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6.生命の道

第45章

いばらによって傷つくことのない人々について。

 これから、罪によってこの地上に生ずるいばらや艱難に傷つく人々と、これに傷つくことのない人々とを示したい。これまで、わたしの「いつくしみ」と悪人の亡びとについて語り、かれらがその官能によってどのようにだまされているかを示した。これから、かれらだけがいばらに傷つくことについて話したい。
 この世に生まれる者はみな、肉体的な苦労、あるいは精神的な苦労をまぬがれることができない。わたしのしもべたちは、肉体的苦労を負っている。しかし、かれらの精神は自由である。すなわち、その苦労を苦労と思わない。なぜなら、かれらの意志はわたしの意志と一致しているからであり、人間はその意志において苦しむものだからである。これに反して、さきに話した人々は、肉体においても精神においても苦しむ。かれらは、わたしのしもべたちが永遠の生命の前味わいをおこなっているのに対して、地獄の前味わいをおこなっているのである。
 あなたは、至福者たちの福楽は、主としてなにに成り立つかを知っているであろうか。それは、かれらの意志が、望むものによって満たされていることである。かれらは「わたし」を望んでいる。しかし、わたしを望むと同時にわたしを所有している。かれらは、なんのさまたげもなく、わたしを味わっている。なぜなら、精神に反抗するのを建て前としている肉体の重力を脱しているからである。肉体は仲介者として真理を完全に認識させてはくれなかった。かれらは、肉体のとりことなっているので、わたしをまともに見ることができなかった。
 しかし、霊魂が肉体の重荷に邪魔されなくなると、その意志は満たされる。わたしを見たいと望み、わたしを見る。わたしを見ることが、あなたがたの至福である。霊魂は、見ることによって認識する。認識することによって愛する。愛することによって、至高かつ永遠の神である「わたし」を味わう。わたしを味わうことによって、その意志、すなわち、わたしを見、わたしを認識したいという望みが、満たされ、成就する。つまり、望むとともに所有し、所有するとともに望む。そのため、さきに話したように、この望みには苦しみはなく、この満足には倦怠がない (1)
 要するに、わたしのしもべたちの至福は、主として、わたしを注視し、わたしを認識することにある。この注視と認識とによって、意志は満たされる。霊魂は見たいと望んでいた者を見る。それで、満たされる。すでに話したように、永遠の生命を味わうとは、なによりも先ず、意志の望むものを所有することである。しかし、永遠の生命とは、「わたし」を見ること、「わたし」を認識することであることを、知らなければならない (2) 。それはすでに話したとおりである。それゆえ、かれらは、もしも他日満喫する幸福を現世から味わうならば、永遠の生命の前味わいをおこなうことになるのである。
 しかし、現世において、この前味わいはなにに成り立つであろうか。つぎのように答えたい。それは、かれらに対するわたしの「いつくしみ」を見ること、わたしの「真理」を認識することに成り立つ。そして、この認識は、わたしによって照らされた霊魂の目である知性による認識である (3) 。この目のひとみは、至聖なる「信仰」である。その光明は、受肉した「言葉」、わたしの「真理」の道と教えとを識別させ、認識させ、これに従わせる。この「信仰」のひとみがなければ、霊魂は見ることができないであろう。目はもっているけれども、その目が見るために必要なひとみが、膜におおわれている人に似ている。知性は霊魂の目であり、この目のひとみは「信仰」である。利己的な愛が不忠実の膜でこれをおおうならば、見ることができない。目の形はしている。しかし、光明をもたない。自分でこれを取り去ったからである。
 わたしのしもべたちは、わたしを見ることによってわたしを認識し、わたしを認識することによってわたしを愛し、わたしを愛することによってかれらの我意を滅ばし、放棄する。かれらは、その意志を脱ぎ棄てることによって、わたしの意志を着ける。ところで、わたしはあなたがたの成聖しか望まない。
 それゆえ、かれらはただちに下の道から引き返して橋をのぼりはじめ、いばらを踏み越えて行く。なぜなら、かれらの足はわたしの意志に対する愛によって支えられているので、痛みを感じないからである。すでに話したように、かれらが苦しむのは肉体によるのであって精神によるのではない。なぜなら、被造物の精神を苦しみ悩ますのは感性的な意志であるが、かれらにおいては、これが死滅しているからである。この意志が除かれているので、苦しみもまた除かれている。それで、かれらは、なにごとが起こっても、敬意をもって、わたしから試されるのを恩寵と考えて、これを堪えしのび、わたしが欲すること以外にはなにも望まない。
 わたしが悪魔に、誘惑によってかれらの善徳を試すことを許し、悪魔がかれらを悩ます場合、かれらは、すでに話したように、わたしのなかに確立している意志によって、この攻撃に対抗する。そして、謙遜して、自分を精神の平和と休息とを所有する資格がない者と見なし、この悩みはみずから招いたものであると考えて、自分自身について抱いている認識を生かし、悲歎を感じることなく、喜びをもってこれを乗り越えて行く。
 人間的な試練についてはどうであろうか。あるいは病気、あるいは貧困、あるいは世間でついていた地位の喪失、あるいは、特別に愛していた子供や他の被造物との別離、これらすベては、罪以来、地が生ずるいばらであるが、かれらは、これを理性と聖なる信仰との光明をもって、受諾する。かれらは、至高の「善」であり、「善」以外にはなにも欲しない「わたし」だけを注視する。それゆえ、わたしがこれらの試練をかれらに送るのは、かれらのためであり、愛によるのであって、憎しみによるのではないことを知っている。
 このように、わたしの愛を意識したのち、自分自身を注視して、自分の過失を認め、「信仰」の光明に照らして、善は報いられ、罪は罰せられなければならないことをさとる。どんなに小さい罪も、無限な神であるわたしに対して犯されたのであるから、無限の苦罰を受けるべきであることを理解する。わたしが、この世で、限りある時間において、かれらを罰したいと思うのは、ひとつの恩寵であると考える。このようにして心の痛悔によってその罪から清められると同時に、その完全な忍耐によって功徳を獲得するし、その労苦は無限の「善」によって報いられるのである。
 かれらはまた、この世のあらゆる苦しみは、時間と同じように、短いことを知っている。時間は竿秤の一つの目盛りであって、それ以上のものではない。時間が過ぎれば労苦も終わる。それがわずかのものであることは、理解できるであろう。わたしのしもべたちは、現在のいばらを忍耐して受諾し、これを踏み越える。いばらによって心を傷つけられることがない。かれらの心は、感性的な愛といっしょにわたしのなかに移され、愛の情念によってわたしと一致している。
 それゆえ、かれらがこの世からすでに永遠の生命の前味わいにあずかっているというのはきわめて真実である。かれらは、すでに話したように、水の中をこれにぬれないで通り、いばらの上をこれに傷つけられないで越えて行く。そのわけは、わたしを至高の「善」と認めたからであり、これをその存在するところ、すなわち、わたしの「ひとり子」、「言葉」のなかに探し求めたからである。

the sensitive will

愛の情念= the affection of love

for they have left the burden of the body, which was alaw that opposedthe spirit, and came between it and the perfect knowledge of the Truth,preventing it from seeing Me face to face.

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