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5.亡びの道

第42章

公審判後、地獄に落ちた者たちの苦しみは増大することについて。

 わたしが義人たちの栄福について語ったのは、地獄に落ちた者たちのみじめさを、もっとよく知ってほしいからである。かれらにとって、義人たちの至福を見るのは、別の苦しみである。かれらの苦しみは、これを見ることによって増大する。善人たちがわたしのいつくしみについて抱く喜びが、地獄に落ちた者たちの罰によって増し加わるのと同じである。光明は暗黒によってもっとよく知ることができるし、暗黒は光明によってもっとよく知ることができる。地獄に落ちた者たちにとって、至福者たちを見るのは、苦しみである。かれらは、審判の最後の日を、苦しみのなかで待っている。なぜなら、。その結果、苦しみが増大するのを知っているからである。
 事実、「死者よ、起きよ、審判に来たれ」という恐るべき声が聞こえるとき、霊魂はふたたび肉体といっしょになるであろう。義人たちの場合は、これに栄光を与えるために。地獄に落ちた者たちの場合は、これに永遠の責苦を受けさせるために。そして、後者の場合、わたしの「真理」とすべての至福者とを見るとき、大きな恥辱と苛責とを感じるであろう。そのとき、良心の虫が、木の髄すなわち霊魂とその外皮すなわち肉体とを、喰い荒らすであろう。
 かれらのために流された「血」、わたしの「子」によってかれらのために成し遂げられたわたしの霊的・地上的あわれみの業、聖福音にしるされている隣人に対するかれら自身の義務 (9) が、かれらを告発するであろう。わたしからあわれみを受けていながら、隣人に対して残酷であったことを認めるであろうし、傲慢、自愛心、淫乱、貪欲であったことを認めるであろう。これらすべては、かれらを絶えずあらたに問責するであろう。
 死の瞬間においては、霊魂はひとりでこれを受けた。しかし、公審判においては、霊魂と肉体とがいっしょにこれを受けるであろう。なぜなら、肉体は霊魂の伴侶であり、道具であって、各人の意志の好むところにしたがって、善も悪もいっしょにおこなったからである。善業も悪業もみな、肉体を介しておこなわれたのである。
 いとしいむすめよ、選ばれた人々が、栄光と終わることのない幸福とを、栄光を帯びた肉体といっしょに受けるのは、両者がいっしょにわたしのために堪え忍んだ労苦にむくいるためであって、正しいことである。同じように、悪人の肉体はその永遠の苦しみを分かつであろう。悪の道具であったからである。
 それゆえ、わたしの「子」のまえに、その肉体といっしょに出るとき、かれらの苦しみはあらたにされ、増大するのである。かれらのみじめな官能と淫乱とは、その人性をわたしの清浄な神性と一致したキリストの人性のなかに見るとき、どれほど問責されることであろうか。かれらは、このアダムのかたまり、すなわちあなたがたの本性が、天使たちのすべての歌隊の上にあげられているのを見るであろう。これに反して、かれらはその過失によって、地獄の底に落とされているのである。
 かれらは、至福者たちが「子羊」の血の実を受けるとき、寛仁と慈愛とがかれらのなかに輝いているのを見るであろう。かれらは、至福者たちが堪え忍ばなければならなかったすべての労苦が、衣服にほどこされた刺繍のように、肉体の飾りになっているのを見るであろう。それは肉体固有の徳によるものではなく、霊魂がその充満を肉体に通じ与えて、その労苦のむくいをこれに反映させているのである。なぜなら、肉体は善徳の実行において、その伴侶だったからである。人間の顔が外面に反射し、鏡にうつるように、労苦の実が、すでに話した方法で、体に反射しているのである。
 暗黒な存在たちは、かれらが失ったこれほどの栄福を見、それと同時に、罰によって拷問を受けたその体に、かれらが犯した悪業のしるしがあらわれるのを見るとき、その苦しみと恥辱とが増大するのを感じるであろう。そして、「呪われた者どもよ、永遠の火に入れ」(10) という恐ろしい言葉を聞くと、霊魂は肉体といっしょに立ち去り、希望のなぐさめを完全に失って、悪魔の仲間になるのである。かれらは、犯した悪業の種類と程度とに応じて、各自それぞれの方法で、地のあらゆる悪臭に包まれるであろう。食欲な者は、その貪欲の悪臭に包まれ、みだりに愛したこの世の事物といっしょに、火で焼かれるであろう。残酷な者は残酷さといっしょに、淫乱な者はそのけがらわしく恥ずかしい邪欲といっしょに、不義な者はその不義といっしょに、ねたみ深い者はそのねたみといっしょに、隣人に対して憎しみや恨みを抱いている者は憎しみといっしょに、火で焼かれるであろう。かれらのすべての悪を生んだみだらな自愛心は焼かれ、堪えがたい苦しみをもたらすであろう。これこそ、傲慢とともにすべての悪のかしらであり、みなもとだからである。このようにして、みなが霊肉ともに、それぞれの方法で、罰せられるであろう。
 河を通り、下の道を歩き、自分たちの過失を認めてあわれみを哀願するために引きかえそうとしない人々のみじめな終末は、以上述べたとおりである。こうして、かれらはいつわりの門に達する。なぜなら、いつわりの父である悪魔の教えに従うからである。すでに話したように、悪魔自身、門であって、かれらはこれを通って永遠の亡びに入るのである。
 これに反して、わたしの子供である選ばれた人々は、上の道、橋の道を通る。かれらは「真理」の道を歩く。この「真理」自体、「門」である。それゆえ、わたしの「真理」は、「だれも、わたしによらないでは、わたしの『父』のもとに行くことができない」と言ったのである (11) 。かれは門であり、道である。平和の大洋であるわたしのなかに入るには、これを通らなければならない。
 これに反して、いつわりに従った人々には、死の水が与えられる。悪魔はかれらをそれに呼び招く。ところが、盲目でおろかなかれらはそれに気付かない。信仰の光明を失っているからである。悪魔はかれらにつぎのように言っているように思われる。「死の水に渇いている者はわたしのもとに来るがよい。飲ませてやろう」(12)

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