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8.完全な愛

第79章

神は、完全な者からその恩寵あるいはその現存の自覚を取りあげることによって離れることはないが、ときどき一致を中断することについて。

 すでに話したように、このきわめて完全な霊魂たちは、自分のなかにわたしが現存するという自覚を失うことは決してない。しかし、わたしは他の方法でかれらを離れる。そのわけは、霊魂は、肉体と結びついているかぎり、わたしが霊魂に自分を示してこれと結ぶ一致を、引きつづき堪えることができないからである。わたしが離れるのは霊魂の力を考えてのことである。わたしは、霊魂からわたしの恩寵もわたしの現存の自覚も取りあげることはない。ただ霊魂とわたしとの一致 (7) を中断するだけである。
 霊魂は、望みから生ずる苦悩にかられて立ちあがり、十字架にかけられたキリストの教えの橋を雄々しく走る。門につくと、その精神はわたしにむかって飛躍する。霊魂は、「血」に養われ、酔わされ、愛の火に燃えて、わたしのなかに永遠の「神性」を味わう。霊魂はこの平和の「大洋」のなかに沈む。そして、その精神は「わたし」のなかにしか動くことがない。霊魂は、まだ死ぬべきものであるけれども、不滅な者たちの幸福をたのしむ。そして、その肉体の重量を感じながらも、精神の軽快さを授かる。それで、肉体はしばしば地面から浮上する。それは、霊魂がわたしと結んだ一致により、肉体がその重量を失って軽くなったためである。
 しかし、その重力を失ったわけではない。ただ、霊魂のわたしとの一致が肉体と霊魂との一致よりも完全であるために、わたしのなかに集中した精神の力が肉体の重量を地面から浮上させるのである。肉体は、霊魂の愛によって、すっかり打ちひしがれ、じっとして動かない。それは、あなたがわたしの被造物のあるものについて言われているのを耳にしたように、わたしの「いつくしみ」が、その「力」によってしっかりと支えなければ、生きつづけることができないほどである。(8)
 このわたしとの一致の状態においても、霊魂は肉体を離れない。それは、知っておいてほしいが、何人かの死体が復活するのを見るよりも大きな奇跡である。それで、わたしは、しばらくのあいだ、この一致を中断して、霊魂がその肉体の器に戻ることができるようにするのである。つまり、霊魂の内的感情によって中断させられていたその肉体の感覚が、ふたたび戻されるのである。事実、霊魂はその肉体を離れたわけではない。死によってしか、実際に離れることはない。しかし、霊魂の諸能力と感情とは、愛によってわたしのなかに吸収されているので、肉体の意識をもたなくなったのである。この状態においては、記憶はわたしによってしか満たされていない。高くあげられている知性は、わたしの「真理」しか見つめない。知性に従う意志は、知性が観想するものを愛し、これと一致する。
 これらの能力は、わたしのなかに統合され、わたしのなかに沈められ、わたしのなかに焼きつくされているので、肉体は感覚をまったく失うのである。目は見ても見えず、耳は聞いても聞こえず、舌は話しても話さない。ただ、舌は、わたしの許可によって、わたしの名の栄光と賛美とのために、心に満ちあふれているものを吐露することがある (9) 。しかし、このような例外を除くならば、舌は話しても話さず、手はさわってもさわらず、足は歩いても歩かない。すべての肢体は愛のくさりと感情とにしばられ、捕えられている。このくさりは、肢体をすっかり理性に従わせ、霊魂の感情にしっかりと一致させているので、肢体はひとつの声となり、その固有の本性に反して、永遠の「父」であるわたしにむかって叫び、肉体を霊魂から、霊魂を肉体から引き離すように願う。栄光にかがやくパウロとともに、わたしにむかって、「わたしはなんとみじめであろう。だれがわたしの体からわたしを離してくれるのか。なぜなら、そのなかに邪悪な法則があって精神に反抗しているからだ」(10) と叫ぶのである。
 パウロは、ただ、感覚的欲求の精神に対する反抗について話したのではない。なぜなら、わたしがかれに、「パウロよ、あなたにはわたしの恩寵で十分だ」と言ったとき、わたしの言葉がこの点についてかれを安心させたからである。それではなぜ、あのように言ったのであろうか。肉体の器にしばられているために、もっと長いあいだ、わたしを見ることができないからである。かれの目は、死ぬまでさえぎられていて、永遠の三位一体であるわたしを、わたしの名に絶えず栄光と賛美をささげている不滅な至福者たちのように、見神のなかで、熟視することができなかった。つまり、かれは、わたしを見ること、わたしをわたしの「本質」のなかで見ることができないために、いつもわたしに背いている死ぬべき人々のなかにいるのを嘆いたのである。
 パウロ自身も、わたしの他のしもべたちも、わたしを見ないとか、わたしを味わわないとかいうのではない。しかし、かれらは、わたしの「本質」のなかでわたしを見、わたしを味わうのではなく、ただ、わたしの「仁愛」の情愛のなかでそうするのである。この情愛は、わたしの「いつくしみ」が自分自身をかれらに示したいと思うとき、さまざまの方法で示される。しかし、霊魂が死ぬべき肉体のなかにあるあいだに授かる見神は、みな、肉体から離れた霊魂がたのしむ見神にくらべて、暗いことに変わりがない。それで、パウロには、感覚的な印象が精神の目を妨害し、肉体のまったく人間的で粗野な感覚が、知性の目をさまたげて、わたしをまともに熟視することができないと思われたし、かれの意志はしばられていて、望みどおりにわたしを愛することができないように見えたのである。それというのも、この世においては、どんな愛も、その完成に達するまでは不完全だからである。
 だからと言って、パウロの愛は、わたしの他のしもべたちの愛と同じように、恩寵あるいは仁愛から見て不完全であったわけではない。かれの仁愛は完全であったが、満たされていなかったという意味で不完全であった。かれの苦しみはそこから生まれた。望みが愛するものを所有することによって完全に満たされるときは、苦しみはなくなる。しかし、愛は、死ぬべき肉体のなかにあるかぎり、愛する「者」を完全に所有していないので、苦しむのである。
 霊魂が肉体から離れると、その望みは満たされる。そして、苦しむことなく愛する。そうなると、霊魂は満たされ、しかも、飽きることがない。なぜなら、満ち足りていても、いつも飢えているし、しかも、飢えに苦しむことがないからである。霊魂が肉体から離れると、その器は、わたしのなかで、真実に満たされる。しかも、霊魂は確固不変であるから、なにを望んでも、かなえられないことはない。霊魂はわたしを見たいと望む。そして、わたしをまともに熟視する。わたしの聖者たちのなかに、わたしの名の栄光と賛美とを見たいと望む。そして、あるいは天使の本性のなかに、あるいは人間の本性のなかに、これを見るのである。

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