< 戻る

目 次

進む >

7.不完全な愛

第71章

霊的な慰めと示現とに執着する人々は光明に変形した悪魔にだまされることについて。──示現が神よりのものであるか、悪魔よりのものであるかを見分けるしるしについて。

 そのうえ、しばしば、光明に変形した悪魔のわなにさらされるにちがいない。事実、悪魔は、精神がなにを受けたいと思っているか、なにを望んでいるかを見て、これを与える。それで、ある精神が貪欲で、霊的慰めと示現との望みだけに捕えられているのを見ると(霊魂はそのようなものを望まないで、善徳だけを望まなければならないし、謙遜して、自分はそのような恩恵にふさわしくないと思い、これを与えるわたしの愛しか考えてはならないのであるが)、悪魔は、この精神のなかで、さまざまの方法で光明に変形する。あるときは天使の形をとり、あるときはわたしの「真理」の形をとり、あるときはある聖人の形をとる。そして、この霊魂が示現と精神のたのしみとのなかに探す霊的よろこびの釣り針によって、これを捕える。もしも、霊魂がまことの謙遜によって立ちあがり、すべてのたのしみを軽蔑しないならば、この釣り針にかかり、悪魔の手に落ちるにちがいない。その反対に、このたのしみを謙遜に軽蔑し、たまものではなく、与え主である「わたし」の愛情を、愛深く抱きしめるならば、悪魔は堪えることができないであろう。なぜなら、傲慢な悪魔は謙遜な精神に対抗することができないからである。
 あなたはわたしに、「このおとずれがあなたのものではなくて悪魔のものであることは、どのようにして見分けることができるでしょうか」とたずねるかもしれない。わたしはあなたに答えたい。しるしはつぎのとおりである。もしも悪魔が、すでに話したように、光明の形で精神をおとずれたのであれば、霊魂はそのおとずれによって、突然強い喜びを受ける。しかし、この喜びは、時がたてばたつほど弱くなる。そして、精神には倦怠、暗黒、刺激が残り、内面は雲がかかったようになる。
 しかし、実際に永遠の「真理」である「わたし」がおとずれたのであれば、霊魂は最初聖なる恐れを感じる。しかし、この恐れには、喜び、安心、心地よい用心がともなう。それで、疑いながらも疑わない。自分自身を認識して、自分は、この恩寵を受ける資格がないと思う。それで、「わたしはあなたのおとずれをうける資格はありません。資格がないのにどうしておとずれてくださるのですか」とたずねるであろう。そう言いながらも、わたしの広大な「仁愛」によりすがるであろう。「わたし」には与える力があることを知り、認めるであろう。自分の卑しさを眺めないで、自分を恩寵をうけるにふさわしいもの、わたしの現存を感じるにふさわしいものとなすわたしの尊厳を眺めるであろう。なぜなら、わたしは、霊魂にわたしを呼び招かせ、わたしを受ける準備をおこなわせるその望みを、無視することができないからである。そこで、霊魂は謙遜して、「わたしは主の使い女です。おぼしめしのようになりますように」と言うであろう。そして、わたしのおとずれが終わり、念祷を止めても、精神のなかに、喜びと大きなたのしみを保ちつづけるであろう。その謙遜によって自分の卑しさを理解し、すべてをわたしの「仁愛」によって授かったことを認めるであろう。
 このしるしによって、霊魂がわたしのおとずれを受けたのか、悪魔のおとずれを受けたのかを、判断することができる。わたしがおとずれる場合は、霊魂は最初恐れを抱くけれども、なかほどと終わりには、喜びと善徳に対する望みを感じるであろう。悪魔がおとずれる場合は、最初喜びを感じるけれども、最後には精神のなかに混乱と暗黒とが残るであろう。わたしがこのようなしるしを示したのは、霊魂が、謙遜に用心深く歩いて、あざむかれないようにしてほしいからである。しかし、霊魂が、すでに話したように、わたしに対する愛よりも、自分自身の慰めに対する不完全な愛を抱いて航海するならば、わなにおちいるにちがいない。

< 戻る

目 次

進む >

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system