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6.生命の道

第54章

すべての理性的被造物が世の荒波を抜け出て橋を渡るためには、どのような方法にたよるべきかについて。

 これから、三つの階段について、あらためて話したい。あなたがたが、河におぼれないでこれを脱出し、招かれている生ける水に到達したいと思うならば、そしてまた、わたしがあなたがたのなかにいるのを望むならば、この三つの階段をのぼって行かなければならない。そうするならば、わたしは、あなたがたの旅のあいだ、あなたがたのなかにいるし、恩寵によって、あなたがたの霊魂のなかに住むのである。
 ところで、あなたがたが旅したいと思うならば、渇いていなければならない。なぜなら、渇いている者だけが招かれているからである。「渇いている者は来て飲みなさい」。渇いていない者は旅に堅忍することができない。あるいは疲労のために立ちどまり、あるいは快楽にひかれて立ちどまるからである。かれらは、水を汲み上げるために必要な器をたずさえるよう心がけないし、ひとりでは旅することができないのに仲間をさがそうとはしない。ちょっとした迫害に出会うと、敵があらわれたと思って、引き返す。ひとりだから、こわいのである。仲間がいたら、こわがることはないであろう。三つの階段をのぼっていたら、安全であろう。ひとりではないからである。
 だから、渇いていなければならないし、いっしょに集まっていなければならない。「あるいは二人、あるいは三人、あるいはもっと多く」(12) と言われているとおりである。なぜ、「二人あるいは三人」と言われるのであろうか。なぜなら、三がなければ二はなく、二がなければ三はなく、もっと多数がなければ三も二もないからである。ある人が孤独ならば、わたしはかれのなかにいることができない。なぜなら、仲間をもたないから、わたしはそのなかにいることができないからである。そのような人は無きにひとしい。なぜなら、自分自身に対する利己的な愛のなかに閉じこもっているからであり、わたしの恩寵と隣人に対する仁愛から切り離されているからである。自分の過失によってわたしから切り離された者は、無におちいる。なぜなら、「わたし」だけが、「存在者」だからである。それゆえ、孤独な者、すなわち、自分自身の愛に閉じこもっている者はわたしの「真理」から見て数のなかにはいらないし、わたしによって受け容れられない。
 だから、「二人または三人またはそれ以上の人が、わたしの名によって集まっているところには、わたしもそのなかにいる」(13) と言われているのである。わたしは、三がなければ二はないし、二がなければ三はない、と言ったが、それは真実である。あなたも知るとおり、「律法」の掟はただ二つに要約される。そして、この二つの掟を守らなければ、他の掟は一つも守られない。わたしを万事に越えて愛し、隣人を自分自身のように愛さなければならない。これが「律法」の始めであり、中心であり、終わりである。
 この二つの掟は、霊魂の三つの能力、すなわち記憶、知性、意志が集結しなければ、わたしの名によって集結することができない。記憶は、わたしの恩恵とわたしの「いつくしみ」とをそのなかに保たなければならない。知性は、わたしがわたしの「ひとり子」の仲介によってあなたがたに示した名状することのできない愛を注視しなければならない。わたしはかれをあなたがたの知性の目の対象として提示し、かれのなかにわたしの仁愛の火を観想させるのである。意志は記憶や知性と結びついて、わたしを愛し、わたしを望まなければならない。わたしこそ、その目的だからである。
 霊魂のこの三つの善徳と能力とが集合するならば、「わたし」は恩寵によってそのなかにいる。そうなると、人間はわたしに対する仁愛と隣人に対する愛とに満たされるから、すぐさま、多くの現実な善徳の仲間を見出す。
 すると、霊魂の欲求は、渇き、すなわち、善徳への渇き、わたしの誉れへの渇き、霊魂の救いへの渇きを覚える。他の渇きはみな、消え、死んでいる。奴隷的な恐れは少しも抱かず、情念の第一の階段を踏み越えて、安心して歩く。なぜなら、その情念は自愛心を脱却して、自分と朽ち去るものごととの上にのぼり、これを愛せず、保存せず、保存するとしても、それはわたしのためであって、わたしの外でではなく、まことに聖なる恐れにより、善徳に対する愛によって、保存するからである。
 このようにして、霊魂は第二の階段をのぼる。そこで、知性の光明によって、わたしが十字架につけられたキリストのなかに示した深い愛を観想する。そして、そこで、平和と休息とを見出す。なぜなら、記憶はわたしの仁愛によって満たされ、空ではなくなるからである。あなたも知るとおり、空の器は、これを叩けばうつろなひびきを立てる。ところが、満たされるとそうではない。記憶も、知性の光明と愛の情念とにみたされるならば、艱難あるいは世の快楽に動かされても、みだらな喜びや不忍耐のひびきを立てることがない。なぜなら、「全善」であるわたしによって満たされているからである。
 この階投をのぼり終えると、集結が行われたのに気がつく。さきに話したように、この三つの階段、霊魂の三つの能力を、理性が、わたしの名によって集結させたのである。二つを、すなわち神に対する愛と隣人に対する愛とを集結し、ついで、三つを、すなわち、保存する記憶、見る知性、愛する意志を集結した霊魂は、その力であり、平安である「わたし」の友となり、諸善徳の友となったのに気がつく。そして、安心して歩きつづける。なぜなら、わたしがそのなかにいるからである。
 このようにして、霊魂は、望みにかられ、生ける水の泉にみちびく「真理」の道に従いたいという渇きを覚える。わたしの誉れと自分自身の救いと隣人の救いとに対する渇きが、この道を望ませたのである。これによらなければ、目的を達成することができないからである。そこで、霊魂は、世に対するみだらな情念と愛とを棄てて空になった心の器をたずさえて、歩く。しかし、この器は空になるとすぐ満たされる。なにものも空のままであることはできない。物質的なものを棄てて空になると空気によって満たされる。心も器であって、空のままであることができない。過ぎ去るものごととみだらな愛とを棄てて空になると、空気すなわち恩寵の水に到達させる神の天上的で甘美な愛によって満たされる。すると、霊魂は十字架につけられたキリストの門を通り、平和の大洋である「わたし」のなかで、生ける水を見出し、これを味わうのである。

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