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5.亡びの道

第36章

キリストの「わたしは世の不義と誤断とを告発する『弁護者』を送るであろう」という言葉について。──告発の一つは継続することについて。

 世に対する告発に三つある。第一は、聖霊が弟子たちの上に降ったときおこなわれた。すでに話したように、かれらは、わたしの力によって強められ、わたしの最愛の「子」の英知によって照らされ、すべてを聖霊の充ち満てるなかで授かった。そのとき、わたしと「子」と「一つ」である聖霊は、使徒たちの口により、わたしの「真理」の教えをもつて、世を告発した。世を告発するのはかれらであり、かれらから発するすべての人々、すなわら、かれらの教えによって受けた真理に従う人々である。
 これが、聖書とわたしのしもべたちとによって、わたしが絶え間なくおこなう告発である。わたしは、かれらがわたしの「真理」を告げ知らせるとき、かれらの舌の上に聖霊を置く。ちょうど、悪魔が、そのしもべたち、すなわち、悪の河を通る人々の舌の上に座るように。
 この告発は、絶え間なくおこなわれるが、優しい。わたしが霊魂の救いに対して抱いているきわめて大きい愛のためである。だれも、「わたしをとがめる者は一人もいない」と言うことができない。なぜなら、わたしはすべての人に「真理」を示し、すべての人に、どこに悪徳があり、どこに善徳があるかを教えたからである。わたしは、かれらに善悪の実と悪徳の有害な結果とをしめした。それは、かれらに、聖なる愛、聖なる恐れ、悪徳に対する憎しみと善徳に対する愛を、鼓吹するためであった。この「真理」の教えを、天使によってかれらに授けたのではなかった。それゆえ、かれらはつぎのように言うことはできない。「天使は至福な精神だ。罪を犯すことができないし、わたしたちのように肉の欲望を感じない。わたしたちの肉体の重荷を負ってはいない」。わたしはかれらにこのような言いわけの余地を与えなかった。なぜなら、この教えを、わたしの「真理」によって、あなたがたの死すべき肉のなかに託身したわたしの「言葉」によって、与えたからである。
 それに、この「言葉」に従った他の人々は、どういう人々であろうか。あなたがたのように死すべき被造物、あなたがたのように苦しむことができ、あなたがたのように肉と霊との戦いを身をもって体験する被造物である。それはわたしの先ぶれである栄光にかがやくパウロであり、他のおびただしい聖者である。かれらはみなそれぞれの道で、受難者だったのである。わたしは、この受難を許したし、また、許しつづける。それは、霊魂における恩寵の成長と善徳の進歩とのためである。聖人たちは、あなたがたのように罪から生まれたのである。あなたがたと同じ食物によって養われたのである。それに、「わたし」は、今も昔と同じ神ではないだろうか。わたしの力は衰えなかったし、衰えることはないであろう。わたしはいつも、わたしに助けを求める者を助けることができ、助けたいと望み、助ける方法を知っている。ところで、人間は、わたしの「真理」の教えに従って、河を去り、橋を渡るとき、わたしの助けを求めるのである。
 だから、人間は弁解することができない。なぜなら、わたしの告発は止むことがないし、わたしは絶えず真理を示しているからである。まだ時がある間に改悛しないならば、死の最後の瞬間に、わたしがかれらに向かって放つ第二の告発において、断罪されるであろう。そのとき、わたしの正義は叫ぶであろう。「死者よ、起きよ、審判を受けよ」と。これは次のような意味である。恩寵の生命に死に、肉体の生命に死のうとする者よ、起きて、至高の「審判者」の前に、おまえの不義、誤断、信仰の消えた光明をもって、出頭せよ。おまえは、聖い洗礼において、この点火された光明を授かったのに、傲慢と心の虚栄との風によって、これを吹き消したのだ。おまえは、心を帆のように張って、おまえの救いに反対するあらゆる風を受けたのだ。おまえは、自愛心の帆を名声欲の風に大きく広げ、我意とともに快楽と世の栄誉との河を下り、はかない肉に、そしてまた悪魔のわなと誘惑とに、進んで身を委ねたのだ。悪魔は、おまえの我意の帆を利用し、下の道を通って、おまえを止まることのない急流にみちびき、自分といっしょに永遠の亡びに引きずり込んだのだ。

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