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5.亡びの道

第39章

審判の日に下される第三の告発について。

 これから、審判の最後の日におこなわれる第三の告発について話さなければならない。すでに、はじめの二つの告発について話したが、人間がどれほど間違っているかをよく示すために、これから、第三の告発について説明したい。公審判がこれである。このとき、あわれな霊魂は、その肉体と一致する。そのため苦しみがあらたにされ、増大する。しかも、堪えがたい断罪が下されて、恥辱に圧倒される。
 わたしの「子」、「言葉」が、神的な権力をもって世を告発するために、神的な尊厳を帯びて来臨するときは、家畜小屋のなかで、動物のあいだに、「乙女」の胎内から生まれたとき、あるいは、二人の盗賊のあいだに死去したときのように、みじめな貧者として出現することはないことを知ってほしい。
 そのとき、「わたし」は、かれのなかにあったわたしの力をかくし、かれが人間として苦しみと責苦とを堪え忍ぶのを放置した。わたしの神としての本性が人間の本性から分離されたわけではない。しかし、かれが、あなたがたの過失を償うために、人間として苦しむのを放置したのである。
 この最後の瞬間、かれはこのような姿で出現することはない。世を裁くために、かれ自身の位格において、権力を帯びて、来臨するであろう。恐怖におののかない者はないであろう。そして、各人は当然受けるべきものを受けるであろう (6)
 断罪されたみじめな人々は、かれを見ただけで、言葉で表現できないほどの苦悶と恐怖とにおそわれるであろう。義人たちは畏敬と大きな喜びとを抱くであろう。かれの顔は変わらないであろう。なぜなら、かれは不変だからである。その神性によってわたしと同一であるから不変である。また、復活の栄光を帯びてからは、その人性においても不変である。しかし、断罪された者の目には恐るべきものに見えるであろう。なぜなら、かれらは自分自身のなかに抱いている恐怖と暗黒との目をもって、かれを見るからである。
 病気の目には、かがやかしい太陽も暗くしか見えない。これに反して、健康な目には明るく見える。光に欠陥があるから、太陽が変わるから、見えない者と見える者とのちがいがあるのではない。目自体が病気だから、光が欠けるのである。このように、断罪された人々は、わたしの「子」を暗黒のなかで、恥辱のなかで、憎しみのなかで見るにちがいない。それは、かれが世を裁くために出現するとき帯びるわたしの神的「尊厳」の欠陥によるのではなく、かれら自身の欠陥によるのである。

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