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4.霊魂の橋

第23章

わたしたちはみな、聖なる教会のぶどう畑に働く神の労働者であることについて。──各人は自分自身というぶどう畑をもっていることについて。──みなが神の御子のぶどう畑と一つにならなければならないことについて。

 ここで、永遠の「真理」は、この霊魂に、神はわたしたちの同意を待たないでわたしたちを創造したが、わたしたちの同意を待たないでわたしたちを救うことがないことを示された。そして、わたしたちが、与えられた時を、わたしたちの自由意志と自由な意欲とによって、まことの善徳の実行に用いるよう望んでいると話されたのち、つづけて次のように語られた。
 ──あなたがたはみな、霊魂の救いのなかにわたしの名の栄光と賛美とを求め、数多くの労苦をつぐのいとして堪え忍び、愛の甘美な「言葉」のあとに従って、この橋を渡らなければならない。あなたがたにとって、わたしのもとに来るには、他に方法はない。
 あなたがたは、わたしが聖なる教会のぶどう畑に働かせるために配置し送ったわたしの耕作者である (1) 。あなたがたはキリスト教の普遍的体のなかに働いている。わたしは、あなたがたが聖なる教会の神秘的体から受けた聖い洗礼の光明を、あなたがたといっしょに働かせるために送った聖職者の手によって与えたのち、あなたがたをそこに配置したのである。
 あなたがたは普遍的体のなかにいる。かれら (2) は、神秘的体のなかにいて、あなたがたに授ける秘跡によって「血」をあなたがたに分かち、あなたがたの大罪のとげを抜き取り、あなたがたのなかに恩寵を蒔く。かれらは、聖なる教会のぶどう畑と一つになったあなたがたのぶどう畑に働くわたしの耕作者である。
 理性を与えられた被造物はみな、自分自身のなかにひとつのぶどう畑、すなわちその霊魂のぶどう畑を所有している。あなたがたは、生きているあいだ、意欲と自由意志とによって、このぶどう畑に働く。この期間をすぎると、善い働きも悪い働きも、なすことができないが、生きているあいだは、わたしに指定された自分のぶどう畑をたがやすことができる。この霊魂の耕作のためにわたしが与えた力はきわめて大きく、自分が同意しなければ、悪魔からも、他の被造物からも奪われることがない。この力は聖い洗礼によってさずかったのであるが、それと同時に、あなたがたは、善徳に対する愛と悪徳に対する憎しみとのつるぎをさずけられた。わたしの「ひとり子」は、この愛と憎しみとのために、すなわち、あなたがたに対する愛と罪に対する憎しみとのために、死去し、あなたがたの上にその血を注いだ。そして、あなたがたは、その血の功徳によってあなたがたに生命を取り戻して与える聖い洗礼のなかで、この愛と憎しみとを見出すのである。
 それゆえ、あなたがたは、武器を手にしている。この武器を、時があるあいだに、大罪のとげを抜き取り、善徳を蒔くために、自由意志によって用いなければならない。さもければ、あなたがたは、「血」の効果にあずかることができないであろう。この「血」は、わたしが聖なる教会に配置した耕作者たちによって分配される。かれらは、すでに話したように、この「血」をたたえている秘跡、聖なる教会によって執行される秘跡によって、霊魂のぶどう畑から大罪を除き、これに恩寵を与える役目を果たすのである。だから、あなたがたは、「血」のあたいを受ける前に先ず第一に、心の痛悔と罪に対する嫌悪とにより、そしてまた善徳に対する愛によって、身を清めなければならない。あなたがたは、あなたがたの側から、わたしの「ひとり子」であるぶどうの木に結合した良い枝になる心構えを抱かなければ、これを受けることができないであろう。わたしの「ひとり子」は、「わたしは『ぶどうの木』であって、わたしの『父』は耕作者である。あなたがたはその枝である」(3) と言ったではないか。
 これが真理である。わたしこそ耕作者である。なぜなら、存在を有するものはみな、「わたし」から発したし、また発するからである。わたしの力は測り知れない。わたしは、わたしの力と徳とによって全宇宙を統治する。したがって、わたしなくしては、なにものも造られないし、統治されない。たしかに、わたしは耕作者である。わたしの「ひとり子」のまことのぶどうの木を、あなたがたの人性の土地に植えたのはわたしである。そしてそれは、枝であるあなたがたが、このぶどうの木に接合されて、実を結ぶためである。
 聖い善業の実を結ばない者は、「ぶどうの木」から切り取られて枯れるであろう。なぜなら、実を結ばない枝は、もうなんの役にも立たないから、切り取られて火に投げ入れられるように、「ぶどうの木」から切り離された者は、恩寵の生命を失い、永遠の火に投げ入れられるからである (4) 。この人たちも同じである。自分自身の過失によって、「ぶどうの木」から切り取られたかれらは、大罪の過失のなかに死んだままであるならば、神的「正義」によって、永遠に燃える火に投げ入れられるほかはない。なんの役にも立たないからである。
 かれらは、自分のぶどう畑をたがやさなかった。それどころか、これを荒らしてしまった。自分たちのぶどう畑だけではなく、他の人のぶどう畑も。そこに善徳の良い木を育てるかわりに、そこから恩寵の種子を取り除いた。この種子は、聖い洗礼の光明のなかで、まことの「ぶどうの木」があなたがたのためにこしらえたぶどう酒であるわたしの「子」の血を分かつことによって、さずかったものであった。かれらは、この種子を取り上げて、動物に、すなわち多様な、おびただしい罪に、飼料として投げ与えたのである。かれらは、みだらな愛情の足によってこれを踏みにじり、わたしを侮辱し、自分と隣人とに不幸をもたらした。
 しかし、わたしのしもべたちは、そのようにはしない。あなたがたも、かれらにならって、このぶどうの木と結びつき、これに接ぎ木されていなければならない。そうすれば、あなたがたは、ユダかな実を結ぶであろう。なぜなら、このぶどうの木の樹液を分かつことができるからである。あなたがたは、わたしの「子」、「言葉」にとどまることによって、わたしにとどまるであろう。なぜなら、わたしはかれと、かれはわたしと一つだからである (5) 。あなたがたは、かれにとどまることによって、かれの教えに従うであろう。かれの教えに従うことによって、この「言葉」の本体を分かつであろう。すなわち、あなたがたは、人性と一致した永遠の「神性」を分かち合う者となり、そのなかに、霊魂を酔わす神の愛を汲み取るであろう。それゆえ、わたしは、あなたがたは「ぶどうの木」の本体を分かつと言ったのである。

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