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8.完全な愛

第76章

橋の第三の階段にのばった霊魂、すなわち口に達した霊魂は、すぐさま、口の役目を果たすことについて。──霊魂がそこに達したしるしは、その意志の死であることについて。

 わたしがこれまで話したことはみな、わたしの「真理」があなたに説明したことである。わたしは、この第二の階段をのばった霊魂がどんなにすぐれているかをあなたに理解させるために、かれに代わって、これを繰りかえし述べた。霊魂は、そこで燃えさかる愛の火を知り、これを獲得して、一気に第三の階段、すなわち口に駆けのぼった。これは、完全な状態に達したことを示すのである。
 どこを通ったのであろうか。心を通ったのである。すなわち、「血」の追憶によってあらためて洗礼をさずかり、不完全な愛を去り、心のまことの愛を認識し、わたしの「仁愛」の火を見、味わい、体験したのである。こうして霊魂は口に達した。そして、口の役目を果たすことによって、これを証明する。口はそのなかにある舌をもって話し、味覚をもって味わい、食物を食べて胃に送るし、これを呑みこむことができるように歯でかみくだく。
 霊魂もこれと同じである。まず、聖い望みの口のなかにある舌をもって、すなわち、聖く絶え間ない祈りによって、わたしに話す。この舌は外的にも精神的にも話す。その心地よく愛深い望みを、霊魂の救いのためにわたしにささげるとき、精神的に話す。そして、わたしの「真理」の教えを宣べるとき、世俗から受ける苦しみを恐れることなく、注告し、意見を述べ、証しをおこなうとき、外的に話す。しかも、すべての被造物に対し、種々の方法を用い、それぞれの状態に応じて、大胆に証しをおこなう。
 わたしは霊魂が食べると言った。霊魂は人々の霊魂を、わたしの誉れのために、至聖なる十字架の食卓の上で食べる。他のどんな方法によっても、どんな食卓の上でも、まことに、完全に食べることができない。わたしは歯でかみくだくと言った。そうしないと呑みこむことができないからである。憎しみと愛とは、聖なる望みの口のなかにある二列の歯である。霊魂は、そこに食物を入れて、自分自身に対する憎しみと善徳に対する愛とによって、これをかみくだく。自分においても、隣人においても、すべての侮辱、軽蔑、無礼、嘲笑、叱責、迫害、飢え、渇き、寒さ、暑さ、かずかずの迫害、涙、汗を、霊魂の救いのためにかみくだく。これらすべてをわたしの誉れのためにかみくだき、隣人を支え、これを堪える。
 歯でかみくだいたならば、今度は味覚で味わう。霊魂はその労苦の実を味わい、わたしと隣人とに対する仁愛の火のなかで、霊魂という食物を賞味する。つぎに、この食物は、霊魂に対する望みと飢えとによって受け入れる準備がととのえられている胃に達する。胃とは、親愛と隣人に対する仁愛とをそなえた心である。霊魂は、この食物がたいへん気に入り、これを十字架と十字架につけられたキリストの教えとの食卓の上で食べることができるように、肉体の生命に関する心配を忘れた上で、これをむさぼるように食べる。
 そうなると、霊魂は真実で堅固な善徳によってふとる。この食物を多量に取るのでふくらみを増し、つけていた利己的な官能、すなわち霊魂をおおっていた体の感覚的欲望が破裂する。破裂すれば死亡する。このように規正された霊魂の意志は、「わたし」のなかに生き、わたしの永遠の意志をまとうから、感覚的意志は存続することができないのである。
 まことに第三の階投に達した霊魂、すなわち口に達した霊魂は、このようになる。霊魂がそこに達したしるしは、自分自身の意志を棄てて、わたしの「仁愛」の心地よさを味わい、そうすることによって、口のなかで、平和と安息とを見出すことである。あなたも知っているように、平和は口に宿る。それで、霊魂は、この第三の状態で、なにものも乱すことのできない平和を見出す。霊魂は自分自身の意志を棄て、これを否定したために安息する。この意志が死亡したために、平和と静安とが与えられる。
 この状態に達した人々は、隣人に対する諸善徳を、苦しむことなく出産する。かれらの苦しみが苦しみでなくなるわけではない。しかし、感覚的意志が死滅しているので、もはやそれを感じない。それで、わたしの名のために、喜んでこれを堪えしのぶのである。
 このような人々は、十字架につけられたキリストの教えの道を、速度をゆるめることなく走りつづける。加えられる侮辱によっても、その他の迫害によっても、あるいはまた、世俗が与えようとするたのしみに出会っても、速度をゆるめることがない。すべてをまことの力と堅忍とによって乗り越え、わたしの仁愛の情愛によってその愛情をおおい、霊魂の救いという食物を、真実で完全な忍耐をもって味わう。この忍耐は、霊魂が、自分の利得を考えないで、完全に愛していることを示すしるしである。もしもかれらが、自分の利益のためにしかわたしと隣人とを愛さないならば、このように忍耐することができないであろうし、その速度をゆるめるにちがいない。
 しかし、かれらは、「わたし」をわたし自身のために愛する。わたしは至高の「いつくしみ」であり、愛するにふさわしいからである。かれらが自分自身を愛するのは「わたし」のためである。かれらが隣人を愛するのも「わたし」のためであり、わたしの名に栄光と賛美とを帰するためである。それゆえ、かれらは、苦しみを堪えるにあたって、忍耐深く、強く、堅忍不抜である。

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