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2.愛と善徳

第11章

苦業とその他の肉体的修行とは、善徳を修める手段として利用すべきであって、主要な目的であってはならないことについて。──分別の光明と外的業との関係について。

 これこそ、わたしが霊魂に要求する実と業である。この実こそ、必要のあるとき、善徳を証すのである。ずっと以前に、このことをあなたに話したことがある。覚えているであろうか。そのとき、あなたは、わたしのために大きな苦業をおこないたいと望んで、「あなたのためになにをしたらいいでしょうか。なにを堪え忍んだらいいでしょうか」とたずねた。それで、あなたの精神に答えた。「わたしは、わずかの言葉と多くの業とを喜ぶ『者』だ」と。それは、わたしに向かって、言葉のひびきで、「主よ、主よ、わたしはあなたのためになにかをしたい」と叫ぶだけで満足する者も、わたしのために多くの苦業をおこなって、体を苦しめたいと望みながら、我意を放棄しない者も、わたしに喜ばれると思うのは間違っていることを、理解させたいからであった。わたしが求めるのは、雄々しい忍苦の業と、忍耐と、あなたに説明したその他の善徳である。霊魂の内部にあるこれらの善徳は、活動的で、恩寵の実を結ぶ。
 それ以外のみなもとから流れ出る業はみな、単なるさわぎにすぎない。なぜなら、有限な業以外のなにものでもないからである。ところが、無限であるわたしは、無限の業、すなわち、愛の無限の情念を求める。つまり、苦業と他の肉体的修行とは、手段として利用し、愛のなかに主要な位置を占めさせないことを求める。もしも、これを主として愛するならば、わたしには有限な業しかないことになる。それは、言葉が、霊魂の内的愛情から発しないならば、口から出たとたんに、なんでもなくなるのと同じである。霊魂は、善徳を真理のなかに宿して産む。有限な業は、この内的善徳によって、仁愛の情念に一致する。それでこそ、わたしに受諾され、喜ばれるのである。なぜなら、単独ではなく、まことの分別につきそわれるからであり、霊魂は、この肉体的な行為を、主な目的としてではなく、手段として実行するからである。
 それゆえ、苦業あるいはその他の外的行為を、原理や目的にしてはならない。すでに話したように、それは有限な業だからである。有限な業は時間のなかで実行されるし、そのうえ、ときとして、被造物は、これを放棄すること、放棄せざるをえないことがある。霊魂は、ときには止むをえない事情のために、ときには長上の命にもとずき、従傾を実行するために、始めた行為を断念しなければならない。そのようなとき、これを実行しつづけるならば、功徳を積むかわりに、わたしに背くことになろう。要するに、それは有限な業である。それゆえ、手段と見なすべきで、原理と見なすべきではない。しばらくのあいだこれを断念する必要があるのに、原理としてこれに執着するならば、霊魂は空虚におちいるにちがいない。
 栄光にかがやく使徒パウロは、その手紙のなかで、肉体を苦しめ我意を殺せ (23) 、と言ったとき、これを示している。これは、肉が霊に反抗しようとするときは、肉体のたずなをしめ、肉を苦しめなければならないが、意志はこれを完全に殺し、これを放棄して、わたしの意志に従わせなければならない、という意味である。意志をこのように殺すのは分別の徳である。すでに話したように、分別の徳は、霊魂に自分自身を認識させて、これに罪と官能とに対する憎しみと軽蔑とを抱かせることによって、自分自身に返すべきものを返させるからである。これが我意の上にきずかれた自愛心を完全に殺し、これを切り裂く刀である。
 このように行動する者は、わたしに、言葉だけではなく、わたしが喜ぶ多くの業をささげる。わたしが、わずかの言葉と多くの行為とが欲しいと言ったのは、そのためである。わたしは、多くと言って、その数を定めない。なぜなら、すべての善徳と善業とに生命を与える仁愛の上にきずかれた霊魂の情念は、無限に増大しなければならないからである。だからと言って、わたしは言葉を排除しなかった。ただ、わずかの言葉が欲しいと言っただけである。それは、外的行為はみな有限であることを理解させるためである。そのため、「わずかの」と言ったのである。しかし、言葉は、善徳の原理としてではなく、手段として用いるならば、わたしを喜ばせることに変わりはない。
 それゆえ、大きな苦業によって肉体を苦しめることに情熱的に努力する者は、それほどではない者よりも完全であると判断するようなことがあってはならない。なぜなら、すでに話したように、善徳も功徳もそのようなことに成り立つのではないからである。もしもそうだとしたら、正当な理由によって、この苦業の業と行為とを実行することのできない者は、不幸であろう。しかし、善徳はまったく、まことの分別の光明に照らされた仁愛のなかに存する。仁愛がなければ無価値である。分別は、方法を定めず、際限なく、わたしに与える。なぜなら、わたしは至上かつ永遠の「真理」だからである。分別は、わたしを愛する愛には法則も限度も定めることがない。しかし、隣人に対しては、愛徳の秩序にしたがって、当然のことながら、愛に限度を定める。
 分別の光明が隣人に与えるのは、規律のある愛である。この光明は、すでに話したように、仁愛から発する。隣人に奉仕するためだと言って、罪によって自分自身をそこなうのは、愛の秩序に反する。全世界を地獄から救うため、あるいは大きな善徳の行為をなすために、ただ一つの罪で十分であるとしても、これを犯すのは、分別によって秩序立てられた仁愛ではない。このような仁愛は分別を完全に欠いている。なぜなら、たとい善徳の偉大な行為をなすためであっても、あるいは隣人に奉仕するためであっても、罪を犯すことは許されないからである。聖い分別が要求する秩序はつぎの通りである。霊魂は、すべての能力をあげて、雄々しく、あらゆる配慮をつくして、わたしに奉仕する。そして、隣人を愛の情念によって愛し、その霊魂の救いのためには、できれば千度も、肉体の生命をささげる心構えを抱いている。隣人に恩寵の生命を獲得させるためには、どんな苦しみも、責苦も堪え忍ぶ覚悟である。そのうえ、隣人の肉体に奉仕するために、物質的富を消費する。
 以上が、仁愛から発する分別の光明のはたらきである。恩寵を所有したいと願うすべての霊魂は、分別によって以上のことをなすのであり、またなさなければならない。要するに、「わたし」を、無限で無条件な愛によって、愛さなければならないし、隣人を、すでに話したように、適度に、秩序のある愛によって、しかもわたしに対する無限の愛によって、愛さなければならない。他人に奉仕するためにと言って、罪を犯し、自分自身に害を加えてはならない。聖パウロは、仁愛はまず自分自身から始めなければならない、と言ったとき、あなたがたにこのことを注意したのであった。さもなければ、他人に対して完全な奉仕をおこなうことはできないであろう。なぜなら、完徳が霊魂のなかにないならば、自分自身のため、あるいは他人のためになすすべてのことは、不完全だからである。
 わたしによって創造された有限な被造物を救うためと言って、無限の「善」であるわたしに背くのは、適当ではない。この過失は、それに期待する結果よりも重大であろう。それで、どんな理由によっても罪を犯してはならない。まことに仁愛を所有している者は、これを心得ている。聖い分別の光明を所有しているからである。
 分別は、すべての暗黒を払い、無知を滅し、あらゆる善徳に、そして善徳のあらゆる手段と行為とに、浸透する光明である。分別は非の打ちどころのない賢明、なにものも打ち勝つことのできない力、きわめて偉大な、終わりまで続く堅忍をそなえている。分別は天から地に広がる。すなわち、「わたし」の認識から自分自身の認識へ、わたしに対する愛から隣人に対する愛に及ぶ。分別は、まことの謙遜によって、世のすべてのわなを避け、その賢明によって、悪魔と被造物とのすべての誘惑を逃げる。分別は、武器をもたない手によって、すなわち長い忍耐によって、悪魔と肉とに勝利をしめる。その心地よく栄光にかがやく光明によって、肉の弱さを示し、それと同時に、肉に対して抱かなければならない憎しみを抱かせる。このようにして、世を打ち倒したのである。すなわち、これを軽蔑し、これをみにくいと思い、これをあざ笑って、その愛の足で踏みにじったのである。こうして、世の主人となり大名となったのである。
 それゆえ、この世の人々は、霊魂の善徳に向かって、なにもなすことができない。いかなる迫害も、この善徳を成長させ、堅固にするだけである。この善徳は、すでに話したように、最初愛の感情によって宿され、ついで、隣人との出合いによって試され、これに対してユダかな実を産む。あなたに示したように、この善徳が証されず、試練のとき人々の前に光りかがやかないとしたら、それは、実際に心の奥に宿されていなかったからである。なぜなら、すでに話したように、隣人の仲介によらないで、善徳が存在すること、完全になること、実を結ぶことは不可能だからである。
 霊魂はその母胎に子供を宿した女に似ている。もしもこれを出産して、人目に見せないならば、その夫は、子供ができたと言うことができない。霊魂の「夫」であるわたしは、霊魂が善徳という子供を、隣人に対する愛徳のなかで産み、これを必要に応じて、全般的にも個別的にも見せないならば、すでに話したけれども、繰りかえして言うが、実際に善徳を宿したとは認めない。悪徳についても同じことを言いたい。悪徳はみな、隣人との出合いによって、犯されるのである。

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