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3.あわれみの神

第14章

神はキリスト教民とくにその聖職者の状態を嘆かれることについて。──聖体の秘跡とご託身の恩恵とについて。

 すると、神は、そのあわれみのまなこを、この霊魂に向けられた。そして、その涙に負け、その聖い望みのくさりにしばられて、つぎのように嘆かれた。
 ──いとしいむすめよ、わたしはあなたの涙に負けた。なぜなら、この涙は、わたしの仁愛に一致しており、また、あなたがわたしに対して抱いている愛によって流されたからである。わたしは、あなたの痛ましい望みのくさりにしばられている。しかし、眺めるがよい。見るがよい。わたしの「浄配」の顔がどんなによごれているか、不浄と自愛心とによって、どんなに癩にかかっているか、どんなに貪欲と傲慢とにふくれあがっているかを。普遍的な「体」すなわちキリスト教と、聖なる教会の神秘的体すなわちわたしの聖職者たちとは、罪によって肥満している。わたしの聖職者たちは、自分自身に食べさせ、自分自身に乳房を吸わせている。しかし、かれらは、自分たちだけに食べさせるべきではなく、キリスト教民の普遍的体と、無信仰の暗黒から脱け出てわたしの教会の成員に加わりたいと望むすべての人々とに食べさせ、これに乳房を吸わせなければならないのである。
 わたしの「浄配」の光栄ある乳と血とが、どれほどの無知、どれほどの暗黒、どれほどの忘恩、どれほどのよごれた手によって分配されているかを見るがよい。かれらは、どれほど図々しく、どれほど不敬に、これをさずかったことであろうか。生命を与える「血」が、かれらの過失によって、しばしば死を与えるのである。しかも、それは、死を滅ぼし、暗黒を払い、真理と光明とを放ち、欺瞞を恥じ入らせるわたしの「ひとり子」の貴い「血」である。
 この「血」は、これを受ける心構えのある人間の救いと完徳とのために、あらゆるものを与え、有効にはたらく。この「血」は、これをさずかる者の心構えと情念とに応じて、あるいは多くあるいは少なく、霊魂に生命を与え、あらゆる恩寵によってこれを飾る。しかし、悪のなかに生き、大罪の暗黒のなかで卑劣にこれを飲む者には死を与えて、生命は与えない。それは、「血」の欠陥によるのではなく、また、悪の状態、あるいは大きな悪の状態におちいっている聖職者の欠陥によるのでもない。なぜなら、聖職者の悪は、「血」を腐敗させたり、汚したりすることも、その恩寵と功徳とを減らしたりすることもないし、まして、かれから「血」をさずかる者に害を与えることがないからである。しかし、この聖職者は、過失を犯して自分自身に害を加えるし、罰を受ける者となる。しかも、この罰は、その過失に対するまことの痛悔と悔恨とによらなければ、まぬかれることができない。
 それで、わたしが言いたいのは、この「血」は、これを卑劣に受ける者に害を与えるということである。すでに話したように、それは「血」の欠陥によるのでも、聖職者の欠陥によるのでもない。きわめて不幸なことであるが、自分の精神と体とを汚し、自分と隣人とにきわめて残酷な結果を招く自分自身の過失によって、邪悪な状態におちいっていることによるのである。たしかに、罪人は、その霊魂のなかで恩寵をほろぼし、その心のなかで「血」の実を足で踏みにじって、自分自身に対し、残酷にふるまった。この「血」は、聖い洗礼において、かれに与えられたものである。そのとき、かれは、その父母によって宿されたとき背負わされた原罪の汚れを、この「血」によって取り除かれたのであった。
 全人類の集団は、第一の人アダムの罪によって腐敗させられた。そして、この集団から引き出されたあなたがたはみな、腐敗させられて、永遠の生命を所有することができなくなった。それゆえ、わたしは、わたしの「言葉」、わたしの「ひとり子」を、たまものとしてあなたがたに与えた。わたしは、わたしの偉大さをあなたがたの人性の卑賎さに一致させ (9) 、罪によって失った恩寵を回復させた。わたしは、苦痛を感じないから、苦しみを堪え忍ぶことができなかった。しかし、わたしの神的「正義」は、過失に対して罰を下すことを求めた。他方、人間はその償いを果す十分な能力をもっていなかった。なんらかの償いを果たしたとは言え、それは自分自身のためであって、理性をめぐまれた他の被造物のためではなかった。
 実のところ、人間は、自分のためにも他人のためにも、恩寵を受けるに足る償いを果たすことができなかった。なぜなら、過失は無限の「いつくしみ」である「わたし」に対して犯されたものだからである。それで、わたしは、堕落していて、さきに話した理由のために、そしてまた、その弱さのために、自分で償いを果たすことのできない人間を回復させたいと考え、わたしの「子」、「言葉」をつかわし、あなたがたと同じく、アダムの腐敗した集団から引き出された人性をまとわせた。それは、かれに、人間が罪を犯した同じ人性のなかで、苦しみを受けさせ、その体のなかで、十字架の恥ずべき死にいたるまで、罰に服させ、わたしの怒りをなだめさせるためであった。
 このようにして、かれは、わたしの正義に償いをささげると同時に、人間の造られた目的である善に達することができるように、その過失をあがなうことを求めるわたしの神的あわれみを、満足させたのであった。このようにして、神の本性に一致した人間の本性は、全人類のために償いを果たすことができた。それも、実のところ、アダムの集団から出た有限な本性のなかで堪え忍んだ苦しみだけによるのではなく、永遠の「神性」、無限の神の本性の功徳によるのである。この二つの本性の一致のゆえに、わたしは、わたしの「ひとり子」の血のいけにえを喜んで受けいれた。このいけにえは、かれを十字架にしばりつけ釘つけるくさりであった神的仁愛の火によって、神の本性と練り合わされ混ぜ合わされたものであった。
 このようにして、人間の本性は、もっばら神の本性の功徳によって、過失を償うことができた。アダムの罪のけがれは、このようにして消された。しかし、傷がなおったのちも傷あとが残るように、罪への傾きとあらゆる肉体的弱さとが、しるしとして残った。
 アダムの過失はあなたがたに致命傷を負わせた。しかし、偉大な「医師」、わたしの「ひとり子」が降り、人間があまりに衰弱していたために飲むことができなかった苦いくすりを飲んで、病人をいやした。かれは、乳母のように、子供のためにくすりを飲んだ。なぜなら、かの女は大きく強いが、子供は苦味を我慢することができないからである。かれもまた乳母であった。あなたがたの本性と一致した「神性」の偉大さと力とをもって、過失のためにすつかり衰弱した子供であるあなたがたをいやし、生き返らせるために、十字架の残酷な死という苦いくすりを飲んだのである。
 すでに話したように、あなたがたが宿されたときは、父母から背負った原罪の傷あとしか残っていなかった。この傷あとさえも、この光栄ある貴い「血」の功徳により、恩寵の生命を与える効力のある聖い洗礼によって、不完全にではあるが、消された。霊魂が聖い洗礼を受けるやいなや、原罪は除かれ、恩寵が注賦された。悪への傾きは、すでに話したように、原罪の残した傷あとであるが、はるかに弱められ、霊魂は、望むならば、これをおさえることができるようになった。
 このようにして、霊魂は、わたしを愛し、わたしに奉仕する心状と望みとによって、自分自身準備する心構えのいかんに応じて、恩寵を、あるいは少なくあるいは多く受け、増加させることができるのである。しかし、霊魂は、聖い洗礼によって恩寵を受けているにもかかわらず、悪に対する傾きも善に対する傾きも、同じようにもつことができる。分別の年齢に達すると、霊魂は、自由意志により、その意志の好むところにしたがって、善あるいは悪を選ぶことができる。人間の自由はきわめて大きく、光栄ある「血」の功徳によって受けた力はきわめて強いので、自分が望まないかぎり、悪魔も被造物も、これにどんなに小さい罪でさえ、強制することができない。人間は、自分自身の官能を統御し、自分が創造された目的を達成するために、奴隷状態から解放されて、自由になったのである。
 ああ、みじめな人間よ、わたしから受けたはてしない恩恵を無視して、動物のように汚泥をたのしみにするとは。これほどの無知に満ちたみじめな被造物に、これ以上大きな恩恵を与えることができるであろうか。

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