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7.不完全な愛

第62章

キリストはなぜ「わたしは父を示すであろう」と言わないで、「わたしを示すであろう」と言ったかについて。

 ところで、わたしの「真理」が、「わたしを愛する者はわたしと同一の者となる」と語ったとき、真理を述べたことをわかってほしい。なぜなら、かれの教えに従うならば、愛の感情によってかれと一致するからである。かれと一致するならばわたしと一致する。なぜなら、わたしたちは一つだからである。その結果、わたしはわたし自身をあなたがたに示す。なぜなら、わたしたちは、一つだからである。それゆえ、わたしの「真理」は、「わたしはわたし自身をあなたがたに示すであろう」と語ったとき、真理を述べたのである。なぜなら、自分自身を示すことによってわたしを示すし、わたしを示すことによって自分自身を示すからである。
 それでは、わたしの「子」は、なぜ、「わたしは『父』をあなたがたに示すであろう」と言わなかったのであろうか。それは三つの特殊な理由による。
 第一は、わたしはかれから離れていないし、かれはわたしから離れていないことを示したかったからである。それゆえ、聖フィリッポが「『父』をお示しください。それで満足です」と言ったとき、「わたしを見る人は『父』を見るし、『父』を見る人はわたしを見る」(3) と言ったのである。かれがこう言ったのは、かれはわたしと一つだからである。しかし、かれがもっているものはわたしから受けたのであるが、わたしはかれから受けてはいない。だから、かれは、ユデヤ人にむかって、「わたしの教えはわたしの教えではなく、わたしをつかわした『父』の教えである」(4) と言ったのである。「子」はわたしから発したのであり、わたしはかれから発したのではない。しかし、わたしがかれと一つであり、かれがわたしと一つであることにかわりはない。だから、「わたしは『父』を示すであろう」と言わないで、「わたしを示すであろう」と言ったのである。それは、「わたしは『父』と一つであるから」という意味である。
 第二は、かれは自分をあなたがたに示すことによって、「父」であるわたしから受けたもの以外はなにも示さないからである。それは、「『父』は自分をわたしに示した。わたしは『父』と一つだから、わたしがわたしのなかにあなたがたに示すのは、わたしであるとともに『父』でもあるからである」と言うのと同じである。
 第三は、「わたし」は目に見えないから、目に見えるあなたがたは、肉体から離れないかぎり、わたしを見ることができないからである。しかし、そのときは、神である「わたし」を顔と顔とを相対して見るであろうし、わたしの「ひとり子」を知的に見るであろう。それも、さきに「復活」について述べたとき説明したように、あなたがたの人性が「言葉」の人性にあやかるものとなり、これと一致する肉身の復活のときまでであろう。
 要するに、あなたがたは、あるがままのわたしを、現在見ることができない。それゆえ、神性をあなたがたの人性のおおいの下にかくして、あなたがたがわたしを見ることができるようにしたのである。見えない「わたし」は、あなたがたの人性のおおいの下にかくされたわたしの「子」、「言葉」をあなたがたに与えることによって、見えるようになったのである。かれは、この人性によってわたしをあなたがたに示すのである。それゆえ、「わたしは『父』を示すであろう」と言わないで、「わたしをあなたがたに示すであろう」と言ったのである。それは、「『父』がわたしに与えたとおりに、わたしをあなたがたに示すであろう」と言うのと同じである。
 それで、あなたは、この啓示において、かれは自分を示すことによってわたしを示すということを、わかるにちがいない。そのうえ、かれがなぜ「わたしは『父』をあなたがたに示すであろう」と言わなかったかを知ることができるにちがいない。それは、すでに話したように、あなたがたは死すべき体のなかにあるかぎり、わたしを見ることができないからであり、かれはわたしと一つだからである。

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