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2.愛と善徳

第9章

外面的な苦業ではなく善徳を重視すべきことについて。──分別は謙遜の上にきずかれていて、各人に負っているものを返すことについて。

 わたしがわたしのしもべたちに求める聖く心地よい業、すなわち、あなたに語ったような方法で試された霊魂の内的善徳については、以上の通りである。わたしが求めるのは、ただ肉体的な業、すなわち、外的な行為、無数のさまざまな苦業だけではない。それは善徳の道具であって、善徳ではない。もしも、このような外的業が、さきに述べた善徳から分離しているとしたら、わたしにとって、あまり心地よいものではない。たとえば、もしも霊魂が、このような苦業を、主として、始めた苦業そのものに執着して実行するならば、その完徳のさまたげとなるにちがいない。まことの謙遜と完全な忍耐とをともなった自分自身に対する聖い憎しみをもって、愛に執着しなければならない。それと同時に、他の内的善徳にも、わたしの誉れと霊魂の救いとに対する飢えと望みとをもって、執着しなければならない。このような善徳は、官能的な意志が、善徳に対する愛の攻撃によって死滅したこと、あるいは絶えず死滅していることを示すのである。
 このような分別をもって、苦業を実行すべきであり、苦業よりも善徳を愛すべきである。そして、苦業はただ善徳を増し加える手段にすぎないと考え、必要に応じ、自分の力を考慮して実行すべきである。
 そうではなくて、苦業を土台とするときは、自分自身の完徳を妨害することになろう。なぜなら、自分自身の認識とわたしの「いつくしみ」とが与える分別の光明をもって行動しないからである。むしろ、わたしの真理に合致せず、無分別に行動することになろう。わたしがもっとも愛しているものを愛せず、もっとも憎んでいるものを憎まないからである。
 分別とは、霊魂が自分自身と「わたし」とに対して所有しなければならないまことの認識にほかならない。分別はこの認識のなかに根をおろすのである。分別は、仁愛に接ぎ木され、これと一つになったひこばえである。このひこばえが、一本の木が多くの枝をもつように、多くの他のひこばえを生ずるのは真実である。しかし、木と枝とに生命を与えるのは根である。そして、この根は謙遜の土のなかにおろさなければならない。謙遜は仁愛の乳母であって、分別のひこばえあるいは木は、この仁愛に接がれている。分別は、謙遜の徳のなかに植えられていないならば、善徳ではないし、生命の実を結ばないであろう。なぜなら、謙遜は霊魂が自分自身についてもつ認識から生まれるからである。そのうえ、すでに話したように、分別の根は、自分自身とわたしのいつくしみとの認識であって、霊魂はこれによって、自然に、すべての人に負っているものを返すのである。
 まず第一に、霊魂は、わたしに帰すべきものを、わたしに帰する。すなわち、わたしの名に栄光と賛美とを帰し、わたしから受けたと信じている恩寵とたまものとをわたしに帰する。霊魂は当然自分に帰すべきものだと意識するものを自分自身に帰し、自分は自分自身で存在するのではなく、その存在はわたしの恩寵によって与えられたものであることを認める。霊魂は、存在のほかに所有するすべての恩寵を、同じように、自分自身にではなく、わたしに帰する。自分自身については、多くの恩恵に対して忘恩者であったこと、受けた時間と恩寵とを利用しなかったことを告白する。それゆえ、自分は罰を受けるのが当然であると考え、自分を、その過失のゆえに、憎しみと嫌悪との対象と見なすのである。
 自分自身の認識とまことの謙遜との上にきずかれた分別の徳の効果は、以上の通りである。この謙遜がなければ、すでに話したように、霊魂は無分別におちいるであろう。分別の泉が謙遜であるように、無分別の泉は傲慢である。それゆえ、分別がないならば、泥棒のように、わたしに属する誉れを自分自身のものにし、これを誇る。当然自分自身に帰すべきものは、これをわたしの責任に帰し、わたしがこの霊魂と他の被造物とのなかに成就した神秘的な業については嘆きつぶやく。そして、わたしについても隣人についても、あらゆる面でつまずく。
 分別の徳を所有している人々の行いは、これと正反対である。すでに話したように、わたしと自分自身とに負っているものを返したのち、隣人に負っているものを返す。とくに、愛に発する情念と、みながたがいにささげなければならない謙遜で絶え間ない祈りとを、これに与える (22) 。ついで、さきに話したように、その教えによって、誠実で聖い生活の手本によって、その意見によって、救いをまっとうするために必要な助けによって、隣人に負っているものを返す。
 人間は、どんな身分におかれても、君主であっても、高位聖職者であっても、臣下であっても、この徳をもっているならば、隣人に対してなすことを、すべて、分別をもって、仁愛の情念によってなす。なぜなら、これらの善徳はいっしょに結合され、溶け合っていて、自分自身の認識から発生するまことの謙遜の土地に植えられているからである。

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