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2.愛と善徳

第4章

望みと心の痛悔とが、自分自身においても他者においても、過失と罰とを償うことについて。──時として、過失は償うが罰は償わないことについて。

 いとしいむすめよ、わたしはあなたに、過失は、この限りある時間においては、ただ罰という名目だけで凌いだどんな罰によっても、償われないことを示した。あなたに話したように、それは、望みと愛と心の痛悔とをもって、しかも、罰としてではなく、霊魂の望みとして、堪えた苦しみによって償われる。望みは、すべての善徳と同じように、わたしの「ひとり子」、十字架につけられたキリストによってしか、価値をもたないし、それ自体のなかに生命があるのではない。しかも、そのためには、霊魂はかれのなかに愛を汲み取り、善徳によってかれの跡に従わなければならない。苦しみの価値はそこから生まれるのであって、他から生まれるのではない。つまり、苦しみは、わたしの「いつくしみ」に関する愛すべき認識のなかで獲得した甘美で一致的な愛により、そして、自分自身と自分の過失との認識によって生ずる心の痛みと悔みとによって、過失を償うことができるのである。この認識は、罪と官能とに対する悔みと憎しみとを生む。それによって、甘美な「真理」が語ったように、霊魂は、自分が罰を受けるにふさわしく、報いを受ける価値がないことを認めるようになるのである。要するに、霊魂は、心の痛悔、まことの忍耐に対する愛、誠実な謙遜によって、自分が罰を受けるにふさわしく、報いを受ける資格がまったくないのを認め、すでに話したように、謙遜に、忍耐して、償いを果たすのである。
 あなたはわたしに、わたしの被造物 (5) がわたしに加えた侮辱を償わせるためにあなたに苦しみを送ること、そしてまた、至上の「真理」であるわたしを認識し、愛する意志をあなたに与えることを願っている。あなたが、永遠の「真理」であるわたしを完全に認識し、わたしを味わいたいと思うならば、その方法はつぎの通りである。決してあなた自身の認識から逸脱してはならない、謙遜の谷に降りたままでなければならない。あなたは、あなたのなかにいる「わたし」を認識している。この認識から、必要なすべてのものを引き出すがよい。どんな善徳も、仁愛によらなければ、そしてまた、仁愛の乳母である謙遜によらなければ、それ自体のなかに生命をもつことができない。あなた自身の認識は、あなたに謙遜を教えるであろう。なぜなら、あなたはあなた自身で存在するのではないこと、あなたの存在は、あなたがたが存在する以前から、あなたがたを愛したわたしから授かったことを、あなたに示すからである。わたしがあなたがたに対して抱いたこの名状することのできない愛によって、わたしはあなたがたを恩寵によって再創造したいと思い、あれほど偉大な愛の火によって流されたわたしの「ひとり子」の血のなかで、あなたがたを洗い、再生させたのである。
 この血こそ、自分自身の認識によって自愛心の雲を払った者に、「真理」を教えるのであって、他にこれを認識する手段はない。霊魂は、このわたし自身の認識のなかで、名状することのできない愛に燃えさかる。この愛は霊魂に絶えることのない苦しみを与える。しかし、それは、霊魂を打ち倒したり、枯らしたりする刑苦ではなく、むしろ、霊魂を太らせる苦しみである。霊魂は、わたしの「真理」と同時に、自分自身の過失、忘恩、および隣人の盲目を認識し、そのために堪えがたい悲しみを感じる。霊魂が苦しむのは、わたしを愛するからである。もしも、わたしを愛さないならば、苦しむことはないであろう。
 あなたとわたしの他のしもべたちとが、このようにわたしの「真理」を認識するときは、すぐさま、言葉と行為とによるあらゆる苦難、不法、恥辱を、わたしの名の栄光と賛美とのために、死ぬまで堪え忍ぶ心構えを抱くようになり、苦しみを迎え、そして堪えるであろう。
 それゆえ、あなたとわたしの他のしもべたちとは、まことの忍耐によって、過失に対する悲しみによって、そして善徳に対する愛によって、わたしの名の栄光と賛美とのために苦しんでほしい。もし、あなたがたがそうするならば、わたしは、これをあなたの過失とわたしの他のしもべたちの過失との償いとして受け取るであろう。あなたがたが苦しみを堪え忍ぶときは、仁愛の効能により、あなたがたと他の人々とのために、償いをなし、功徳を積むことができるであろう。あなたがたは、生命の実を授かるであろう。あなたがたの無知の汚れは消されるであろう。そして、わたしは、あなたがたから侮辱されたことを忘れるであろう。他の人々は、あなたがたの仁愛のおかげで、わたしのたまものを、これを受け取る心構えに応じて、分配されるであろう。
 とくに、謙遜と尊敬とをもってわたしのしもべたちの教えを受ける人々は、過失と罰とを赦されるであろう。なぜなら、かれらは、これらの感情によって、自分自身のまことの認識とかれらの罪の痛悔とにみちびかれるにちがいないからである。つまり、かれらは、謙遜であるならば、わたしのしもべたちの祈りと望みとによって、恩寵の実を受けるであろう。この実は、与えられた恩寵を善徳によって利用するかれらの意志のいかんに応じて、あるいは多く、あるいは少ないにちがいない。一般的に言って、かれらは、あなたがたの望みのおかげで、赦しを受けるであろう。ただし、かれらが、絶望して、わたしから棄てられることを固執するときは、そうではない。なぜなら、それは、あれほど優しくかれらをあがなった「血」を侮辱するからである。
 それでは、この人々は、どんな実を受けるであろうか。その実というのは、わたしが、わたしのしもべたちの祈りに応じて立ちどまり、かれらを待つことであり、かれらに光明を与えることであり、かれらのなかに良心の番犬を目覚めさせることであり、かれらに善徳の香りを吸いこませることであり、わたしのしもべたちとの交わりのなかに見出す喜びを味わわせることである。
 ときとして、わたしは、かれらに世俗の真相を示し、その情念の変わりやすく、移りやすいのを感じさせることがある。それは、かれらに、世俗の頼みがたさを体験させ、その望みをもっと高めて、かれらの永遠の生命の祖国を捜し求めさせるためである。これらの手段とその他の無数の手段とによって、わたしはかれらを連れ戻す。わたしが、かれらに恩寵を回復させ、わたしの真理をかれらのなかに成就させるために、もっばら愛によって用いる道と手段とは、目も見ることができず、口も語ることができず、心も思いうかべることができないであろう (6)
 わたしがかれらを創造したのも、かれらに対して以上のようなことをするのも、わたしのはかり知れない仁愛によるとともに、わたしのしもべたちの祈りと望みと悲しみとによる。わたしは、かれらの涙、かれらの汗、かれらの謙遜な祈りに無感覚ではなく、これを喜ぶ。かれらに霊魂たちの善を愛させ、その亡びに対する悲しみを抱かせるのは、わたしである。しかし、この人々 (7) に対しては、一般に、過失だけを赦して罰は赦さない。なぜなら、この人々は、完全な愛によって、わたしの愛とわたしのしもべたちの愛とに答えないからである。かれらが犯した過失に対して抱く悲しみは、完全な痛悔をともなっているのではなく、不完全な愛と痛悔とから発している。そのため、他の人々 (8) のように罰を赦されないで、過失だけを赦されるのである。事実、双方に、すなわち、与える者と受ける者とに、善良な心構えが要求される。ところが、この人々は不完全であるために、苦しみと祈りとをかれらのためにわたしにささげる人々の完全な望みを、不完全に受けるのである。
 それでは、わたしが、かれらは過失の赦しと恩寵のたまものとを受けると言ったのは、どういうわけであろうか。それが真実だからである。かれらは、すでに話した方法で、すなわち、良心の光明とその他の手段とによって、過失を償う。なぜなら、自分を認識しはじめるとともに、その罪の汚物を吐き出し、それによって、恩寵のたまものを受けるからである。
 普通の愛にとどまる人々については以上の通りである。かれらが出合う難儀を矯正として受け、聖霊の寛仁に抵抗しないならば、過失を脱出して、恩寵の生命を授かるであろう。
 しかし、無知で、わたしを認識せず、わたしに対しても、わたしのしもべたちがかれらのために凌いだ辛苦に対しても、恩知らずであるならば、わたしのあわれみのすべてのたまものは、かれらの破滅と断罪とに変わるであろう。このような結果は、あわれみの不足にも、この忘恩者のためにあわれみを哀願した者にも、その責任を負わせてはならない。もっばら、その自由意志によって、その心を金剛石で閉ざした者の悪意と頑迷さとに負わせなければならない。しかも、この石は「血」によらなければ、他にこれをやわらかにする方法はない (9)
 繰りかえして言いたい。このような人も、その頑迷さにかかわらず、まだ時があるあいだに、その自由意志をつかって、わたしの「子」の血を哀願することができる。この同じ手を使い、その頑迷な心にこの「血」を塗ってこれを砕くがよい。そうすれば、かれのために流された「血」の効果にあずかるであろう。しかし、かれが絶えず延期して、時が過ぎ去るのを放置するならば、これにつける薬はない。なぜなら、わたしが、わたしの恩恵を想い起こさせるために記憶を、真理を見て認識させるために知性を、「永遠の真理」である「わたし」を愛させるために愛情を与えたとき、あずけた財産を、わたしに返さなかったからである (10)
 わたしはかれにたまものを与えた。かれはこれを「父」であるわたしに返さなければならない。もしも、これを悪魔に売りわたし、あるいは、質入れしたのであれば、悪魔は、これと引き換えに、自分がこの世のために買ったものを、かれに返すことになる。すなわち、悪魔は、かれの記憶を、肉感的な思い、みだらな追憶、傲慢、貪欲、自愛心、隣人に対する憎悪と反感で満たし、かれをわたしに仕える人々の迫害者に仕立てる。このようなみじめさのなかで、ふしだらな意志は知性を暗くする。そしてかれは、その恥ずべき行為によって、永遠の苦罰、無限の苦罰を受けることになる。それというのも、罪の痛悔によって、その過失を償わなかったからである。
 以上話したことによってわかるように、苦しみは、心の完全な痛悔によって過失を償うのであって、限りある苦しみそのものによって償うのではない。すでに話したように、痛悔が完全な人々の場合は、苦しみは過失だけではなく、その結果である罰も償う。苦しみは、大罪から清められて恩寵を受けるすべての人々の場合、過失を償う。しかし、罰を償うのに十分な痛悔と愛とをもたない人々は、「煉獄」に行き (11) 、そこで浄化を完成する。
 要するに、「無限の善」であるわたしに一致している霊魂の望みは、わたしに祈りをささげる人の完全な愛の程度に応じて、そしてまた、受ける人の望みに応じて、その償いに大小の差がある。わたしに与える人と受ける人との望みの深さ、これが、わたしの「いつくしみ」がそのたまものを定める基準である (12) 。それゆえ、あなたのなかに望みの火を燃えさからせ、隣人のために絶え間なく祈りをささげ、謙遜な声をもってわたしに叫ばないで一時でも過すことがないようにするがよい。わたしは、あなたとわたしが地上であなたに与えた霊父とに言いたい。雄々しく行動せよ。自分自身の官能に死に絶えよと。

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