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5.亡びの道

第33章

貪欲とそれから生まれる悪について。

 他のある者は、土の実を生ずる。貪欲な吝嗇家がこれである。かれらは、もぐらのように、いつも、死ぬまで、土を食べている。死がおとずれるとき、かれらはこれに対して薬を見つけることができない。この人々は、貪欲にも、時間を隣人に売り、わたしが惜しみなく与えるものを下落させる。かれらは高利貸となって隣人を搾取し、これから盗む。それというのも、記憶のなかにわたしのあわれみの追憶を保っていないからである。もしも、これを忘れていなかったなら、自分自身に対しても、隣人に対しても、これほど残酷にはならないであろう。自分自身に対しては、善徳を実行して、同情とあわれみとを行使するであろうし、隣人に対しては、愛深く、これに奉仕するであろう。
 ああ、この呪うべき罪から生まれる悪は、どんなに大きいことであろうか。どれほどの殺人、窃盗、掠奪、不当な利得、心による残忍行為、隣人に対する不正義がおこなわれることであろうか。この罪は霊魂を殺し、これを富の奴隷となす。そののちは、神の掟を守ることなど、気にかけない。吝嗇家は、利得がなければ、だれも愛さない。
 この悪徳は傲慢から生まれる。そして、傲慢は貪欲に養われる。貪欲は個人的な名声欲を満足させるからである。この二つの悪徳は、このようにして、たがいに助け合う。そして、これにおちいっている人は、人目に立つことを欲しがるこのみじめな傲慢のおかげで、悪から悪へと進むのである。
 傲慢は、いつも名声と心の虚栄との煙をあげる火であって、傲慢家は、自分には属さないものを誇りにしている。それと同時に、傲慢はひとつの株であって、多くの枝を生ずる。しかし、そのなかで主なものは、個人的な名声欲で、他の人よりは偉くなりたいという望みを掻き立てる。その結果、心は誠実高邁ではなくなり、二心を抱くようになる。口では一つのことを言っていても、心は別のことを考えている。自分の利益になりさえすれば、真実をかくして、うそをつく。この悪徳はねたみを生む。ねたみは絶えず心を喰い荒す虫であって、自分自分の善も他人の善もたのしむ余裕を与えない。
 このようにみじめな状態におちいっている悪人が、どうして、貧しい人々の需要を満たすために、その財産の一部を分け与えるであろうか。他の人々の財産は盗むけれども。どうして、その汚れた霊魂を汚物のなかから引き出すことができよう。自分自身そのなかにはまり込むのだから。ときどき、かれらは、いかにも非人間的になり、自分の子供や自分の親さえも見ようとはしない。かれらを貧困に追い込むこともやりかねない。
 それにもかかわらず、わたしのあわれみはかれらを忍耐深く見守る。地に向かってかれらを飲み込めとは命じない。それというのも、かれらにその過失を認めさせたいからである。かれらが、霊魂の救いのためにその生命を与えることがありえようか。その金を与えることさえ拒むではないか。かれらが、愛を施すことがありうるであろうか。かれら自身ねたみに喰われているではないか。
 ああ、いかにもみじめな悪徳ではないか。霊魂の天を地に下落させるとは。わたしは霊魂を「天」と呼ぶ。なぜなら、これを天として造ったからである。わたしはこの天に住んでいた。まず、わたしの恩寵により、その内面にかくれて。そして、愛の感情によって、これをわたしの住居となすことによって。ところが、かれらは、姦婦のように、わたしよりも自分自身と被造物と造られたものとを (2) 愛して、わたしを去ってしまった。そのうえ自分自身を神となし、多種多様な罪によって、わたしを苦しめて止まない。それというのも、燃えさかる愛の火によって流された「血」の恩恵を忘れているからである。

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