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2.愛と善徳

第6章

善徳も欠点も隣人を介して取得されることについて。

 あなたに知ってほしいのは、どんな善徳も、そしてまた、どんな欠点も、隣人を介して取得されるということである。わたしを憎んでいる者は、隣人に、そしてまた、主な隣人である自分自身に、害を加える。しかも、この害は、全般的であるとともに個別的である。
 全般的である。なぜなら、あなたがたは、あなたがたの隣人を自分自身のように愛さなければならないからである。この愛は、祈りによって、言葉によって、助言によって隣人を助けること、その要求に応じて、霊的あるいは物質的助けをこれに与えることを義務づける。
 もしも、あなたがたに手段がないために、これを現実に実行することができないときは、せめてその望みを抱かなければならない。しかし、わたしを愛さない者は、隣人も愛さない。隣人を愛さないならば、これを助けない。その結果、自分自身に害を与える。なぜなら、隣人のためにわたしにささげなければならない祈りと敬虔な望みとをささげないならば、わたしの恩寵を失うと同時に、隣人の期待を裏切るからである。隣人に対する助けはみな、わたしに対する愛のためにかれに対して抱く愛から発するものでなければならない。
 同じように、隣人に害を加えない悪はないと言うことができる。なぜなら、わたしを愛さないならば、隣人に対して抱かなければならない仁愛に生きることができないからである。すべての悪は、霊魂がわたしと隣人とに対する仁愛を失っているところから生まれる。善をなすことができないから悪をおこなうのである。それでは、だれに対して悪をおこなうのであろうか。まず自分自身に対して、つぎに隣人に対して。わたしに害を加えるわけではない。なぜなら、わたしが、隣人に対してなされたことをわたし自身に対してなされたかのように受け取らないかぎり (14) 、悪がわたしに及ぶことはありえないからである。恩寵を失わせる過失を犯すならば、自分自身に害を加える。これほど大きな悪はない。隣人に与えなければならない仁愛と愛とをこれに与えず、また、この愛のゆえに、隣人のために祈りと聖い望みとをわたしにささげて、これを助けないならば、隣人に害を加える。
 以上が、理性を与えられた被造物に対しておこなわなければならない全般的な奉仕である。しかし、あなたがたのそばにいて、あなたがたの目の下で生活している人々に与えなければならない個別的な助けがある。このような条件のなかで、あなたがたは、言葉により、教えにより、善業の手本により、隣人が悩んでいるあらゆる機会に、無私無欲に、自分自身のことのように、自愛の欲情を去って、たがいに助け合わなければならない。隣人に対する愛をもたない者は、かれに対して、これを実行することがないであろう。しかし、これを実行しないことによって、個別的な害を加える。隣人が期待していた善を実行しないばかりでなく、そのうえ、絶えず悪と害とをこれに加える。どのようなしかたによってであろうか。つぎのようなしかたで。
 罪には行為によるものと思いによるものとがある。思いの罪は、罪に対する喜びと善徳に対する反感とを抱くやいなや、すなわち、わたしと隣人とに対して抱かなければならない仁愛の情念を失わせる官能的な自己愛を抱くやいなや、犯される。この罪は、すでに話したように、一度宿されると、官能的で邪悪な意志の好みに応じて、隣人に対し、さまざまの方法で、つぎつぎに罪を産む。ときには、全般的にも、個別的にも、残酷行為を産む。全般的な残酷行為というのは、自分 (15) と他の被造物とが恩寵を失って死と亡びとの危険におちいっているのを知りながら、善徳に対する愛と悪徳に対する憎しみとによって、自分あるいは他者を助けようとしないことである。しかも、罪人の残酷さは、かれ自身の行為によって、拡大される。かれは、善徳の手本を示さないばかりか、その悪徳にかられて、悪魔の役目を果たし、被造物を善徳から遠ざけ、これを悪徳に引きこむ。霊魂に対し、その生命を奪って死を与える道具となるということは、いかにも残酷なことではないだろうか。
 罪人はまた、貪欲により、肉体に対して残酷行為をなす。隣人を助けないばかりか、かえってかれらから奪い、貧しい人々の物を盗む。ときには権威を利用し、ときには策略をめぐらし、ときには不法行為によって、隣人の物を、そしてときには人身を、買収する。ああ、なんというみじめな残酷行為であろうか。もしも、罪人が改心して隣人に対する同情と親切とを抱かないかぎり、わたしはかれに対して、無慈悲になるであろう。
 この残酷さは、ときとして、侮辱的な言葉を生むであろう。そして、この言葉の結果、しばしば、殺人事件が起きるであろう。ときには、みだらな行為によって隣人の人格を腐敗させ、これを悪臭に満ちたおぞましい動物の状態に堕落させるであろう。しかも、毒を飲まされるのは、一人や二人ではないであろう。この人に愛をもって近づく者、かれとまじわる者は、だれかれの別なく、毒を飲まされるにちがいない。
 傲慢はどこで生まれるのであろうか。隣人のなかで、もっばら隣人のなかで生まれるのである。傲慢な人は、自分の名声を高める必要上、他人を軽蔑し、自分は他人よりもすぐれていると思い、その結果、他人を侮辱する。権力の座にあるときは、どんな不法行為、どんな残酷行為もいとわない。人間の肉の売買きえも辞さない。
 ああ、いとしいむすめよ、わたしに加えられた侮辱を嘆くがよい。そして、これらの死者を悼むがよい。祈りによってかれらの死に勝利を占めてほしい。これまで話したことによってわかるように、罪は、どこから生まれるものも、どんな種類の人から生まれるものも、みな、隣人に向けられるし、隣人を介して犯される。それ意外には、ひそかな罪も、公けの罪も、決して犯されないであろう。ひそかな罪は、隣人に与えなければならないのに与えないとき犯され、公けの罪は、すでに話したように、悪徳を生むとき犯される。それゆえ、わたしに加えられたすべての侮辱は隣人を介して行われるというのは、きわめて真実である。

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