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6.生命の道

第51章

橋すなわち神の「子」のなかにある三つの階段は霊魂の三つの能力を象徴することについて。

 すると、神の「いつくしみ」は、この霊魂の望みと飢えとの上にあわれみのまなこを注ぎ、つぎのように言われた。
 ──いとしいむすめよ、わたしはあなたの望みをさげすむことはしない。むしろ、あなたの聖なる望みをかなえてやりたいと思う。それで、あなたの願ったことについて説明したい。
 あなたは、三つの階段の隠喩について、そしてまた、どのように河を脱出して橋に昇ることができるかについて、説明するよう求めた。わたしはさきに、この世から地獄の前味わいをおこない、悪魔のなぶりものとなり、最後は永遠の亡びにおちいる人々のあやまりと盲目とを描写した。かれらがその悪業からどのような実を獲得するかについても述べた。これらの話のなかで、わたしは、このような不幸を避けるためには、どのように対処しなければならないかを示した。しかし、あなたの望みを満足させるために、あらためて、くわしく、これを説明したい。
 あなたも知るように、すべての悪の土台は、自分自身に対する利己的な愛である。この愛は雲のように理性の光明をおおいかくし、理性のなかにある信仰の光明を消し去る。しかも、一方を消し去るときは必ず他方も消し去る。
 わたしは、霊魂をわたしの似姿として創造し、これに記憶、知性、意志を与えた。知性は霊魂のもっとも気高い部分である。知性は情念によって動かされる。しかし、情念は知性によってやしなわれる。そして、愛の手、すなわち情念は、「わたし」の追憶とわたしの恩恵とによって、記憶を満たす。この追憶は注意を促し、なおざりを避けさせるし、感謝を抱かせ、忘恩におちいらせない。このように、一つの能力は他の能力を助けて、霊魂を恩寵の生命のなかに育てる。
 霊魂は愛なくして生きることができない。いつもなにかを愛したいと望んでいる。なぜなら、霊魂は愛でできており、わたしはこれを愛によって造ったからである。それゆえ、わたしはあなたに、意志は知性を動かすと言ったのである。情念は知性に「わたしは愛したい。わたしの食物は愛だから」と言っているようである。すると、情念によって目を覚まされた知性は立ちあがり、「愛したいと言うのか。それでは愛することのできるものを与えよう」と答えているようである。そして、時を移さず、活動をはじめ、霊魂の尊厳と罪のために落ちこんだみじめさとについて考える。その存在の尊厳を考えて、わたしのはかり知れない「いつくしみ」と霊魂を創造したつくられざる「仁愛」とを味わい、自分のみじめさを考えて、わたしのあわれみを見出し、味わうのである。事実、霊魂に時を与え、これを暗黒から救い出したのは、わたしのあわれみではないだろうか。
 そうなると、情念は愛にやしなわれる。聖なる望みの口を開き、利己的な官能に対する憎しみと悔みとを、この聖なる憎しみの実であるまことの謙遜と完全な忍耐との油によって調理して食べる。霊魂は善徳を宿し、のちに話すように、完徳を修めた程度に応じて、あるいは完全に、あるいは不完全に、善業を出産する。
 これに反して、感覚的な情念が感覚的なものごとにひかれてこれを愛したくなると、知性の目はこれにひかれて朽ち去るものごとを対象となし、自愛心をつのらせ、善徳を憎み、悪徳を好むようになる。その結果生まれるのは、傲慢と不忍耐である。記憶は情念が提供するものによってしか満たされない。愛は目をくらます。そのため、目はものごとをおぼろげにしか見分けること、見ることができない。そして、知性はすべてのものごとをおぼろげに見、情念は善と快楽とをおぼろげにしか愛さないのである。
 このおぼろげな外見にあざむかれないならば、害を受けることはないであろう。なぜなら、人間はその本性からして善以外のものを望むことができないからである。ところが、悪徳は個人的な善の色で色どられている。そして、この外見を霊魂に示す。目は失明しているので、見分けることができず、真理を認識することができず、あやまって、善とたのしみとを、存在しないところに探す。
 すでに話したように、わたしを除外した世俗のたのしみは、有毒ないばらでしかない。要するに、知性はその見るところにおいてあざむかれ、意志はその愛することろにおいてあざむかれて愛してならないものを愛し、記憶はその保存するものにおいてあざむかれる。知性は他人のものを奪い取る盗人に似ている。記憶は、わたしの外にあるものごとの追憶を絶えず保存する。このようにして、霊魂は恩寵を失うのである。
 霊魂の三つの能力は、このように一体をなしている。わたしがその一つによって侮辱されるときは、必ず三つ全体によって侮辱される。なぜなら、すでに話したように、この三つは、自由意志の好むままに、善についても悪についても、助け合うからである。この自由意志は情念と結びついて、思うままに、あるいは理性の光明とともに、あるいは理性をぬきにして、これを動かす。あなたがたは、自由意志がみだらな愛によって断ち切らないかぎり、「私」と結合した理性をもっている。しかしまた、絶えず霊と戦う邪悪な律法ももっている (8)
 それゆえ、あなたがたには二つの部分がある。官能と理性とがこれである。官能はしもべである。霊魂に仕え、肉体の道具をつかって善徳を証明し、実行する役目を与えられている。霊魂は自由である。わたしの「子」の血によって解放されている。自分が同意しないかぎり、自由意志と結合している意志によって屈従させられることはなく、自由意志は意志と同調して、これと一つになる。自由意志は官能と理性とのあいだに位置していて、好むままに、そのどちらかに向かうことができる。
 すでに話したように、霊魂が、自由意志の手によってすべての能力をわたしの名のもとに結集するならば、被造物のすべての業は、霊的なものも地上的なものも、立派に調整される。自由意志は利己的な官能から解放されて理性と結合する。そうなると、「わたし」は恩寵によってそのなかに休息する。わたしの「真理」、「肉となれる言葉」が、「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる」(9) と言ったのはこのことである。そして、これは真理である。すでに話したように、かれによらないでは、だれもわたしのもとに来ることができない。そのため、わたしはかれを三つの階段のある橋に仕立てたのである。この三つの階段は、追って説明するように、霊魂の三つの状態をかたどっている。

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