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8.完全な愛

第85章

この一致の状態に達した者は、注賦された超自然的光明により、神の特別な恩寵によって、その知性が照らされることについて。──霊魂の救いのためには、傲慢な学者の意見に従うよりは、聖なる良心をもつ謙遜な人の意見に従う方が、もっと有益であることについて。

 トマス (17) は、その知性の目を照らしたこの光明によってわたしを見、かずかずの学識の光明を獲得した。アウグスティヌスも、ヒエロニムスも、他の博士たちも、わたしの聖人たちも同じであった。かれらは、わたしの「真理」に照らされ、暗黒のなかで、わたしの「真理」を理解し、認識した。かれらは聖書をあきらかに理解した。聖書は、これを理解することのできない者には暗く見えるが、それは聖書の欠陥によるのではなく、これを理解すべき人々の欠陥による。それゆえ、わたしは、すでに話したとおり、以上のような燈明を送って、盲目で粗野な精神を照らし、かれらの知性の目を高めて、暗黒のなかで「真理」を認識させたのである。かれらの犠牲を焼きつくした火であるわたしは、かれらをわたしのなかに抱き取って、かれらに、自然的光明ではなく、超自然的光明を与えた。かれらは、この光明を暗黒のなかで授かり、それによって、わたしの「真理」を認識した。
 この「真理」は、以前には暗く思われていたが、いまは、きわめて完全な光明によって、粗野な精神にも、明敏な精神にも、また、どんな人にも、明白に示される。そして、各人はその能力に応じて、また、わたしを知ろうとする心構えに応じて、これを授かる。なぜなら、わたしは心構えを考慮するからである。要するに、知性の目は、恩寵によって注賦された光明を授かった。この光明は自然の光明よりも高等なもので、これによって、博士たちと他の聖人たちは、暗黒のなかに光明を認めた。このようにして、暗黒から光明があらわれた。それというのも、知性は聖書が出来る前に存在したのであって、このようにして照らされた知性から学問が生まれたからである。知性は見ることによって真理を識別するのである。
 この光明によって、聖なる族長たちは識別し、理解したし、預言者たちは、わたしの「子」の誕生と死とを預言した。使徒たちは、聖霊降臨のとき、自然の光明の上に授かったこの光明によって照らされた。福音著者、博士、公奉者、乙女、殉教者もみな、この完全な光明によって照らされたのであった。しかし、各人はちがった方法でこれを授かった。すなわち、各人の救いの要求、あるいは他の被造物の救いの要求、あるいはまた聖書を説明する要求に応じて、この光明を与えられた。聖博士たちは、この光明に照らされ、その学識によって、わたしの「真理」の教え、使徒たちの説教、福音の教えを解説した。殉教者たちは、この光明に照らされ、その血によって至聖なる信仰、「子羊」の「血」の実と宝とを証した。乙女たちは、この光明によって、仁愛の情念と純潔とを守った。服従者たちは、この光明に照らされて、「言葉」の服従を証す。すなわち、服従の完全性を示す。この服従の完全性は、わたしの「真理」が、わたしの命令を実行するために、十字架の屈辱的な死におもむいたとき、かがやかしく示されたのであった。
 この光明は、旧約と新約とのなかにかがやいている。旧約においては、聖なる預言者たちの預言がこれを示している。かれらは、すでに話したように、自然的光明の上にわたしの恩寵によって注賦された光明に照らされた知性の目でこれを見、これを知ったのである。
 新約においては、福音的生活はなにによってキリスト教徒に教示されたであろうか。この同じ光明によってである。新しい律法は古い律法を破壊しなかった。両者はたがいに結合している。全く同一の光明から発しているからである。ただ、恐れだけの上にきずかれた古い律法の欠点を除いただけである。
 わたしの「ひとり子」、「言葉」が愛の律法をたずさえて来たとき、古い律法に愛を与えて、これを完成した。かれは罰に対する恐れを除いて、聖なる恐れだけを残した。それゆえ、わたしの「真理」は、律法を廃止しないことを弟子たちに示すために、「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」(18) と語った。わたしの「真理」のこの言葉は、つぎのように言いかえることができる。「いまや律法は不完全である。しかし、わたしは、わたしの『血』によってこれを完成するであろう。律法から罰に対する恐れを除き、これを愛と聖なる恐れとの上にきずいて、その欠陥を補い、これを完成するであろう」。
 それが真理であることは、なにが証明するであろうか。恩寵によって与えられる光明である。この光明は、自然の光明の上にこれを受けたいと望む者には与えられたし、こののちも与えられる。聖書から発する光明はすべてこの光明から発したし、こののちも発する。無知な者と傲慢な学者とは、これを見ることができない。なぜなら、かれらの傲慢と自愛心の雲とがこの光明をおおい、かくすからである。かれらは聖書の意味を理解しないで、その文面だけを理解する。かれらは書物を読みあさる結果、文面しか味わわない。したがって聖書の真髄を味わうことができない。なぜなら、聖書を著作した光明、その意味をあきらかにする光明をもたないからである。かれらは、教養がなく聖書について知識のない多くの人々が、長いあいだ研究したかのように、真理の知識にあかるいのを見ると、驚きあやしむ。しかし、それは少しも不思議ではない。かれらは学問の生まれる光明の主要なみなもとを所有しているからである。ところが、傲慢な人々はこの光明を失っているので、わたしの「いつくしみ」も、わたしのしもべたちに恩寵によって注賦されたこの光明も、見ること認識することができない。
 それゆえ、霊魂の救いについて意見を求めるには、その多くの学識によって傲慢になっている博学者よりは、まっすぐで聖なる良心をもつ謙遜な一人の無学者に依頼するのがはるかに適当であると言いたい。前者は自分のもっているものしか与えることができないし、多くの場合、暗黒のなかに生きているために、この暗黒のなかでしか、聖書の光明を分かち与えることができない。これに反し、わたしのしもべたちは、霊魂の救いを望み、これに飢えているので、自分自身のなかに所有している光明を与えるにちがいない。
 いとしいむすめよ、以上のことを語ったのは、この一致の状態が完全であることをあなたに認識させるためである。この状態においては、知性の目は超自然的光明を与えるわたしの「仁愛」の火に奪われているし、この光明によってわたしを愛する。なぜなら、愛は知性のあとに従うからである。知れば知るほど愛するし、愛すれば愛するほど知る。愛と知識とはたがいに養い合うのである。肉体を離れた霊魂は、この光明をもつて、永遠の見神に到達し、そこでまことにわたしを見、わたしを味わう。これは、霊魂がわたしのなかで受ける至福について述べたとき、話したとおりである。
 人間が、死ぬべき者でありながら、不滅者の喜びを分かつきわめてすぐれた状態は以上のとおりである。霊魂は、ときどき、「わたし」とのきわめて密接な一致に達し、まだ肉体のなかにいるのか、これを去ったのかを知るのに、苦しむ。わたしとの一致は、この霊魂に永遠の生命の前味わいを与える。この霊魂は自分の意志を死滅させることによって、わたしとの一致を達成した。わたしと完全に一致するには他に方法がないからである。
 それゆえ、霊魂はその我意の地獄から解放されたとき、永遠の生命を味わうことができる。しかし、感覚的意志によって生きる者は、地獄の前味わいをおこなうのである。

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