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7.不完全な愛

第61章

神は愛する霊魂にご自分を示されることについて。

 あなたは、甘美な愛の「言葉」の教えに従って、真理においてわたしを愛する霊魂に、わたしがどのように自分自身を示すかを知っているであろうか。わたしは霊魂に、その望みに応じて、さまざまの方法で、わたしの善徳を示す。しかし、三つの主な方法がある。
 第一は、わたしの「子」である「言葉」の仲介によって。わたしの愛情と仁愛とを霊魂に示すことである。この愛情と仁愛とは、あれほど熱烈な愛の火によって流された「血」のなかに示されている管理人注1。この仁愛は二つの方法で示される。一つは、普通の人々、すなわち普通の仁愛にとどまる人々に対する一般的な方法である。この人々に対しては、数多くのさまざまな恩恵を与えることによってわたしの仁愛を証明して、わたしを示す。もう一つは、特別な方法で、わたしの友となった人々に用いる方法である。この人々は、普通の仁愛を示されるばかりでなく、その霊魂のなかに、意識によってわたしの仁愛を味わい、認識し、体験し、感じる。
 仁愛の第二の発顕も、霊魂自身のなかで、愛の感情によっておこなわれる。わたしは、被造物に対して、分けへだてをすることはない。わたしはその聖なる望みを見る。霊魂がわたしを探す完全性のいかんに応じて、これに自分を示す。ときどき、──これは第二の方法であるが、──霊魂に預言の精神を与え、未来のことを示すことによって、これに自分を示す。そして、それは、数多くのさまざまな方法で、この霊魂自身あるいは他の被造物の要求に合致するかいなかを判断した上で、おこなう。
 あるときは、──これは第三の方法であるが、──わたしの「真理」、わたしの「ひとり子」の現存を、さまざまの方法で、霊魂の欲求と意志とに応じて、これに意識させる。霊魂は、ときには、わたしの力を知りたいと望み、祈りのなかでわたしを探す。それで、わたしは、わたしの善徳を感じさせ、味わわせて、これを満足させる。霊魂はまた、ときとして、わたしの「子」の英知のなかにわたしを探す。それで、わたしは、その知性の目にかれを対象として示すことによって、その願いに答える。また、あるときは、聖霊の寛仁のなかにわたしを探す。すると、わたしの「いつくしみ」管理人注2は、隣人に対する純粋な仁愛の上にきずかれたまことの現実な善徳をこれに宿させることによって、わたしの神的な仁愛の火を味わわせるのである。

[管理人注1]  それ故、或るプロテスタントの指導者はこう言った。「十字架を見てみよう。自分の罪を軽く扱いたくなったら、もっとしっかりと、時間をかけて、十字架を眺めてほしい。神の愛を軽々しく扱いたくなったら、もう一度十字架を眺めてほしい。きみたちのためにキリストを送ってくださったのは神の愛なんだ」(ローマ・スイート・ホーム p.12)

私はもちろんプロテスタントを支持しない。しかし、現在、カトリック聖職者は、上のような点に於いて、プロテスタントの中の良い者よりも、往々「劣って」さえいる。(戻る

[管理人注2]  訳者が「いつくしみ」としているところは原文では「la mia bontá」である。別に、括弧にくるまれているのでもなければ大文字になっているのでもない。意味は、「la」は冠詞、「mia」は「my」、そして「bontá」は「goodness」とか「kindness」とかである。「いつくしみ」という訳語は神の甘い愛を強調するようになった第二バチカン公会議後に特有のものなのではないか。(戻る

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