司祭不在のときの主日の集会祭儀指針(典礼省、1988年)

司祭不在のときの主日の集会祭儀指針

Directory for Sunday Celebrations
in the Absence of a Priest

1988年6月2日

典礼省

導入

 「司祭不在のときの主日の集会祭儀指針」は、それぞれ異なるとはいえ、一点に集中する種々の問題に対する解答である。その第一は、主日に充実した祭儀がいつでも、どこでも執行できるとは限らない実状が指摘され(2番)、もう一つの要因として、近年、司教協議会がこのような現状に対処する指針を要請してきている事実が挙げられる(7番)。第三に、使徒座が公にした種々の指示や一般指針による使徒座自身の体験と、この問題に取り組んだ色々な国の司教方の体験が挙げられる。本指針はこれらの経験をすべて吸い上げ、このような祭儀の利点を評価すると同時に、その限界をも指摘するものである。

 本指針全体の基本的な考え方は、主日のキリスト者の祭儀をもっともふさわしく、また、あらゆる状況のもとで保証することにある。ミサが不可能な場合でも、主日のための集会祭儀にいくつかの重要な要素が見いだされることを指針は認めているが、しかしミサが本来の祭儀であることに変わりはない。本文書は、感謝の祭儀を伴わない主日の集会を奨励したり、不必要な、あるいは人為的な方法でその便宜をはかったりするものではなく、ただ現実の状況がこのような集会祭儀を執り行うよう促す際(21-22番)に、望ましい方向づけと規制を示そうとするものである。

 指針の第一部は、『典礼憲章』106条から出発して、主日の意義について概要を述べる(8番)。

 第二部は、ある教区で、司祭不在が通常になっている場合の集会を整えるのに必要な諸条件を取り扱う。この際に、信徒の協力が前提とされる。それは、司牧にたずさわる者が共同体の成員に委託することのできる役割の一例である。指針と実践の見地からすると、この部分は、当文書中、最も重要な部分である。

 第三部では、聖体拝領を伴う主日のことばの祭儀の式次第の簡単な解説が記されている。

 他の類似の文書と同様、当指針の適応は各司教が行う。その際、自教区の状況を考慮するが、より広範囲にわたる規則の場合は、司教協議会と検討する。

 以上述べた状況のもとに置かれた共同体に対して、主日の集会祭儀を確保することが肝要である。その際、これらの集会を典礼暦年の祭儀に組み入れる(36番)とともに、自分たちの司牧者を囲んで感謝の祭儀を祝っている母共同体と、その集会とをつなぐよう(42番)意を用いなければならない。

 いずれにせよパウロ六世(21番)ならびにヨハネ・パウロ二世(50番)が指摘されるように、主日の司牧の主眼は、つねに変わることがない。すなわち、主日の司牧の目指すところはキリスト教の伝統に基づいて主の日を祝い、そして生きることなのである。

前文

1 キリストの教会は、五十日祭の日以来、聖霊が降臨してから、主の復活の記念として過越の神秘を祝うために、「主の日」と名づけられた日に、ともに集まることを決して欠かさなかった。主日の集会の中で、教会は聖書全体にわたり、キリストについて書かれている事柄を宣言し、また主が来られるまで、その死と復活の記念祭である感謝の祭儀を祝う。

2 しかし、主日の充実した祭儀がつねにできるとは限らない。というのは、「司祭不在その他の重大な理由で、感謝の祭儀に参加することが不可能」な大勢の信者が過去にいたし、今日もいるからである。

3 種々の地方において、最初の福音宣教の後、司教たちは主の日に信者を集め、また信仰行事のかたちで祈りを指導する役目を教話担当者(カテキスタ)に委ねた。それというのも、激増したキリスト信者が多くの地域に、しかもときには遠方に散在して住んでいたため、主日ごとに司祭が彼らのもとを訪れることはできなかったからである。

4 他の地方では、キリスト信者に対する迫害、もしくは宗教の自由に課された厳しい制約のゆえに、主日に集会をもつことが、信者には全く禁じられている。その昔、殉教に至るまで忠実に主日の集会に参加した信者たちがいたと同様、今日でも、たとえ司祭が不在であっても、家庭あるいは小さなグループでともに祈るため万難を排して主の日に集まる信者たちがいる。

5 今日、別な理由から、多くの地方で各小教区は、司祭数の減少に伴い、主日ごとに感謝の祭儀を執り行うことができないでいる。さらに、社会的、経済的状勢から、少なからぬ小教区は過疎化に悩んでいる。このため、主日になると、感謝の祭儀が何回も、異なった遠隔の教会で司祭に委任されることが多い。このような事態が牧者不在の小教区にとっても、司祭自身にとっても、つねに望ましいとは言えない。

6 こうした中で、一部の国の教会において、この事態を斟酌(しんしゃく)した司教たちは、主日にでき得る限りふさわしいキリスト教集会が行われ、また、主日のキリスト教的伝統が堅持されることを願って、司祭不在の場合、主日向けの他の祭儀を考案する必要を認めた。

 しばしば、特に宣教地において、信徒自身が主日の重要性を意識し、教話担当者や修道者・修道女の助けを借り、神のことばを聴き、ともに祈り、ときには主のとうといからだを受けるために集まっている。

7 以上の事柄をすべて熟慮し、また、聖座の公布した諸文書を考慮した末、典礼省は、各国の司教協議会の願望も受け入れて、主日に関する教義的要素を若干想起し、合わせて、教区内でこのような祭儀を正当化する諸条件を規定し、さらにその祭儀を正しく執り行うための指針を示すことは時宜にかなっていると判断した。

 必要があれば、以下に記す規則をさらに詳しく規定し、また各民族の特性と種々の情況に適応させるのは、司教協議会の役割である。その場合、使徒座に報告する。

 主日とその聖化

8 「教会は、キリストの復活の当日にさかのぼる使徒伝承により、死と復活の秘義を八日目ごとに祝う。その日は、それゆえにこそ、主の日、または主日と呼ばれている。」

9 新約聖書の時代にすでに「主の日」と呼んだ特定の日、信者が開いていた集会についての証言は、非常に早い一世紀と二世紀の資料にはっきり見いだされる。中でも、聖ユスチノの次の記述はひときわ光彩を放っている。「太陽の日と呼ばれる日には、街々村々の全住民が一箇所にともに集まっています・・・。」しかし、キリスト信者が集まる日は、ギリシアとローマの暦の祝祭日とは異なっていたので、その日は同郷人にとってもキリスト者であることのあかしであった。

10 最初の時代から、司牧にたずさわる人々は、主の日に集まる必要をつねに説いてやまなかった。「キリストのからだの肢体であるのに、一緒に集まらないことによって、教会から自分を引き離すことのないように・・・。どうでもよいことだと考えて、集まるのをおろそかにすることがないように、救い主をその肢体から疎外したり、そのからだを引き裂くか、ばらばらにしたりすることがないように・・・。」これは最近、第二バチカン公会議が次のことばで想起させたことと同じである。「この日、キリスト信者は、一つに集まらなければならない。そして神のことばを聴き、感謝の祭儀に参加して、主イエスの受難と復活と栄光を記念し、『死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望へとわたしたちを新たに生まれさせてくださった』(Ⅰペトロ1.3)神に感謝をささげるのである。」

11 キリスト信者の生活における主日の祭儀の重要性を、アンチオケの聖イグナチオはこう説いている。「(キリスト者は)もう安息日を祝おうとはしません。かれらは、キリストをとおして、キリストの死のおかげで、わたしたちのいのちも復活した、あの主の日に基づいて生きているのです。」信者のキリスト教的感覚は、昔も今も、つねに主の日を非常に大切にし、迫害のさなかにあっても、また、キリスト教信仰からかけはなれた、あるいはキリスト教信仰と対立する諸文化の中にあっても、主の日は絶対におろそかにすることはないのである。

12 主日の集会が成立するのに必要な要素として、おもに次の事柄が挙げられる。

 ① 「教会」を表すための信者の集会。これは自発的に形成されるものではなく、神から呼び集められたもの、すなわち有機的に構成された神の民であって、頭であるキリストの名代として司祭がこれを主宰する。

 ② 聖書に基づく過越秘義の教話。これは司祭あるいは助祭によって宣言され、解説される。

 ③ 感謝の奉献の祭儀。これはキリストに結ばれた司祭によって執り行われ、司祭はキリスト信者の民の名でこれをささげる。これをとおして死と復活の過越秘義が現在のものとなる。

13 司牧的熱誠は、特にミサの奉献を主日ごとにささげることに向けられなければならない。それは、ミサの奉献をとおしてのみ、主の過越が永続化され、教会が完全に現されるからである。「主日は、信者の信仰心に明示され、また、強調されなければならない根元の祝日である。したがって、他の祭儀は、きわめて重要なものでない限り主日に優先させてはならない。それは、この日こそ全典礼暦年の基礎であり、中核だからである。」

14 以上に述べた諸原則は、キリスト者の養成の最初から強調されなければならない。その目的は、信者が進んで主日を聖とする務めを果たすようになり、また、主日の都度、教会から招かれて一つに集まるのは、ただ個人的な信心を満足させるためでなく、感謝の祭儀を行うためである、という真の動機をわきまえることにある。こうして、信者はただ休日としてではなく、人間の労働に対する神の超越性のしるしとして主日を体験し、そのうえ、特に主日の集会の意義をもっと深くとらえ、そして教会の成員であることを外的に示すことができる。

15 信者は、キリスト者の共同体生活として主日の集会の中で行動参加を体験するとともに、真の兄弟愛と聖霊の導きのもとに霊的に強められる機会を見いだせるようでなければならない。こうして、孤独の苦悩より解放が得られ、しかも、自分たちの宗教的憧れにもっと完全な満足が与えられると約束する諸宗派の魅力から、より容易に守られるであろう。

16 終わりに、司牧活動は「主の日を喜びの日、休息の日ともする」ための創意工夫を奨励しなければならない。このようにして、現代社会の中で、主の日がすべての人の目に自由の象徴(しるし)と映じ、人間自身の善益のために設けられた日であることが明白とならねばならないのである。まぎれもなく、この人格の善は、仕事とか生産過程とかにまさる価値を有している。

17 神のことば、感謝の典礼、そして祭司的奉仕の務めの三つは、主がその花嫁である教会に提供してくださる賜物なのである。これらは、神の恵みとして歓迎すべきことであり、そのうえ祈り求めるべきことである。特に、主日の集いにこれらの賜物を味わう教会は、「玉座の前と小羊の前に立つ」主の日の完全な享受を待望しながら、その集会で神に感謝をささげるのである。

 司祭不在のときの主日の集会祭儀の諸条件

18 主日のミサをささげることができない地域でまず検討すべきことは、信者が近郊の教会に行き、そこで感謝の祭儀にあずかれるかどうかである。この解決法は、できる限り維持すべきである。この場合、信者は主日の充実した集会の意味について教えられ、また、新しい事態に適応するよう導かれる必要がある。

19 主日には、たとえミサがささげられなくとも、さまざまのかたちの集会祭儀に集まる信者に対して、聖書と教会の祈願の宝庫を広く開くことが望ましい。それは、この人々が一年を通じてミサ中に朗読される神のことばと、典礼季節の種々の祈願の恩恵から除外されないためである。

20 ミサをささげられない場合のために、典礼の伝統が提供しているいろいろな祭儀のうちでも、特に勧められるものに、ことばの祭儀が挙げられる。これには、適宜、聖体による交わりを加えることができる。こうしてキリスト信者は、神のことばとキリストのとうといからだの双方で同時に養われることができるのである。「なぜなら、神のことばに耳を傾けることによって、信者は、朗読をとおして宣言される神の数々の驚くべきわざが死と復活の神秘で頂点に達すること、ミサの中でその記念が秘跡として祝われること、聖体による交わりをとおしてそれにあずかることを知るからである。」

 さらに、ある事情のもとでは、適宜、主日の集会祭儀と他の秘跡の執行を合わせ、また特に、それぞれの共同体の必要に応じて、ある種の準秘跡を合わせることができる。

21 これらの集会祭儀は補助的性格をもつものであって、それが新しい難局を乗り切るための最良の解決であるとか、あるいは便利さへの一種の譲歩であると見なすことはできないことを、信者は、明白に認識しなければならない。ミサがその主日にささげられたか、あるいはささげられることになっている場所で、もしくは前晩にささげられた場所で、このような集いや集会祭儀を繰り返すことは適当ではない。

22 以上述べた集会と感謝の祭儀とを混同することがないよう、細心の注意を払うべきである。集会祭儀は、感謝の祭儀にあずかる願望を信者のうちに絶やすどころか、むしろ、強めるとともに、感謝の祭儀によりよくあずかるよう、信者を促すものでなければならない。

23 信者には、司祭なくしては感謝の奉献をささげることが不可能であること、また、これらの集会で受けることのできる聖体がミサの奉献に密接に結ばれていることを伝えていかなければならない。このことから、「神がその秘義の分配者を増やし、彼らをご自分の愛に堅く踏みとどまるものとしてください」と神に祈り求めることがどれほど必要であるかを、信者に示すことができる。

24 司祭評議会の意見を打診したうえで、自教区内に感謝の祭儀を伴わない主日の集会祭儀を定期的に導入すべきか否かを決定すること、さらに、関係する場所や人々のことを考慮したうえで、その集会祭儀のための一般規則と個別の規則を定めることは、教区長の任務である。

 したがって、司教の招集と主任司祭の牧者としての役務のもとにのみ、このような集会を開くものとする。 25 「キリスト者の共同体は、最も尊い感謝の祭儀に根をおろし、それを中心としない限り、決して建設することはできない。」それゆえ、司教は感謝の祭儀を伴わない集会祭儀の導入を決めるに先立って、諸小教区の実状を調査する(5番参照)ほか、修道者も含め、直接司牧に従事していない司祭たちに協力を要請できるかどうかを検討し、さらに、それぞれの聖堂と小教区におけるミサの参加の実態を調査しなければならない。

 特に主日には、あらゆる司牧活動のうち、感謝の祭儀を今後とも優先させなければならない。

26 司教は自身で、あるいは他の人々を介して適切な教話を行い、教区共同体に今回の措置を要請したいきさつを説明し、ことの重大性を指摘するとともに、共同責任と協力を呼びかける。司教は、集会祭儀が正しく行われるように、一名の代理者を立てるか、もしくは特別委員会を設置する。集会祭儀を推進する人々を選び、彼ら自身が適切に養成されるように配慮する。しかしながら、これらの信徒が一年を通じて、何回か感謝の祭儀にあずかれるようにつねに意を用いる。

27 管轄地域内における集会祭儀の適合性について、司教に情報を提供し、集会祭儀のために信徒を養成すること、時々彼らを週日訪ねること、彼らのために適時、秘跡、とりわけゆるしの秘跡を執り行うことは主任司祭の務めである。このようにして共同体は、主の日に自分たちが「司祭なしに」ではなく、ただ「司祭不在のときに」、より的確には、「司祭を待ちながら」集まっていることを実感できるに相違ない。

28 主任司祭は、ミサをささげることができない場合でも、聖体による交わりができるように配慮する。さらに、定められた時には、共同体ごとに感謝の祭儀が行われるように意を用いる。聖別されたパンはたびたび変え、また安全な場所に保存する。

29 主日の集会祭儀の司式は、司祭の第一の協力者である助祭に依頼する。祈りを司会すること、福音を宣言し、説教をすること、聖体を授けることは、神の民を牧し、成長させるために叙階された助祭の務めなのである。

30 司祭と助祭のいずれも不在の場合、主任司祭は、主日の祭儀の世話をする信徒、すなわち祈りを指導し、ことばの祭儀を司式し、聖体を配る信徒を任命する。

 主任司祭は、まず最初に祭壇と神のことばの奉仕に選任されている教会奉仕者と宣教奉仕者を立てる。彼らも不在ならば、他の男女の信徒を指名することができる。彼らがこの任務を遂行できるのは、洗礼と堅信の秘跡の恵みによるものである。彼らを選ぶ際には、この人々の生活態度が福音的な生き方に適っていること、また信者から好感をもって迎えられる人物である点に留意する。その指名は、ふつう、一定期間のために限定し、さらに共同体に公表する。何らかの儀式の中で、この人々のために特別な祈りを行うことが望ましい。

 主任司祭は、これらの信徒に対して絶えず適切な養成を施し、また、彼らとともに品格のある祭儀を準備するように心がける(第三章参昭)。

31 指名を受けた信徒は、ゆだねられた任務が名誉であるよりは、むしろ、使命であること、何よりもまず、主任司祭の権威のもとで行う、兄弟への奉仕であることを自覚しなければならない。その任務は、本来彼らに属するものではなく、「役務者が不在のため、教会が必要とする場合に」果たす、補助的なものなのである。

 「各自は自己に属することのみを、そしてそのすべてを行わなければならない。」信徒は自分にゆだねられた役割をこの偉大な奉仕にふさわしい、また、神の民が当然期待している誠実な信仰心と秩序をもって果たさなければならない。

32 主の日に聖体拝領を伴う神のことばの祭儀を行うことができない場合、信者に大いに勧められることは「個人的に、または家族ぐるみで、あるいは機会があれば何家族かいっしょに集まって、適当なひととき」を祈りに当てることである。この際に、テレビやラジオ番組のミサなどが役に立ち得る。

33 「教会の祈り」の一部分、たとえば、その主日の聖書朗読箇所を組み入れることのできる「朝の祈り」や「晩の祈り」を用いる可能性を特に考慮に入れるとよい。それは「信者が『教会の祈り』のために呼ばれ、一つに集まって、心と声を合わせるとき、キリストの神秘を祝う教会を現す」からである。この祭儀の終わりに、聖体を授けることができる(46番参照)。

34 「迫害や司祭不足の理由から、短期間あるいは長期間、聖なる感謝の祭儀に参加できないでいる個々の信者あるいは共同体に救い主の恵みが欠けることは決してない。事実、彼らは秘跡にあずかりたいとの希望で内的に生かされており、さらに祈りにおいて全教会と一つに結ばれて神に哀願し、また自分たちの心を神に上げているのである。

 彼らは聖霊の力強い働きによって、キリストの生けるからだである教会ならびに霊ご自身との交わりにあずかっており、秘跡の実りにもあずかっているのである。」

 ミサがないときの主日の集会祭儀

35 ミサのない場合の主日の集会祭儀は、神のことばの祭儀と聖体拝領の二部から成る式次第に従う。ミサに固有な要素、とりわけ供え物の奉納と奉献文は、この祭儀の中に挿入してはならない。集会祭儀の儀式は、もっぱら祈りを助けることと、単なる集会ではなく、典礼集会の様相を現すこととを目的としている。

36 各主日または祭日の祈願文と朗読箇所は、ふつう、『ミサ典礼書』と『朗読聖書』からとる。このようにして信者は教会の他の共同体との交わりの中で、典礼暦年の流れに沿って祈り、そして神のことばを聴くことになるのである。

37 主任司祭は、指名された信徒といっしょに集会祭儀を準備する際、参加者の人数と集会祭儀を実施する人の力量とを念頭に置くとともに、歌や楽奏に用いる楽器のことも考慮する。

38 助祭が集会祭儀を司式する場合には、役務者として要求されているとおりの仕方であいさつ、祈願、福音朗読と説教、聖体の分配、祝福を伴う参加者の解散を行う。助祭は自分の職務を表す服装、すなわち白衣とストラ、そして適当であればダルマチカを着用し、座長の席を用いる。

39 集会祭儀で会衆を指導する信徒は、会衆と平等な立場にある者として振る舞う。それは、叙階された役務者が不在のときの「教会の祈り」や信徒が奉仕者をつとめる場合の祝福(「賛美と感謝のうちに」)におけるのと同様である。また、司祭や助祭に保留されている言いまわしを用いてはならず、明らかにミサを直接連想させる儀式、例えばあいさつ、特に「主は皆さんとともに」や、司会者の信徒が、役務者と混同されるような派遣のことばは省く。

40 服装は、この奉仕にふさわしいものを着用するか、あるいは司教によって定められた式服がある場合にはこれを着用する。司式者用の座席は用いず、司祭席(内陣)の外に別な椅子を用意する。祭壇は奉献と過越の宴の食卓であるから、聖体の分配に先立って聖別されたパンを置くためにのみ用いる。

 祭儀を準備する際には、朗読や歌などのために、適切な役割分担を定め、また場所の配置や装飾に意を用いる。

41 集会祭儀の枠組みは以下の要素から構成される。 開祭-信者が集まる時に共同体を形成することと、祭儀にふさわしい心構えをつくることを目的とする。
② ことばの典礼-この中で神はご自分の民に救いの秘義を啓示するために民に語りかけ、民は信仰宣言と共同祈願でこれに応答する。
③ 感謝-神はその偉大な栄光のゆえに祝福される(45番参照)。
④ 交わりの儀-キリストと兄弟たち、とりわけ、同じ日に感謝の奉献にあずかった兄弟たちとの交わりが表され、実現していく。
⑤ 閉祭-典礼とキリスト教生活との間の関係が示される。

 司教協議会あるいは教区長自身、場所と人々の情況を考慮し、全国典礼委員会もしくは教区典礼委員会の発行する資料によって集会祭儀そのものを、より詳細に規定することができる。

 ただし、祭儀の枠組みは、必要なしに変更してはならない。

42 司会者は、冒頭のすすめの中、あるいは祭儀の他の箇所でその日主任司祭がどの共同体において感謝の祭儀を執り行うかを信者に知らせ、霊的にその共同体と一致するよう信者にすすめなければならない。

43 参加者が神のことばを心に刻むことができるように朗読の説明を加えるか、もしくは聴いたことを黙想できるように、聖なる沈黙の間を置くようにする。説教は、司祭または助祭に保留されていることであるから、集会で読み上げるために、主任司祭は自ら準備した説教を、前もってグループの司会者に渡しておくことが望ましい。ただし、この点に関する司教協議会の規定に従う。

44 共同祈願は、定められた四つの意向で行うべきである。なお、教区長の出した教区全体のための意向があれば、省略してはならない。また、司祭召命のため、教区長のため、主任司祭のための意向を頻繁に唱える。

45 感謝は次のいずれかの方法でささげる。

 ① 共同祈願の後、あるいは聖体を授け終わった後、司会者は信者が神の栄光といつくしみを賛えるために感謝をささげるよう、全会衆を招く。この感謝は詩編で表す(例えば詩編100、113、135、147、150)か、または賛歌や福音の歌(例えば「栄光の賛歌」「マリアの歌」・・・)で表すことができる。そのために連願を唱えることもできる。この場合、司会者は信者とともに立ち、祭壇の方に向かっていっしょに唱える。

 ② 「主の祈り」を唱える前に、司会者は聖ひつまたは聖体の置かれた所に近づき、一礼してから聖体容器を取り出して祭壇の上に置く。続いて信者とともに祭壇の前で、賛歌、詩編または連願を歌うか、唱えるかする。この場合、これらは聖体のうちに現存されるキリストに向けたものとなる。

 なお、この感謝の祈りは奉献文の形を決して取ってはならない。混同をきたさないために、『ローマ・ミサ典礼書』に記載されている叙唱と奉献文の式文は使用しない。

46 交わりの儀は、カトリック儀式書の「ミサ以外のときの聖体拝領」の式次第で述べられているとおりに行う。ミサ以外で聖体を受ける時でも、ミサの感謝の奉献と一つに結ばれているものであることを、たびたび信者に思い起こさせなければならない。

47 聖体による交わりのためには、できるなら、同じ日に別な場所でささげられたミサ中で聖別され、助祭あるいは信徒によってピクシス(蓋付き器、またはテカ)に入れて集会祭儀の始まる前に聖ひつにあらかじめ安置されたパンを用いる。その場所で最後にささげられ、ミサの間に聖別されたパンを用いることもできる。司会者は「主の祈り」を始める前に、聖ひつまたは聖体の安置された場所に行き、主のとうといからだをおさめた容器を取って祭壇上に置き、ここで感謝をささげる場合(45番)を別として、「主の祈り」の導入部を唱える。

48 聖体拝領の行われない場合でも、「主の祈り」は必ず全員で唱えるか歌うかする。平和のあいさつを入れることもできる。聖体を授け終わってから、「適当であれば、しばらく聖なる沈黙の間をおくか、詩編または賛歌を歌うことができる。」なお、前記45番①に述べた感謝をささげることもできる。

49 集会を解散する前に、小教区または教区の生活に関連のある「お知らせ」をする。

50 「キリスト者個人と共同体の生活の源泉として、さらにまた御子イエス・キリストにおいて万人を集めるという神のみ心のあかしとして、主日の集会がもつ最高の重要性を評価し尽くすことは決してできないであろう。すべてのキリスト者は、聖体のパンで養われることなしに己が信仰を生きることも、教会全体の使命にその人なりに参与することもできないことを自覚しなければならない。同様に確信すべきことは、主日の集会が世界にとって感謝の祭儀という交わりの神秘のしるしだということである。」

典礼省によって起草された本方針を、教皇ヨハネ・パウロ二世は、一九八八年五月二一日で認可し、承認し、発行を命じられた。

一九八八年六月二日
キリストの聖体の祭日
典礼省にて

長官
パウロ・アウグスチノ・マイヤー枢機卿

Paul Augustin Cardinal Mayer, OSB
Prefect

秘書
ヴェルジリオ・ノエー ヴァンカリア名義大司教

Vergilio Noe
Titular Archbishop of Voncaria
Secretary

Endnotes

1. See Luke 24:17.

2. Codex Iuris Canonici, 1983 (hereafter, CIC), can. 1248, 2.

3. See Acta Martyrum Bytiniae, in Dr. Ruiz Bueno, Actas de los Martires, Biblioteca de Autores Cristianis (BAC) 75 (Madrid, 1951), 973.

4. See SC Rites, Instruction Inter Oecumenici (26 September 1964), no. 37: Acta Apostolicae Sedis (hereafter, AAS) 56 (1964), 884-885; Documents on the Liturgy, 1963-1979: Conciliar, Papal, and Curial Texts (hereafter, DOL) 23, no. 329. CIC, can.1248, 2.

5. Vatican Council II, Constitution on the Liturgy Sacrosanctum Concilium (hereafter, SC), art. 106: DOL 1, no. 106. See also ibid., Appendix, Declaration of the Second Vatican Ecumenical Council on Revision of the Calendar: DOL 1, no. 131.

6. See Revelation 1:10. See also John 20:19, 26; Acts 20:7-12; 1 Corinthians 16:2; Hebrews 10:24-25.

7. Didache 14,1: F. X. Funk, ed., Doctrina duodecim Apostolorum (1887), p.42.

8. Saint Justin, Apologia I, 67: PG 6, 430.

9. Didascalia Apostolorum 2, 59, 1-3: F. X. Funk, ed., Didascalia et Constitutiones Apostolorum (1905) vol. 1, p. 170.

10. SC, art. 106: DOL 1, no. 106.

11. Saint Ignatius of Antioch, Ad Magnesios 9, 1: F. X. Funk ed., Didascalia et Constitutiones Apostolorum (1905) vol. 1, p.199.

12. See Paul VI, Address to bishops of central France, 26 March 1977: AAS 69 (1977), 465; "The goal must always be the celebration of the sacrifice of the MAss, the only true actualization of the Lord's paschal mystery" (tr., DOL 449, no. 38:2).

13. SC, art. 106: DOL 1, no.106.

14. See SC Rites Instruction Eucharisticum mysterium, (25 May 1967), no. 25: AAS 59 (1967), 555: DOL 179, no. 25.

15. SC, art. 106: DOL 1, no. 106.

16. See "Le sens du dimanche dans une societe pluraliste. Reflexions pastorales de la Conference des eveques du Canada," La Documentation Catholique, no. 1935 (1987), 273-276.

17. Revelation 7:9

18. See SC, art. 35, 4: DOL 1, no. 35.

19. The Roman Ritual, Holy Communion and Worship of the Eucharist outside of Mass, no. 26.

20. See Paul VI, Address to bishops of Central France, 26 March 1977: AAS 69 (1977); "Proceed judiciously, but without multiplying this type of Sunday assembly, as though it were the ideal solution and the last chance" (tr., DOL 449, no. 3842).

21. The Roman Missal (Sacramentary), Masses and Prayers for Various Needs and Occassions, I. For the Church, 9. For Priestly Vocations, prayer over the gifts.

22. Vatican Council II, Decree on the Ministry and Life of Priests Presbyterorum ordinis, no. 6: DOL 18, no. 261.

23. See SC Rites, Instruction Eucharisticum mysterium (25 May 1967), no. 26: AAS 59 (1967), 555; DOL 179, no. 1255.

24. See Paul VI, Motu proprio Ad pascendum (15 August 1972), no. 1: AAS 64 (1972), 534; DOL 319, no. 2576.

25. See CIC, can. 230, 3.

26. See The Roman Ritual, Book of Blesings, ch. 4, I, B.

27. CIC, can. 230, 3.

28. SC, art. 28: DOL 1, no. 28.

29. See SC, art. 29: DOL 1, no. 29.

30. CIC, can. 1248, 2.

31. General Instruction of the Liturgy of the Hours (hereafter, GILH), no. 22: DOL 426, no. 3452.

32. Congregation for the Doctrine of the Faith, Epistle . . . on certain questions regarding the minister of the eucharist, 6 August 1983: AAS 75 (1983), 1007.

33. See GILH, no. 258: DOL 426, no. 3688; see also The Roman Ritual, Book of Blessings, nos. 48, 119, 130, 181.

34. See The Roman Ritual, Holy Communion and Worship of the Eucharist outside Mass, no. 20: DOL 266, no. 2098.

35. See GILH, no. 258: DOL 426, no. 3688.

36. See CIC, can. 766-767.

37. See General Instruction of the Roman Missal, nos. 45-47: DOL 208, nos. 1435-1437.

38. See The Roman Ritual, Holy Communion and Worship of the Eucharist outside Mass, ch. 1: DOL 266. nos. 2092-2103.

39. Ibid., no. 37.

40. John Paul II, Address to the bishops from France on the occasion of their ad limina visit, 27 March 1987.

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