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7.不完全な愛

第58章

奴隷的な恐れは永遠の生命に達するのに十分ではないことについて。──恐れの律法と愛の律法とはたがいに結合していることについて。

 すると、神の「いつくしみ」は、この霊魂の望みをみたしたいと思われて、つぎのように語られた。
 ──奴隷的な恐れによって大罪の泥沼から立ちあがる人々を見るがよい。もし、かれらが、善徳に対する愛によって立ちあがらないならば、奴隷的な恐れだけでは、永遠の生命を獲得するのに十分ではない。しかし、愛と聖なる恐れとがいっしょであれば十分である。なぜなら、律法は愛と聖なる恐れとの上にきずかれているからである。
 恐れの律法は、わたしがモーシェに授けた古い律法であって、もっぱら恐れの上にきずかれていた。なぜなら、罪を犯した者は、罰を受けなければならなかったからである。
 愛の律法は新しい律法であって、わたしの「ひとり子」、「言葉」が授けたものであり、愛の上にきずかれている。しかし、新しい律法は古い律法を廃止するわけではなく、かえって、これを完成する。わたしの「真理」は、これについて、「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、これを完成するためである」(1) と言った。そして、恐れの律法を愛の律法に結びつけた。愛は恐れからその不完全さを、すなわち、罰に対する恐れを取り除いた。その結果、完全な恐れ、聖なる恐れしか残らなくなった。この恐れは罪を犯すことに対する恐れであり、自分の利益をそこなうことに対する恐れではなく、至高の「いつくしみ」であるわたしに背くことに対する恐れである。このようにして、不完全な律法は、愛の律法によって、完全なものになったのである。
 わたしの「ひとり子」が火の車のように来臨し、あなたがたの人性にわたしの仁愛の炎、わたしのゆたかなあわれみを注いでからは、過失を罰する苦しみは廃止きれた。すなわち、現世においては、過失を犯すとすぐ罰されるということはなくなった。そのむかし、モーシェの律法においては、過失はただちに罰するように、定められていた。しかし、いまはそうではない。だから、奴隷的な恐れの必要はなくなった。罪は決して罰せられないというわけではない。ただ、罰がのちの世まで、霊魂が肉体をはなれるときまで、延期されるだけである。完全な痛悔によって、つぐのいを果たした罪人は例外である。現世はあわれみの時であるが、死後は正義の時である。
 それゆえ、奴隷的な恐れから立ちあがって、「わたし」に対する愛と聖なる恐れとに到達しなければならない。さもなければ、ふたたび河に落ち、艱難の波と快楽のいばらとにもてあそばれるほかはない。快楽のいばらはみな、これをみだらなしかたで愛し、所有する霊魂を傷つけるのである。

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