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6.生命の道

第46章

知性の失明から生ずる悪について。──善は恩寵の状態で実行しなければ永遠の生命にとって無益であることについて。

 これまで話したことは、悪人が地獄の前味わいをおこなっていること、その錯誤がいかにも大きいことを、もっとよく理解させるためであった。これから、かれらの迷いはどこから生まれるか、地獄の前味わいはどのようにおこなわれるかについて話したい。それは、かれらの知性の目が、自愛心のむすめである不忠実によって盲目になっているからである。すべての真理が信仰の光明によって獲得されるように、虚偽と錯誤とは不忠実によって獲得される。わたしが言っているのは、聖なる洗礼を授かった人々の不忠実のことである。この洗礼において、知性の目に信仰のひとみが与えられた。分別の年齢に達したとき、善徳を修業するならば、信仰の光明を保ち、生き生きとした善徳を産み、その実を隣人に施すことができる。元気な子供を産んだ妻が、この子供を元気なまま夫に与えるように、かれらも、その生き生きとした善徳を、霊魂の夫である「わたし」に与えるのである。
 ところが、このみじめな人々は、反対のことをなすのである。かれらは、理性の年齢に達したとき、信仰の光明を活用し、恩寵の生命によって善徳を産まなければならないのに、かえって死を産む。死を産むというのは、かれらの業はみな、大罪のなかで、信仰の光明がないままに、おこなわれるので死んでいるからである。かれらは聖なる洗礼の形は保っている。しかし、その光明を失っている。自愛心によって犯した罪の雲によってこれを奪われている。自愛心がひとみを覆って見えなくしているのである。
 信仰は保っているが業をもたない人々について、その信仰は死んでいる (4) と言うのはそのためである。死者は見ることができない。これと同じく、さきに言ったように、ひとみが覆われている知性の目は、もう見ることができない。自分自身を認識することができず、犯した過失を認識することができず、かれのなかにあるわたしの「いつくしみ」、かれに存在を与えた「いつくしみ」を認識することができず、わたしが潤沢に与えた恩寵を認識することができない。
 わたしを認識せず、自分自身を認識しないから、自分のなかにある利己的な官能を憎まず、かえってこれを愛し、その欲望を満たすよう努力し、大罪という死産児を産む。わたしに対しては、わたしを愛さない。わたしを愛さないから、わたしが愛する者、すなわち隣人を愛さない。そして、わたしの好むことを実行して喜ぶということがない。わたしがあなたがたのなかに見るのを喜ぶまことの現実な善徳は以上の通りである。それはわたし自身の利益のためではない。なぜなら、わたしの役に立つものはないからである。わたしは存在そのものである (5) 。わたしなくしては、なにものも造られなかった。罪を除いては。罪はなにのでもないが、霊魂から恩寵を奪うことによって、絶対の善であるわたしを奪う。それで、善業がわたしにとって心地よいのは、あなたがたの利益のためである。なぜなら、これによって、終わりなき生命である「わたし」のなかに、報いを受けることができるからである。
 これに反して、かれらの場合、業がないのであるから、信仰が死滅していることは、あきらかである。かれらがおこなう業は、永遠の生命のためには価値がない。なぜなら、かれらは恩寵の生命を所有していないからである。しかしながら、恩寵を所有していても、恩寵を所有していなくても、業をなすのを止めてはならない。なぜなら、すべての善は報いられ、すべての悪は罰せられるからである。恩寵のなかで、大罪をもたないでおこなった善には、永遠の生命が与えられる。しかし、大罪をもっておこなった善には、永遠の生命は与えられない。それにもかかわらず、すでに話したように、種々の方法で報いが与えられる。
 あるときは、かれらに自分自身を認識する時間を与える。あるいは、かれらのために、わたしのしもべたちに、かれらを罪から引き出し、かれらのみじめさから救い出すよう、絶え間なく祈らせる。あるときは、かれらに時間を与えたり、わたしのしもべたちに恩寵にみちびく祈りをおこなわせたりすることはないが、現世的善によって報い、屠殺場に連れて行くためにふとらせる動物のようにあしらう。この人々は、いつも、さまざまの方法で、わたしの「いつくしみ」に抵抗したけれども、また、恩寵の状態にではなく、罪の状態にありながらも、なにかの善をおこなう。かれらは、この業のために、時間も祈りも、わたしがかれらを呼ぶために用いた手段も、利用しようとはしなかった。しかしながら、わたしはかれらをその過失のために見放したけれども、わたしの「いつくしみ」は、この業に報いを与えないで放置しようとは思わない。かれらがおこなったこのわずかの奉仕を地上の善によって報いる。かれらは、それによって自分の身をふとらせ、悔い改めることなく、永遠の苦罰におもむくのである。
 かれらが錯誤におちいっていることが、わかるであろう。それでは、だれがかれらを錯誤におちいらせたのであろうか。かれら自身である。生ける信仰の光明を棄てたのはかれらだからである。そののち、かれらは、盲人のように、手にふれるものを撫でまわし、これに執着しながら歩いて行く。しかし、失明した目しかもたないから、その愛情を過ぎ去るものに向ける。これがかれらの錯誤である。かれらは黄金だけを見て毒を見ないおろかな人のように行動する。つまり、かれらは、この世のすべてのたから、その喜び、その楽しみを、わたしの外で、利己的でみだらな愛によって、補え、獲得し、所有したのである。わたしが、あなたの初期に、木のたとえののち、あなたに語ったさそりの話 (6) にそっくりである。そのとき、わたしは、さそりは黄金を前に毒をうしろにもっていると言った。そのなかには、黄金をともなわない毒はなく、毒をともなわない黄金はない。しかし、最初に見えるのは黄金である。信仰の光明に照らされている者を除き、毒を防ごうと思う者はいない。

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