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2.愛と善徳

第7章

善徳は隣人を介して実行されることについて。──被造物のなかに多種多様な善徳が存する理由について。

 わたしはあなたに、すべての罪は、さきに説明した理由により、隣人を介して犯されることについて述べた。理由というのは、罪人が、すべての善徳に生命を与える仁愛の情念を失っていることである。それゆえ、隣人に対する仁愛といつくしみとを亡ぼす自愛心は、あらゆる悪の根源であり、土台である。
 すべての破兼恥、憎悪、残酷、あらゆる種類の壊乱は、この自愛心の根から生まれる (16) 。全世界に害悪を流し、聖なる教会の神秘体 (17) とキリスト教の体全体とを病気にかからせているのは、この自愛心である。そえゆえ、わたしはあなたに、すべての善徳は、隣人のなかに、すなわち隣人に対する仁愛のなかに、土台をきずいていると言ったのである。そしてそれは真実である。すでに話したように、仁愛はすべての善徳に生命を与える。仁愛がなければ、どんな善徳も存在することができない。善徳は、わたしに対する純粋な愛によってしか、獲得することができないのである。
 事実、すでに話したように、霊魂は、自分自身を認識するやいなや、その肢体をしばっている邪悪な律法があって (18) 、いつも「霊」にさからっているのを認め、謙遜とその官能の情念に対する憎しみとを抱く。そこで、官能に対する憎悪の念をもって立ちあがり、これを理性の足で踏みにじることに熱意をかたむける。そのうえ、わたしから受けたすべてのたまものを自分のなかに認めて、わたしの「いつくしみ」の広大さをさとる。
 霊魂は、自分自身について得たこの認識を、わたしに帰する。なぜなら、この霊魂を暗黒から救い出して、まことの認識の光明に連れ戻したのは、わたしの恩寵であることをさとったからである。霊魂は、ひとたびわたしの「いつくしみ」を認識すると、これを、あるいは仲介を経ないで、あるいは仲介を経て、愛する。すなわち、自分自身あるいは自分自身の利益を介しないでこれを愛するし、わたしに対する愛によって宿した善徳を介してこれを愛する。なぜなら、罪に対する憎しみと善徳に対する愛とを宿さないならば、わたしに心地よく思われないことをさとるからである。霊魂が愛の情念によって善徳を宿すやいなや、善徳は隣人のためになる実を産む。さもなければ、霊魂が自分自身のなかに、これを宿したというのは、真実ではないであろう。しかし、霊魂は真実にわたしを愛するのであるから、この愛の恩恵を真実に隣人に及ぼす。それ以外ではありえない。なぜなら、わたしと隣人とに対して抱く愛は同じものだからである。霊魂は、わたしを愛すれば愛するほど隣人を愛する。なぜなら、霊魂が隣人に対して抱く愛は、わたし自身から発するからである。
 あなたがたが、自分自身のなかに善徳を修めて実行することができるように、わたしが与える手段は、以上の通りである。わたしは、あなたがたの奉仕をわたし自身のために役立てることができない。それで、あなたがたは、これを隣人のために役立てなければならない。もし、あなたがたが、わたしの誉れと霊魂の救いとに対する優しく愛深い望みによって、数多くの聖い祈りの恩恵を隣人に施すならば、あなたがたが、恩寵によって、わたしをあなたがたのなかに所有している証しになるであろう。
 わたしの「真理」を愛する霊魂は、全般的にも個別的にも、あるいは少なくあるいは多く、受ける者の心構えに応じて、そしてまた与える者の熱烈を望みに応じて、すべての人の役に立つように努めることを、決して止めることがない。これは、わたしがさきに望みから分離した苦しみは、過失を償うのに十分ではないことを説明したとき、あなたに示した通りである。
 霊魂は自分をわたしに結びつけ、わたしのなかに自分自身を愛させるこの一致の愛を体験したのち、その愛情をすべての人に拡げて、その需要に応じる。すなわち、恩寵の生命のみなもととなった善徳を宿すことによって、自分自身に善をなしたのち、個々の隣人の需要に目を注ぐ。つまり、すでに話したように、理性をそなえた被造物に全般的に愛の情念を示したのち、わたしが他の人々に奉仕させるために与えたさまざまの恩寵を利用して、身近な人々に助けをもたらす。ある者は、教えによって、すなわち言葉によって、隣人に奉仕し、率直に、はばかることなく、助言を与える。ある者は、その生活によって手本を示す。これはみながなすべきことである。なぜなら、各人は、善良で、聖く、誠実な生活によって、隣人によい感化を与えなければならないからである。
 以上の善徳、そして数えきれないほどのその他の善徳は、隣人に対する愛から生まれる。ところで、このように種々様々の善徳があるのはなぜであろうか。なぜ、各人にすべての善徳を与えないで、ある者にはそのなかの一つを、他の者には別のものを与えるのであろうか。しかし、他のすべての善徳を所有しないで、そのなかの一つを所有することはできないというのは、右に劣らず真実である。なぜなら、すべての善徳はたがいに結合しているからである。わたしは、いくつかの善徳を、ときにはある人に、ときには他の人に、それが他の善徳にくらべて主徳であるように見える方法で、分配する。ある人には仁徳を、他の人には正義を、この人には謙遜を、あの人には強い信仰を、ある人には賢明を、あるいは節制を、あるいは忍耐を、他の人には力を与える。
 わたしは、これらの善徳とその他の多くの善徳とを、多くの被造物の霊魂に、種々の段階に分けて、与える。そのなかの一つが、その対象から見て、主要であるのは事実である。それは、その霊魂が一つの善徳を他の善徳よりも実行する多くの機会に出会うからである。しかし、この善徳に対する愛は、他のすべての善徳を自分に引きつける。すでに話したように、善徳はみな、仁愛の情念によってたがいに結ばれているからである。
 善徳のいくつかのたまものと恩寵とについても、あるいはまた、他の精神的・肉体的たまものについても、これと同じである。肉体的な善について言うならば、わたしは、人間の生活に必要なものを分配するにあたって、きわめて大きな不平等にたよった。わたしは、各人が必要なすべてのものを所有するのを望まなかった。それは、人々が、必然的に、あいたがいに、仁愛を実行する機会をもつことができるようにするためである。わたしにとって、体のためにも霊魂のためにも必要なすべてのものを人間に与えるのは、可能であった。しかし、わたしは、かれらがあいたがいに要求し合い、わたしから受けた恩寵と恩恵とを分配するわたしの代務者となる (19) のを望んだ。人間は、好むと好まざるとにかかわらず、仁愛を実行する必要からのがれることができない。もっとも、これらの行為は、わたしに対する愛のために実行されなければ、恩寵に関してはなんの価値もないのは真実である。
 以上によってわかるように、わたしはかれらに仁愛の徳を実行させるために、かれらをわたしの代務者に仕立てたのであり、ちがった状態とちがった段階においたのである。これは、わたしの家には部屋が多い (20) けれども、わたしはそこに愛以外のなにも望まないことを示す。わたしに向けられる愛は隣人に対する愛を含む。隣人を愛する者は、律法を完うする (21) 。それゆえ、この愛のきずなにつながっている者は、その状態に応じて、有益な者となることができるのである。

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