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7.不完全な愛

第60章

自分自身の利益、楽しみ、慰めのために神を愛し、神に仕える人々の不完全さについて。

 ある人々は、わたしの忠実なしもべになって、忠実に、すなわち、ただ罰に対する恐れによってではなく、愛によって、わたしに仕える。しかし、この愛は不完全でありうる。あるいは自分自身の利害のため、あるいは「わたし」のなかに見出す楽しみや慰めのために愛する場合がこれである。かれらの愛が不完全であることは、どのような証拠によって知ることができるであろうか。わたしのなかに慰めを見出せなくなった場合に、どのように行動するかを見ればよい。そのうえ、かれらは、このような不完全で利己的な愛によってその隣人を愛する。このような愛は不十分で、長くつづかないし、だんだん衰え、冷えて行く。わたしがかれらに善徳を修練させ、かれらを不完全から抜け出させるために、霊的慰めを取り上げ、戦いと困難とを送ると、「わたし」に対してひややかになる。しかし、わたしがこのようにするのは、かれらに自分自身を完全に認識させ、自分はなにものでもなく、自分からはなんの恩寵ももたないことを意識させて、かれらを完徳にみちびくためである。戦いのときはわたしによりたのみ、わたしを恩者と思い、まことの謙遜によって、「わたし」だけにたよらなければならない。そのため、わたしはかれらから慰めを取り上げるけれども、恩寵を取り上げるわけではない。
 ところが、かれらは、そのような場合、霊的な忍耐を失って、微温になり、後退するし、ときには、さまざまの方法で修業を放棄する。そして、しばしば霊的な慰めが取り上げられたのを感じると、「この修業はおまえの役に立たない」と自分自身に言い聞かせ、善徳にことよせて、これを放棄する。
 不完全な人々がこのように行動するのは、聖なる信仰の目のひとみをかくしている霊的な自愛心のおおいをまだ完全に取り除いていないからである。もしもこのおおいを実際に取り除いていたら、すべては「わたし」から発するのであり、わたしの摂理の命令がなければ一枚の木の葉も落ちないことを認めるであろうし、わたしがかれらに与え、かれらに約束するものは、もっぱらその成聖のためであり、わたしがあなたがたを創造した理由である善と目的とを獲得させるためであることをさとるであろう。
 わたしが、わたしの「ひとり子」の血によって求めているのは、かれらの善であること、この血によってかれらの罪悪を洗ったことを見なければならないし、認識しなければならない。この血のなかでこそ、かれらはわたしの真理を認識することができるのである。わたしの真理とは、わたしが、永遠の生命を与えるために、かれらをわたしの似姿として創造したこと、そして、わたしの「子」の血のなかでかれらを再創造して、わたしの養子にしたこと、これである。しかし、かれらは不完全であるために、わたしに対する奉仕のなかに自分自身の利益を求め、隣人に対する愛においても、なまぬるいのである。
 そのなかでも、第一の部類の人々は、苦しみを凌がなければならないのを恐れて失望する。また、第二の部類の人々は、隣人に対する奉仕において、なまぬるく、怠慢で、その仁愛は後退する。それは、かれらのなかに見出していた自分自身の利益または慰めが得られないからである。かれらの愛は純粋ではなく、わたしを愛する不完全な愛によって隣人を愛する。すなわち、愛のなかに自分自身の利益を求めるのである。
 もしも、自分の不完全さを認め、完全になろうと望まないならば、逆戻りするのは避けられない。永遠の生命を望むならば、打算を棄てて愛さなければならない。罰を恐れて罪を避け、自分の利益をあてこんで善徳を修めるのは、永遠の生命を獲得するのに十分ではない。「わたし」が嫌うから罪を避け、「わたし」に対する愛のゆえに善徳を愛さなければならない。
 事実、これはすべての人にとって、第一の全般的な招きである。なぜなら、霊魂は最初は完全ではなく、不完全だからである。しかし、この不完全を脱け出て完全にならなければならない。あるいは、生涯のあいだ、善徳のなかで、清い心を抱き、自己にかまけることなく自由にわたしを愛して生きるか、あるいは、臨終のとき、自分の不完全さを認め、まだ時があるならば、自分を顧みないでわたしに仕える決心を立てるかしなければならない。
 聖ペトロは、わたしの「ひとり子」、優しくいつくしみ深いイエスとの親睦の甘美さを味わっていたときは、この不完全な愛によってかれを愛していた。しかし、艱難の時がおとずれると、すっかり落胆し、かれのために苦しむ勇気がないばかりか、最初の脅しに合うと、苦しみを恐れ、かれを知らないと言って否認した。
 このように、ただ奴隷的な恐れによって、あるいは欲得づくの愛によって、階段をのぼる霊魂は、多くの危険に出合うのである。それゆえ、このような状態から脱け出て、わたしの子供となり、自分の利益を顧みないで、わたしに仕えなければならない。わたしはすべての労苦に報いるし、各人にその状態と業とに応じて返却する。
 もしも、かれらが聖なる祈りの勤行とその他の善行とを放棄せず、いつも堅忍して歩み、善徳に進歩するならば、この子供の愛に達するであろう。そして「わたし」は、かれらを子供を愛するように愛するであろう。なぜなら、わたしはいつも、わたしに示される愛に、同じ愛をもって答えるからである。もしもあなたが、しもべがその主人を愛するように愛するならば、わたしは主人としてあなたを愛するであろうし、あなたがたの功績に応じて負い目を返すであろう。しかしわたし自身をあなたに示すことはないであろう。友人には内心の秘密をあかす。なぜなら、友人同士は一体だからである。
 事実、しもべは、その善徳においても、主人に対して抱く愛においても成長し、きわめて親密な友人となることができる。わたしのしもべについても同じである。かれらが欲得づくの愛にとどまっているかぎり、わたしはかれらに自分自身を示すことはない。もしも、かれらがその不完全さを恥じ、善徳を愛しはじめ、憎しみをもって自分自身のなかから霊的自愛心の根を引き抜き、良心の裁判席に座り、理性に訴えて、かれらの心に、至聖なる信仰の光明によって是正されない奴隷的な恐れと欲得づくの愛とを許さないならば、わたしに大きな喜びを与え、友人同士の愛に達するであろう。
 そうなると、わたしはかれらにわたし自身を示すであろう。わたしの「真理」が「わたしを愛する者はわたしと一つであり、わたしはかれと一つである。わたしはわたし自身をかれに示し、わたしたちはいっしょに住む」(2) と言ったのはこのことである。これが親密な二人の友人のあいだに必要な条件である。肉体は二つであるが霊魂は愛情によって一つになる。なぜなら、愛は、愛する者を愛される者に同化させるからである。かれらが一つの霊魂になるならば、かれらのあいだには、なにものも秘密ではありえない。それゆえ、わたしの「真理」は、「わたしは来るであろう。そして、わたしたちはいっしょに住むであろう」と言ったのである。そしてそれは真理である。

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