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2.愛と善徳

第3章

愛の内的で連続した感情がなければ、限リある業は罪を償うことも、功徳を積むことも、できないことについて。

 すると、永遠の「真理」は、この霊魂の望みを捕えて、これをもっと強く、ご自分の方に引き寄せられた。旧約において、神に犠牲をささげたときは、火が天から降って、「いと高き者」によみせられたこの犠牲を焼きつくした (1) 。甘美な「真理」は、この霊魂に対して、同じようになされた。聖霊の寛仁の火を送り、霊魂が自分自身をささげた望みの犠牲を捕えて焼きつくされた。神は言われた (2)
 ──いとしいむすめよ (3) 、あなたは、霊魂がこの世で堪える苦しみ、あるいは堪えることのできる苦しみはみな、もっとも小さい過失さえも、十分に罰することができないのを知っているであろうか。無限の「善」であるわたしに加えられた侮辱は、無限の償いを要求する。それで、あなたに知ってほしいのは、この世のすべての苦しみは罰ではなく、むしろ矯正であるということである。それは、子供が過失を犯したとき、これをためなおすために加えられるのである。事実、霊魂は、その望みによって、すなわち、罪に対するまことの痛悔によって償うのである。まことの痛悔が過失と罪とを償うのである。あなたが凌ぐ有限な苦しみによってではなく、無限の望みによって償うのである。なぜなら、神は無限であって、無限の愛と無限の悲しみとを欲するからである。
 わたしは、この無限の悲しみを二重に要求する。ひとつは、その「創造主」に対して犯した本人の侮辱についてである。そしてもうひとつは、隣人によって犯された侮辱についてである。愛の情念によってわたしに一致している者は、無限の望みを抱く。かれらは、自分たちがわたしを侮辱するときも、わたしが侮辱されるのを見るときも、嘆き悲しむ。それで、かれらの苦しみはみな、精神的なものも肉体的なものも、どこから来るものも、無限の功徳を積むし、無限の罰を加えられなければならない過失を償う。たしかに、それは限りある時間におこなわれた限りある業である。しかし、望みの徳がそのなかに働いているし、過失に対する無限の望みと痛悔と悲嘆とをもって堪えたのであるから、価値がある。
 パウロは、つぎの言葉によってこれを示している。「たといわたしが天使の言語を話しても、未来のことを知っても、わたしの財宝を貧しい人々に与えても、わたしの体を火刑にわたしても、仁愛がなければなんの役にも立たない」(4) 。光栄ある使徒のこの言葉は、仁愛の情念という香味がなければ、限りある業は、罪を償うためにも、報いを受けるためにも、不十分であることを示している。

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