対自律独立宣言であり、神権否定宣言だった。
 神なき社会における人間の野獣化、幼稚化過程を必然的に内蔵しているこのような文化大革命、それがロシア革命、ナチスのホロコーストの生みの親だといえるのも当然である。それは中国の文化大革命の先祖でもあり、すべての狂熱的革命家、テロリストはフランス革命の落し子である。
 経済学者、歴史家、ジャーナリストのR・セディヨー Sédillot は「フランス革命のコスト」(一九八七年)で、人間文化の点からも、経済の点からも、フランス革命は起すべからざりし革命だった、すべての損得勘定において革命はフランスにとってマイナスになったとしている。
 こう見てくるとフランス革命二百周年祝典が、どういう意味で「日本文化再構築の機会」になり得るのか私には解らない。フランスのみでなくヨーロッパ全土を外面的にも内面的にも荒廃させたこのとてつもなく血なまぐさい文化大革命を反面教師として、明治以来いちずにフランス革命を賛美し続けてきた日本の甘さ、愚かさを反省する機会にするというのならともかく、両手を挙げてことほぐという理由は私には見出せないのである。
(付記)一九八九年八月十五日のパリではフランス革命の犯罪糾弾と革命非神話化のための大集会が催 された。午前中にはコンコルド広揚で二万五〇〇〇人を集めた荘厳ミサが犯罪の罪滅ぼしのために献げ られ、午後はそこからノートル・ダム大聖堂までの四キロにわたる五万人の大行列があった。『フィガロ』『ルモンド』両紙だけでなく共産党の『ユマニテ』紙さえこの催しについて報道したが、日本のマスコミはこれを無視した。
澤田昭夫著『革新的保守主義のすすめ ─ 進歩史観の終焉』PHP より
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