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7.不完全な愛

第67章

自分自身の慰めのために神に仕えることを愛する世俗的な人々の迷いについて。

 この不完全な愛に関して、見すごすことのできないひとつの誤り、すなわち、自分自身の慰めを見出すことができるという理由でわたしを愛したいと望む人々のおちいる誤り、について話したい。あなたに知ってほしいのは、わたしのしもべがこのように不完全に愛するときは、わたしよりは、わたしを愛することによって受ける慰めを愛しているということである。霊的あるいは現世的慰めがなくなると、混乱におちいるのを見れば、これをたしかめることができる。
 これはとくに世俗の人々にありがちなことである。かれらは、繁栄しているあいだは、なんらかの徳行をおこなって生活している。しかし、わたしがかれらの善のために送る不幸に見舞われると、それまでおこなっていたわずかの善の実行さえも混乱におちいる。「なぜそんなに混乱するのか」とたずねるならば、つぎのように答えるであろう。「不幸におちいったからだ。わたしが実行していたわずかの善も無駄に見える。なぜなら、以前に抱いていた心とたましいとをもってこれを実行しなくなったように思うからだ。その原因は、わたしを見舞つた不幸だ。なぜなら、以前は、今と違って、心の平安を抱いて、もっと落ちついて、もっと努力して、善を実行していたからだ」。
 この人々は、そのたのしみに迷わされている。不幸が原因でわたしに対する愛がおとろえ、善の実行がおとろえたというのは真実ではない。不幸のときにおこなう善業は、慰めのときにおこなう善業と同じ価値をもつ。もしもこれを忍耐をもっておこなうならば、もっと大きな価値をもつことができるであろう。事実、かれらがたのしみにしていたのは、繁栄である。外的な徳行によって、わたしを愛していたにすぎない。かれらの心が平安であったのは、このわずかの善業で満足していたからである。この平安を与えていたものを奪われると、善徳の実行のなかに見出していた平安を失ったかのように思うのである。しかし、それは誤りである。
 この人々は、庭園をもっている人と同じである。この人にとって、庭園がたのしみを与えるために、そこで働くのが休みになるのである。自分では、庭仕事をすることが休みになると思っているけれども、実際は、庭園のなかで味わうたのしみによって休むのである。これは真実であって、庭園をとりあげられると、庭仕事を好まなくなるのはその証拠である。もしも、その主要なたのしみを庭仕事のなかに味わっていたのであれば、その庭園が自分のものでなくなっても、そのたのしみを失うことなく、いつまでも保ちつづけるであろう。善業の実行のたのしみも、もし望むならば、たとい繁栄のたのしみが奪われても、庭園を失った人のように奪われることはないであろう。
 要するに、この人々は、利己的な情念のために、自分のなすことについて、あやまりにおちいっているのである。そのため、きまってつぎのように言うのである。「この不幸に見舞われる前は、今よりはもっと立派にやっていた。慰めももっと多かった。わたしにとって、善業をなすのはたのしみであった。しかし、今は、なんの取り得もないし、なんのたのしみもない」。かれらの考えかたも、かれらの言い分も間違っている。もしも、かれらが善徳の善に対する愛のために、善業のなかにたのしみを求めていたのであれば、このたのしみを失うことはなかったであろうし、これに不足することはなかったであろう。かえって、これを増大させることができたであろう。しかし、かれらの善業は、その感覚的たのしみの追求にもとずいているために、実行されなくなるのである。
 以上が、普通の人々がそのわずかの善業についておちいる迷いである。かれらは、感覚的で利己的なたのしみを求めているために、迷いにおちいるのである。

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