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7.不完全な愛

第64章

神を不完全に愛する霊魂は隣人も不完全に愛することについて。──この不完全な愛のしるしについて。

 すべての不完全とすべての完全とは、わたしに対して示され、獲得されること、そしてまた、隣人を介して獲得され、示されることを知ってほしい。被造物をしばしば霊的愛によって愛する単純な霊魂は、これをよく心得ている。もしも、このような霊魂がわたしの愛を純粋無我に受けるならば、隣人の愛もまた純粋に飲むであろう。それは泉で満たす器のようなものである。もしも、これを泉の外に出して飲むならば、空になるであろう。しかし、これを泉のなかに入れたまま飲むならば、空になることはなく、いつも満たされているであろう。隣人に対する愛も、霊的なものと地上的なものとを問わず、わたしのなかで、利害を考えないで、飲まなければならない。
 わたしがあなたがたを愛する愛によって、わたしを愛してほしい。しかし、わたしに対してはこれを実行することができない。なぜなら、わたしはあなたがたから愛される前にあなたがたを愛したからである。それで、あなたがたがわたしに対して抱く愛はみな、負債を返すための愛であって、恩恵としての愛ではない。ところが、わたしのあなたがたに対する愛は恩恵であって負債ではない。それで、あなたがたは、「わたし」に、わたしが要求する愛を返すことができない。そのため、わたしはあなたがたを隣人のあいだに置いたのである。そうすれば、わたしのためになすべきことを、かれらのためになすことができるからである。すなわち、なんの恩恵も利得も期待しないで、かれらを愛することができるからである。そのうえ、わたしは、あなたがたが隣人のためになしたことを、わたしのためになしたことと見なすのである。
 わたしの「真理」が、わたしを迫害していたパウロに、「サウル、サウル、あなたはなぜわたしを迫害するのか」と言ったとき示したのは、このことであった。パウロはわたしの信徒を迫害することによって、わたしを迫害している、と考えたのである。
 それで、この愛は純粋でなければならない。あなたがたがわたしを愛する愛によって、あなたがたの隣人を愛さなければならない。あなたは、霊的な愛によって愛する人がまだ完全でないのは、なにによってわかるかを知っているであろうか。愛される側の被造物が、自分の愛に答えてくれないように思われるとき、あるいは、自分が愛していると思う程度に愛してくれないように思われるとき、あるいはまた、その人との親睦と慰めとを得られないとき、その人が他の人を自分よりも愛しているように感じるとき、苦しみ悩むのをみればわかる。
 このようなしるしや他の多くのしるしによって、この人のわたしに対する愛と隣人に対する愛がまだ不完全であることを認めることができる。この人は、この愛をわたしのなかで汲んだのであるが、この愛のはいった器を泉の外で飲んだのである。この人がわたしに対して抱いていた愛はまだ不完全であった。そのため、かれが霊的な愛によって愛する人に示す愛も不完全である。
 それというのも、霊的な自愛心の根を十分に抜き去っていないからである。そのうえ、わたしはしばしばこの愛の試練をかれに許す。それによって自分の不完全を、さきに話した方法で、認識することができるからである。わたしはわたしの現存の実感をかれから取り上げる。そうすれば、自分自身の認識の家にこもり、そこであらゆる完全性を獲得することができるからである。
 そののち、わたしはかれのもとに戻り、もっと多くの光明を与え、わたしの「真理」をもっと深く認識させる。その結果、わたしのために我意を殺すことを、恩寵と見なすようになる。そうなると、その霊魂のぶどうの木を剪定し、その思いのいばらを除去し、キリストの血のなかにきずいた善徳の石を配置すればよい。この石は、わたしの「ひとり子」、十字架につけられたキリストである「橋」を渡るあいだに拾ったのである。橋の上には、すなわち、わたしの「真理」の教えには、かれの血の功徳の上にきずかれた石があると、あなたに話したことを記憶していると思う。善徳はかれの血の功徳によらなければ、あなたがたに生命を与えることができないのである。

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