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5.亡びの道

第43章

誘惑が有益であることについて。──霊魂は最後の瞬間自分に予定された栄光あるいは苦罰を見ることについて。

 いとしいむすめよ、悪魔は、みじめにもわたしを侮辱した霊魂たちを拷問するために、わたしの正義の執行人となった。この世において、わたしは、悪魔を、わたしの被造物を誘惑し、挑発する立場に立たせた。それは、わたしの被造物を敗北させるためではなく、むしろ、これに勝利を占めさせ、善徳の証しを立てさせたのち、勝利の栄光を与えるためである。だれも、いかなる戦いも、起こりうる悪魔のいかなる誘惑も、恐れてはならない。なぜなら、わたしはみなを強者となし、かれらに勇敢な意志を与え、これをわたしの「子」の血のなかで強めたからである。この意志は、悪魔も、被造物も、ゆるがすことができない。それはあなたがたのものである。わたしはこれを自由意志といっしょにあなたがたに与えたのである。
 それゆえ、あなたがたは、自由意志によって、これを引き止めるか、放すか、望み通りにすることができる。意志は、あなたがたが悪魔の手にわたす武器となり、悪魔がこれを使ってあなたがたを打ち、あなたがたを殺す刀となる。しかし、人間がこの意志の刀を悪魔にわたさないならば、すなわち、その誘惑と挑発とに同意しないならば、いかなる誘惑もこれを傷つけ、これに罪を犯させることはできない。むしろこれを強める。なぜなら、その知性の目を開いてわたしの仁愛を見つめさせ、わたしがあなたがたが誘惑されるのを許すのは、仁愛によるのであり、あなたがたに善徳を愛させ、これを証明させるためであることを、理解させるからである。
 自分自身を認識し、わたしを認識してはじめて、善徳を愛するようになるものである。ところで、この認識は、とくに誘惑のとき、もっと完全に獲得することができる。そのとき、人間は自分が存在そのものでないために、避けたいと願っている苦しみや困惑を払い去ることができないことを認識する。そのうえ、自分の意志のなかで、「わたし」を認識する。なぜなら、わたしのいつくしみがかれの意志を強めて、このような考えに同意させないことをさとるし、このようにはからうのは、わたしの仁愛であることをさとるからである。悪魔は弱く、自分自身ではなにもすることができない。わたしの許すことをするだけである。ところで、あなたがたが誘惑されるのをわたしが許すのは、愛によるのであって、憎しみによるのでなく、あなたがたの勝利のためであって、あなたがたの敗北のためではない。それは、あなたがたを自分自身とわたしとの完全な認識に到達させるためであり、あなたがたの善徳が証明されるためである。しかし、この善徳は、その反対によってしか証明されない。
 以上話したことによって分かるように、悪魔は、地獄に落とされた者を拷問することにより、現世では霊魂に善徳を修業させ、証明させることによって、わたしに奉仕する。悪魔の意向があなたがたに善徳を証明させることにあると言うのではない。なぜなら、悪魔は仁愛をもたないし、あなたがたにこれを失わせることしか望まないからである。しかし、あなたがたがこれを望まないならば、悪魔はこれをなすことができない。
 人間はいかにもおろかではないだろうか。「わたし」はかれを強い者にしたのに、自分から悪魔の手に身をゆだねるのである。それゆえ、生涯のあいだ悪魔の支配下にはいっていた人々が、死の瞬間にどういうことになるかを、知ってほしい。すでに話したように、かれらが悪魔の手に身をゆだね、死が近づくまで、この奴隷状態の恥ずべきくびきを負ったのは、自分たちの意志によるのであって、強制によるのではない。なぜなら、すでに話したように、だれもこれを強制することができないからである。この死の瞬間には、他からの裁きを待つ必要はない。かれらの良心がかれら自身の裁判官である。かれらは絶望者として、永遠の苦罰に身を投ずる。死の門口で、地獄にはいる前に、憎しみによってこれにしがみつく。そして、地獄を所有する前に、この報いを、その主人である悪魔といっしょに、手にするのである。
 仁愛のなかに生き、愛のなかで死ぬ義人についても、同じことを言うことができる。もしも、かれらが信仰の光明に照らされ、信仰の目をもち、「子羊」の血のなかで絶対的希望に支えられ、善徳のなかで生きたのであれば、生命の終わりに達するとき、かれらのために準備された幸福を見、これを愛の腕に抱くであろう。この死の最後のとき、至高かつ永遠の「善」である「わたし」を、しっかとその愛の腕に抱きしめるであろう。こうしてかれらは、その死体を残す前に、霊魂が肉体から離れる前に、永遠の生命を味わうのである。
 高い完徳に達することができず、普通の仁愛をもって生活し、最後の瞬間に達するその他の人々は、完全な人々と同じょうに、しかしもっと不完全な程度に、信仰と希望との光明をもって、わたしのあわれみの腕に身をゆだねる。かれらは、不完全であるために、わたしのあわれみはかれらの過失よりも大きいと考えて、これに身をゆだねるのである。
 邪悪な罪人たちは、これとはまったく反対である。かれらに予定されている場所を見ると、すでに話したように、絶望に満たされ、憎しみをもってこれを抱きしめる。要するに、どちらも、審判を待たない。それぞれ、この世を終わるとき、これまで話したように、その場所を与えられる。死の瞬間、肉体を離れる前に、その運命を味わい、これを所有する。地獄に落ちる者は憎しみと絶望とによって。完全な者は愛と信仰の光明と「血」における希望とによって。そして、不完全な者は、あわれみにより、同じ信仰を抱いて、煉獄にはいるのである。

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