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6.生命の道

第55章

これまで話したいくつかのことがらの要約。

 これまで、わたしは、一般的に、理性を与えられた被造物が、世の荒海を抜け出し、これにおぼれること、永遠の亡びにおちいることをまぬかれるためには、どうしなければならないかを示した。また、三つの一般的な階段、すなわち、霊魂の三つの能力があること、だれもその全部をのぼらないで一つだけをのぼることができないことを示した。
 つぎに、わたしの「真理」の「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには……」という言葉を引用し、これにちなんで、三つの階段すなわち霊魂の三つの能力の集結について説明した。そして、この三つの能力が、律法の主な二つの掟、すなわち、わたしに対する仁愛と隣人に対する仁愛、万事にこえてわたしを愛する義務と隣人を自分自身のように愛する義務とに合致することを示した。
 あなたがたは、階段をのぼり、わたしの名によって諸能力を結集すると、生ける水に渇くようになる。すると、動きはじめ、橋であるわたしの「真理」に従って、橋を渡る。そして、あなたがたに叫ぶかれの声にひかれて走る。かれが、神殿で大声をあげ、「のどが渇いている人は、わたしのところに来て飲みなさい。わたしは生ける水の泉です」と言ってあなたがたを招いたことは、すでに話したとおりである。
 わたしは、この言葉にはどのような意味があるか、これをどのように理解しなければならないかについて、あなたに説明した。それは、わたしの仁愛のゆたけさと、死の水に招く悪魔の道をよろこんで走る人々の錯乱とを、もっとよく認識させるためであった。
 あなたは、おぼれないためには、どのような方法を取らなければならないかとたずねたが、わたしはそれを示し、それについて述べた。方法とは橋をのぼることである。これをのぼるにあたっては、隣人に対する愛によってたがいに一致結束し、心と情念との器をわたしに持参して、わたしが願う者に飲ませることができるようにし、十字架につけられたキリストの道を死ぬまで堅忍して歩まなければならない。これがあなたに話したことである。
 この方法は、すべての人が、どんな状態に置かれていても、取らなければならない方法である。どんな状態も、可能性から見ても、義務から見ても、これを免除することができない。理性的被造物はみなそうすることができるし、また、そうしなければならない。だれも、「わたしの身分、子供たち、世のわずらいのために、この道を歩くことができない」と言って止めることができない。出合う困難も口実にしてはならない。なぜなら、すでに話したように、わたしは、どんな状態も、これを聖なる善意をもって生きるならば、よろこんで受け入れるからである。すべては、至高の「いつくしみ」であるわたしによって造られたのである。それゆえ、善であり完全である。それに、わたしがこれを創造して与えたのは、死を捕えさせるためではなく、生命を獲得させるためである。
 これはたやすいことである。愛ほどたやすく楽しいことはない。そして、わたしがあなたがたに求めるのは、「わたし」と隣人とに対する愛といつくしみ以外にはない。人間は、いつも、いかなる場所でも、いかなる状態においても、すべてのものを、わたしの名の賛美と栄光とのために、愛し、保有することによって、これを実行することができる。
 わたしが、この光明にみちびかれて歩まず、利己的な愛のなかに閉じこもっている人々の錯誤について話したことは、あなたの知るとおりである。かれらは、被造物と造られた事物とをわたしの外で愛して所有し、悩みのなかに生活を送り、自分自身に対してさえ堪えがたい者となる。もしも、さきに話した方法によって立ち直らないならば、永遠の亡びにおちいるにちがいない。
 すべての人は例外なく、以上述べたように生きなければならない。

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