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8.完全な愛

第74章

霊魂が完全な愛に達したことを示すしるしについて。

 最後に、霊魂が完全な愛に達したことを示すしるしについて話したい。このしるしは、聖なる弟子たちが、聖霊をさずかったのち示したしるしと同じである。かれらは集合室を出ると、恐れから解放されて、わたしの「言葉」を宣べ、わたしの「ひとり子」である「言葉」の教えを説いた。そして、苦しみを恐れるどころか、かえって、この苦しみを誇りにしていた。かれらは、世界の暴君たちの前に出て、わたしの名の栄光と賛美とのために、「真理」を告げ知らせるのを恐れなかった。
 自分自身の認識のなかで、さきに話した方法で、私のおとずれを待つ霊魂も、これと同じである。わたしは、わたしの「仁愛」の火とともに、そのもとに帰った。霊魂は、その住み家にこもって、堅忍しているあいだに、愛情によってわたしの力を分かち、「仁愛」によって善徳を宿した。そして、この力と善徳とによって、その感覚的自己愛を支配し、征服した。
 この「仁愛」によって、霊魂は、わたしの「子」の英知を分かつ者となった。そして、すでに話したように、この英知によって、その知性の目は、わたしの「真理」を見て認識するとともに、霊的な自愛心、すなわち、利己的な慰めに対する不完全な愛が錯誤であることをさとった。霊魂はまた、まだこの不完全な愛のくさりにつながれている霊魂に対する悪魔の欺瞞と悪意とをさとり、この不完全に対する憎しみと完徳に対する愛とが湧きあがるのを感じた。
 この仁愛は聖霊自身であるが、霊魂はこれによってその意志を分かち、そのなかで苦しみを堪える意志を強め、わたしの名によって家の外に出て、隣人に対する善徳を産む。自分自身の認識の独房を実際に出るわけではない。しかし、愛の情念によって宿した善徳を出産し、隣人が要求するとき、多種多様な方法で、これに与える。それというのも、先に話したように、以前には、自分自身の慰めを失う恐れにしばられて、姿を見せようとしなかったのであるが、この恐れから解放されたからである。ひとたび完全で自由な愛に達すると、霊魂は、すでに話した方法で外に出て、自分自身を隣人に委ね与える。
 このようにして、霊魂は第四の状態に達する。この状態は、第三の状態の一部分で、完全な状態である。この状態において、霊魂は隣人のなかに愛を味わい、これを産む。そして、そこで、わたしとの完全な一致の最後の状態をさずかる。この二つの状態はたがいに結合している。一方は他方なくしては成り立たない。なぜなら、わたしに対する仁愛は隣人に対する愛から分離することができないし、隣人に対する仁愛はわたしに対する仁愛から分離することができないからである。一方は他方から分離することができないのである。
 これは先の二つの状態についても同じである。一方は他方なくしては存在しない。これについては、この第三の状態について話すとき説明し、示したい。

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