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6.生命の道

第49章

奴隷的な恐れによっては永遠の生命を獲得することができないことについて。この恐れから善徳に対する愛に達するにはどうすればよいかについて。

 これからあなたに話したいのは、つぎのことである。わたしがこの世の艱難を送るのは、霊魂に、その目的はこの世にはないこと、地上の事物は不完全で流転すること、「わたし」だけがその目的であること、それゆえ、わたしを自分の目的として望み、選択しなければならないことを、認識させるためである。ある者は、この世の艱難の刺激を感じて、その凌いでいる苦しみにより、そしてまた、その罪の結果として加えられる苦しみを思いうかべることによって、その雲を払いはじめる。
 かれらは、この奴隷的な恐れによって、河を脱出しはじめ、黄金の顔をしたさそりが注入した毒を吐きはじめる。かれらは、節度をもってこれを愛したのではなく、節度を失って愛したために、その毒を注入されたのである。かれらはこれを意識し、立ちあがって河岸に向かい、橋に達しようと努力する。
 しかし、奴隷的な恐れだけによっては、そこにたどりつくことができない。事実、その住居から大罪を掃き出しても、これを、恐れの上にではなく愛の上にきずいた善徳によって、飾らないならば、永遠の生命を獲得するには十分ではない。橋の第一段に、両足で、すなわち、愛情と望みとによって、立たなければならない。この両足こそ、あなたがたのために橋を造ったわたしの「真理」に対する愛に、霊魂を運ぶのである。
 これは第一の階段である。「わたし」は、わたしの「子」がその体をもって階段を造ったことを説明したとき、これに昇るにはどうしたらよいかについて述べた。一般的な原則として、世俗のしもべたちが最初に立ちあがるのは、通常、罰を恐れるからである。これはいかにも真実である。この世の艱難は、しばしば、かれら自身にとって重荷である。そのため、かれらは世から脱出しはじめる。もしも、この恐れを信仰の光明に従わせるならば、善徳に対する愛にみちびかれるにちがいない。
 しかし、いかにものろのろ歩き、しばしば河に戻る者がある。かれらは河岸にたどりついたかと思うと、逆風が吹きはじめ、この暗い生命の嵐の海にもてあそばれる。
 あるときは、その怠慢のために、第一の階段を善徳に対する感情と愛とによって昇るまえに、繁栄の風が吹くことがある。そうなると、かれらはうしろを振り返り、この世の快楽に対するみだらな愛にとらえられる。
 またあるときは、艱難の嵐が吹くことがある。そうなると、不忍耐によって河岸から遠ざかる。それというのも、かれらが嫌って、避けたいと思っているのは、犯した罪でも、わたしに加えた侮辱でもなく、罪の結果受ける罰に対する恐れであって、この恐れがかれらを嘔吐から立ちあがらせたにすぎないからである。
 しかし、善徳に関しては、なにごとにおいても必要なのは、堅忍である。堅忍がなければ望みを達成することができないし、追究しはじめた目的に到達することができない。それゆえ、望みを実現したいと思うならば、堅忍が必要である。
 すでに話したように、この人々は、さまざまの刺激を受けて、それにもてあそばれる。あるときは、かれら自身のなかで、利己的な官能が精神に反抗する。あるときは、被造物の魅力に引きずられ、みだらな愛によって、わたしから遠ざかる。あるときは、被造物から侮辱されて忍耐を失う。あるときは、悪魔が多種多様な戦いをいどむ。悪魔は、あるときは失望によってかれらを混乱させようとして、「おまえの罪、おまえの過失にくらべるならば、おまえが企てた善なんか、なんの価値があろうか」と話しかける。悪魔がそのようなことをするのは、これを連れもどし、実行しはじめたわずかの善を放棄させるためである。またあるときは、悪魔は、かれらがわたしのあわれみのなかに見出した希望に、安心して身を委ねさせ.ようとして、「なんだってそんなに苦労するのか。この世の生活をたのしむがよい。最後のとき、過失を認めてあわれみを求めればよいではないか」とささやく。悪魔は、このような方法で、かれらが抱きはじめた恐れを失わせるのである。
 かれらは、このような理由により、またその他の多くの理由によって、逆戻りする。恒常心を欠き、堅忍することができない。それというのも、自愛心の根が完全に取り除かれていないからである。そのため堅忍することができないのである。かれらは、潜越にもわたしのあわれみに身をまかせ、これに希望する。しかし、それはいわれのないことであり、無知の結果である。かれらは、わたしのあわれみに対する僭越な希望を抱きながら、わたしを侮辱しつづける。
 わたしは、わたしのあわれみを、わたしを侮辱させるために与えたことはなく、また与えることはない。それによって、悪魔の好計と精神のみだらな迷いとを防がせるために与えるのである。しかし、かれらは、まったく反対なことをおこなう。かれらはわたしのあわれみを武器にしてわたしに背く。それというのも、かれらがおこなった最初の一歩を押し進め、罰に対する恐れと多くの艱難のいばらの刺激とによって、大罪の悲惨からのがれるよう努力しなかったからである。第一歩で満足したために、善徳に対する愛を抱くことができず、堅忍することができなかったのである。
 霊魂はこのように立ちどまってはならない。前に進まなければ、うしろに戻る。さきの人々は、善徳を押し進め、恐れの不完全さを乗り越えて愛に達しようとしなかった。それで、逆戻りせざるをえなかったのである。

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