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8.完全な愛

第73章

霊魂はどのようにして不完全な愛を去って完全な愛に達するかについて。

 これまで、いろいろなしかたで、霊魂がどのようにして不完全から立ちあがって完全な愛に達するか、そして、友の愛、子の愛に達したのちは、なにをするかを示した。
 すでに話したことを繰りかえすが、霊魂は、堅忍して、自分自身の認識の独房にこもることによって、そこに達する。この自分自身の認識が、混乱におちいらないためには、「わたし」の認識をともなわなければならない。自分自身の認識は、霊魂の自分に対する感覚的な情念と利己的な慰めのなかに味わうたのしみとを憎ませる。謙遜にもとづいたこの憎しみから忍耐が生まれる。霊魂は、この忍耐によって、悪魔の攻撃に対しても、人々から受ける迫害に対しても強くなる。そのうえ、「わたし」に対しても強くなり、わたしが、その利益のために、霊的喜びを取りあげても、弱音を吐かない。この善徳によって、すべてを堪える。
 もしも、なんらかの試練によって、利己的な官能が頭をもたげ、理性に反抗するときは、裁判官である良心は立ちあがり、官能に対する憎しみをもって理性を守り、すべてのみだらな衝動を是正しなければならない。官能に対して憎しみを抱く良心は、絶えず自分を是正し、理性に反する衝動だけではなく、しばしば、「わたし」が与える衝動きえも抑える。
 わたしの善良なしもべ、グレゴリウスが、「聖く清い良心は罪のないところでも罪を犯す」と言ったのは、このことである。それは、純潔な良心は、過失でないものまでも、過失と見なすという意味である。
 不完全から立ちあがろうとする霊魂も、このようにしなければならないし、事実そうするのである。自分自身の認識の独房にこもり、信仰の光明に照らされて、わたしの「摂理」を待つ。弟子たちは、家にとどまって、決して動かなかった。堅忍して徹夜をおこない、謙遜して忍耐深く祈りながら、聖霊の降臨を待った。
 すでに話したように、霊魂は、不完全から立ちあがって完全に達するために、独房にこもるとき、これを模倣する。そこで、知性の目をわたしの「真理」の教えに注ぎ、絶えざる祈りのなかで、すなわち、聖く清い望みのなかで、自分自身を認識し、自分のなかにわたしの「仁愛」の情愛を認識して、謙遜し、夜を徹して待つのである。

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