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5.亡びの道

第31章

橋の下の河を通る人々のみじめさについて。──この道を通る霊魂は四つの悪徳に根を下ろしていて、死の木と呼ばれることについて。

 この霊魂は、以上のように申し上げて、神のあわれみのなかで、その心をいくらかなごめたのち (1) 、いただいていた約束が実行されるのを謙遜にお待ち申し上げた。すると、神は、お言葉をつづけて、次のように話された。
 ──いとしいむすめよ、あなたは、わたしの前で、わたしのあわれみについて語った。それは、わたしが、これをあなたに味わわせたからであり、また、わたしがあなたに言った「この罪人たちのために、わたしに祈るよう切に望む」という言葉のなかで、これを示したからである。しかし、あなたがたに対するわたしのあわれみは、あなたが見ているよりも、比べることができないほど、はるかに大きいことを、知ってほしい。あなたの見る目は不完全であるが、わたしのあわれみは完全で無限である。それゆえ、双方のあいだには、比較は全く成り立たない。ただ、有限と無限との比較が成り立つだけである。
 しかし、わたしは、このあわれみを、そしてまた、さきに説明したような人間の尊厳を、あなたに味わわせたいと望んだ。それは、下の道を通る邪悪な人々の残酷さと卑劣さとを、あなたにもっとよく理解させるためである。それで、あなたの知性の目を開いてほしい。そして、自分たちの意志で溺れる人々を注視してほしい。かれらがその過失によってどのようなみじめさに落ちこんでいるかを注視してほしい。
 第一に、かれらはその精神のなかに大罪を宿すことによって、病弱になった。ついで、これを出産して、恩寵の生命を失った。
 死者はなんの感情ももつことができないし、他の人によって抱き起こされ運ばれないかぎり、自分自身では動くことができない。そのように、世のみだらな愛の河に溺れた人々は、恩寵に死に絶えている。死に絶えているから、かれらの記憶は、わたしのあわれみの追憶を思い浮かべることができない。かれらの知性の目は、もはや、わたしの真理を見ることができないし、認識することができない。なぜなら、感情が死んでいるからである。すなわち、知性は、自分自身しか、そして自分の官能の死んだ愛しか、眼中にないからである。かれらの意志もまた、わたしの意志に死に絶えている。死んだ事物しか愛さないからである。
 この三つの能力が死んでいるので、恩寵に関しては、そのすべての活動は、外的なものも内的なものも、死んでいる。その結果、かれらは、わたし自身かれらを助けないかぎり、敵に対して自分自身を防衛することも、自分自身を助けることもできない。この死者がまだ自由意志を保存しているのは事実である。そして、死ぬべき体のなかにとどまっているかぎり、わたしの助けを願うたびごとに、これを与えられることも事実である。しかし、自分自身ではなにもすることができない。
 かれらは自分自身にとって堪えがたいものとなった。そして、世を支配しようとして、この存在でないものに、すなわち罪に、支配された。罪は非存在である。ところが、かれらは罪のしもべ、その奴隷となった。
 わたしは、かれらを、聖い洗礼において受けた恩寵の生命によって、愛の木にしたのであるが、かれらは死の木になった。なぜなら、さきに話したように、かれらは死んだからである。
 あなたはこの木がどこに根を下ろしているか知っているであろうか。その官能の利己的な愛に養われている傲慢の高地に根を下ろしている。その髄は不忍耐であり、あらゆる苦しみからの逃亡である。そして、そのひこばえは無分別である。わたしが死んだ木と呼んだ者の霊魂を殺すのは、この四つの悪徳である。それというのも、恩寵のなかに生命を汲み取らないからである。木の内部に良心の虫が巣喰っている。しかし、人間は大罪のなかにいるかぎり、自愛心によって盲目になっているので、これをあまり感じない。
 この木の実は死の実である。なぜなら、傲慢の根からその果汁を吸い上げたからである。かわいそうなこの霊魂は、忘恩に満ちあふれている。そこから、あらゆる悪が生まれるのである。もしもわたしから受けた恩恵に対する感謝を少しでも抱いていたら、わたしを認識するであろう。わたしを認識することによって、自分自身を認識するであろう。そうすれば、わたしの愛にとどまるであろう。しかし、この霊魂は盲目であるために、下におりて、手さぐりしながら、河を通って行き、水が流れ去って、待ってはくれないことに気がつかないのである。

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