< 戻る

目 次

進む >

9.涙の霊性

第89章

霊魂の種々の状態に対応する涙の種類について。

 ところで、涙はみな心から発することを知ってほしい。なぜなら、体の器官のなかで、目ほど心を満足させるものはないからである。心が苦しむときは、目はこれを表現する。その悲しみが官能的であるならば、心は目に死を生む涙を流させる。なぜなら、この涙は、みだらな愛を抱く心から、しかも「わたし」の外で、発するからである。ところで、みだらな愛はわたしに背くし、それから発する悲しみも涙も死にいたるものである。もっとも、過失と涙との重さは、愛のみだれの程度によって、大小の差がありうる。しかし、これまで話したこと、のちに話すこと (1) は、死にいたる涙、すなわち第一の涙についてである。
 つぎに、生命を与えはじめる涙、すなわち、自分の過失を知って、罰を恐れるあまり、泣き始める人々の涙に注目してほしい。このような心の涙は、感性から発する。霊魂は、その過失によってわたしに加えた侮辱を思って、この過失に対する完全な憎しみを抱いているのではなく、罪を犯したのち加えられる罰による心の悲しみに動かされているだけである。そして、目は涙を流すとき、この心の悲しみをいやそうとしているにすぎない。
 しかし、霊魂は、善徳を修めるにつれて、徐々に恐れから解放される。なぜなら、恐れだけでは永遠の生命を与えるのに十分でないことを知るからである。これは、霊魂の第二の状態と関連して、あなたに説明したとおりである。要するに、霊魂は、愛によって、自分自身の認識と自分のなかにあるわたしの「いつくしみ」との認識に上昇し、わたしのあわれみに希望を抱く。この希望は心に喜びを与える。わたしの神的あわれみに対する希望から生まれるこの喜びに、過失に対する痛悔がまじる。すると、目は涙を流しはじめる。この涙は心の泉から湧き出る。しかし、霊魂は高い完全性に達していないために、その流す涙にしばしば感性的なものがまじっている。あなたは、「どういうわけで」とたずねるかもしれない。わたしは答えたい。それは、自愛心の根が抜き去られていないからである。わたしは、感覚的愛について言っているのではない。なぜなら、それはわたしが話した方法で克服されているからである。しかし、霊的な自愛心が残っている。そのため、霊魂はなぐさめを利己的に要求する。それが不完全であることは、くわしく説明したとおりである。霊魂は、また、霊的な愛によって愛している被造物から与えられるなぐさめを要求する。
 それで、霊魂が、愛するもの、すなわち内外のなぐさめ──「わたし」から来る内的ななぐさめ、あるいは被造物から来る外的ななぐさめ──を奪われ、誘惑あるいは人々の迫害の的となっているときは、その心は苦しむ。するとたちまち、目は心の苦しみと悲しみとに共感して泣きはじめる。それは霊魂が自分自身に対する愛と同情とによって流す涙である。霊的な同情によるものであることはたしかであるが、自愛心と結びついていることに変わりはない。霊魂はまだその我意を完全に踏みにじり、拒否していない。そのため、この官能的涙、すなわち霊的情欲の涙を流すのである。
 しかし、霊魂は、自分自身の認識の光明を高め、修練を積むにつれて、自分自身に対して侮蔑の念を抱くようになる。それと同時に、わたしの「いつくしみ」の認識に達し、その愛は燃えさかる。そうなると、その意志をわたしの意志に一致させ、適合させはじめる。そして、喜びと同情とを感じはじめる。そのとき霊魂が感じる喜びはわたしを愛する喜びであり、同情は隣人に対する同情である。これは第三の状態と関連して説明したとおりである。そうなると、目は、心を満足させるために、「わたし」とその隣人とに対して抱く仁愛のなかで泣き、わたしに加えた侮辱と隣人の亡びとを、真心の愛によって悲しむ。霊魂は、自分自身の苦しみや損失を悔やまない。自分のことを考えず、ただ、わたしの名に栄光と賛美とをささげることしか考えない。そして、その望みによる苦悩のなかで、わたしの「ひとり子」、汚れなく、謙遜で、忍耐深い「子羊」にあやかるために、至聖なる十字架の食卓で飢えを満たすことが許されるのを喜ぶ。すでに話したように、この「子羊」こそわたしが架けた橋である。
 霊魂は、この橋を、わたしの甘美な「真理」の教えにしたがって、きわめて心地よく歩いたのち、わたしがその救いのために送ったすべての苦しみ、すべての悩みを、まことの心地よい忍耐をもって堪えながら、この「言葉」を通ったのである。こののちは、これらの苦しみや悩みを雄々しく受諾し、選り好みをしない。すでに話したように、これを忍耐をもって甘受するだけではなく、喜び勇んでむかえる。そして、わたしの名のために迫害されるのを光栄に思い、なにか苦しむことがありさえすればしあわせである。そうなれば、霊魂は、どんな言葉も言いあらわすことのできないほど大きな喜びと静安とに満たされる。
 霊魂は、私の「ひとり子」の教えによって、この「言葉」を通り、その知性の目をもって第一の甘美な「真理」であるわたしを注視すると、自分が見たものを認識するようになる。これを認識することによってこれを愛する。その愛は知性のあとに従い、あなたがその人性に一致しているわたしの永遠の「神性」を味わう。そうなると、霊魂は、平和の「大洋」であるわたしのなかにいこい、その心は愛の情念によってわたしに一致する。これは第四の一致の状態について話したとき述べたとおりである。永遠の「神性」であるわたしの現存の実感のなかで、目は心地よい涙を流しはじめる。この涙はまことに乳であって、霊魂はまことの忍耐のなかでこれを飲む。この涙は香り高い香油のように、きわめて心地よい芳香を放つ。
 ああ、いとしいむすめよ、実際に嵐の海を渡って、平和の「大洋」であるわたしに達し、わたしの至高かつ永遠の「神性」の海のなかで、心の器を満たすことのできるこの霊魂は、どんなに栄光にかがやくことであろうか。それゆえ、心が流れ入る目は、たくみに心を満足させ、涙を流すのである。
 これが最後の状態である。そこで、霊魂は至福であると同時に悲歎にくれる。至福であるのは、わたしとの一致を成しとげ、わたしの現存を実感し、神の愛を味わっているからである。悲歎にくれるのは、自分自身とわたしとの認識のなかで観想し、玩味し、それによってこの最後の状態に達したわたしの「いつくしみ」と「偉大さ」とに対して加えられる侮辱のためである。きわめて心地よい涙を流させるこの一致の状態は、自分自身の認識と隣人に対する仁愛との障害にはならない。霊魂は、神のあわれみに対する愛に泣くと同時に、隣人の罪に対する悲しみに泣く。泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶ (2) 。このような人々は仁愛に生きる人々である。霊魂は、わたしのしもべたちが、わたしの名に栄光と賛美とをささげるのを見て、かれらとともに喜ぶ。
 第二の涙、すなわち第三の状態の涙は、最後の涙、すなわち第四の涙(一致の状態の第二段階の涙)の障害にはならない。むしろ、その香味である。もしも、霊魂が、わたしとの一致のなかで見出した最後の涙が、第二の涙、すなわち隣人に対する仁愛のために流す第三の状態の涙から生まれていないならば、完全ではないであろう。両者はたがいにまじり合っていなければならない。さもなければ、霊魂は思いあがりにおちいるにちがいないし、虚栄の微妙な息吹きが、霊魂を高い所から、最初に罪を吐き出した下賎な状態に転落させるにちがいない。
 それゆえ、霊魂は、隣人に対する仁愛と自分自身のまことの認識とを保ちつづけなければならない。そして、これによって、わたしの仁愛の火を自分自身のうちに養わなければならない。事実、隣人に対して抱く仁愛は、「わたし」に対して抱く仁愛から生まれる。すなわち、霊魂が自分を認識し、自分のなかにわたしの「いつくしみ」を認識するあの認識から生まれる。この認識によって、霊魂は、わたしがこの霊魂を言葉につくせないほど愛していることをさとる。そして、自分が愛されているこの愛によって、すべての理性的被造物を愛する。このような理由によって、霊魂はわたしを認識するやいなや、その愛をひろげて、隣人を愛する。霊魂はこれを見るやいなや、言葉につくせないほどこれを愛する。わたしがこれをますます愛するのを見て、これを愛するのである。
 つぎに、霊魂は、自分がわたしになんの利益ももたらすことができないこと、自分に対するわたしのこの純粋な愛を、わたしに返すことができないことを知る。そこで、わたしが与えた手段によって、すなわち、あなたがたが奉仕しなければならない隣人に対して、愛を返すよう努める。すでに話したように、善徳は、隣人を介して実行される。しかも、すべての人に対して、一般的にも個別的にも、そしてまた、わたしから受け、その分配を委託された種々の恩寵に応じて、実行される。あなたがたは、わたしがあなたがたを愛した純粋な愛によって愛さなければならない。しかし、それをわたしに対して実行することができない。なぜなら、わたしは、あなたがたから愛されることなく、また、利得を考えることなく。あなたがたを愛したからである。わたしは、あなたがたが生まれる前にあなたがたを愛し、愛に動かされて、あなたがたをわたしの似姿として創造した。ところで、あなたがたは、この愛をわたしに返すことができない。それで、理性をそなえた被造物によってこれを返さなければならない。かれらを、愛されなくとも愛し、地上的あるいは霊的な個人の利益を一切あてにしないで、もっぱら、わたしの名の栄光と賛美とのために、愛さなければならない。わたしがかれらを愛するからである。このようにして、万事に越えてわたしを愛し、隣人をあなたがた自身のように愛せよという律法の掟を実行することができるのである。
 事実、霊魂は、この第二の状態、すなわち、第三の状態の第二の一致に達しないならば、この高い境地に達することができない。しかしまた、そこに達しても、第二の涙 (3) を生ずる愛から遠ざかるならば、これを持続することができない。隣人に関する掟を守らなければ、永遠の神であるわたしに関する掟を実行することは不可能である。これは愛の二本の足であって、これによってすでに話したように、わたしの「真理」、十字架につけられたキリストがあなたがたに与えた掟と勧めとの道を歩むのである。
 この二つの状態は一つになって、霊魂を善徳のなかにやしない、その完全性を高め、霊魂と「わたし」との一致をますます親密なものとなす。この地点に達すると、霊魂は状態を変えることがない。同じ状態のなかで、恩寵の宝が、新しい多様なたまものにより、感嘆すべき高揚によって、増大するのを見る。これによって、霊魂は、すでに話したように、死すべき者によりは不滅な者にふさわしいように思われる「真理」の認識を与えられる。なぜなら、わたしと結んだ一致によって、利己的な官能は亡び、意志は死滅しているからである。
 ああ、この一致は、これをたのしむ霊魂にとって、どんなに心地よいものであろうか。なぜなら、これをたのしみながら、わたしの秘密をさとるからである。この霊魂は、しばしば、未来のものごとを知ることのできる預言の精神を授かる。これはわたしの「いつくしみ」の恩恵である。しかし、謙遜な霊魂はいつもこれを軽視しなければならない。わたしの仁愛によって与えられるたまものではなく、利己的ななぐさめに対する欲求を軽視しなければならない。それは、内的な善徳にもっと成長するために、自分を精神の平和と安息とにふさわしくない者と見なさなければならないからである。それはまた、この第二の状態に安住しないで (4) 、自分自身の認識の谷間にくだらなければならないからである。
 以上の特殊な光明は、霊魂が絶えず成長することができるように、わたしが与える恩寵である。なぜなら、霊魂は、この世では、愛のもっとも高い完全性に上昇する余地がないほど完全ではないからである。これ以上完全になることができない者は、あなたがたのかしら、わたしのいとも親愛な「ひとり子」だけである。なぜなら、かれはわたしと一つであり、わたしはかれと一つだからである。それゆえ、かれの霊魂はわたしの神性との一致によって至福化されていた。しかし、その肢体であるあなたがた、旅人であるあなたがたは、絶えず高い完全性に達することができる。すでに話したように、それによって別の状態に上昇するのではない。この状態こそ達することのできる最高の状態だからである。しかし、あなたがたは、望むならば、わたしの恩寵の助けによって、この状態の完全性を絶えず発展させることができるのである。

< 戻る

目 次

進む >

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system