< 戻る

目 次

進む >

9.涙の霊性

第91章

目の涙を望んで得られない人々も、火の涙を抱くことができることについて。──神はなぜ肉体的涙を取りあげるかについて。

 わたしはあなたに、完全な涙と不安全な涙とについて語った。そして、涙はすべて心から発することについて述べた。涙はすべて、どんな理由によるものであっても、この器から発する。したがって、涙はすべて心の涙と呼ぶことができる。ただ、それを発生させる愛情によってちがいがあるだけである。涙が規律のある愛あるいは不規律な愛、完全な愛あるいは不完全な愛によってちがうことは、すでに話したとおりである。
 これから、あなたの望みに、そして、涙の完全性を願っても得られないように思っている一部の人々の望みに、答えなければならない。さて、目から流れる涙とはちがった種類の涙があるであろうか。たしかにある。火の涙がこれである。すなわち、かれらを愛で焼きつくすまことの聖なる望みがこれである。かれらは、自分自身に対する憎しみと霊魂の救いに対する熱望とによって、その生命を溶かして涙にかえたいと願うけれども、成功することができないように思う。
 このような人々は、たしかに、聖霊が「わたし」の前で、かれらのために、またかれらの隣人のために泣いて流す火の涙を抱いている。すなわち、わたしの神的「仁愛」は、目に涙をためなくとも、わたしの前に、熱烈な望みをささげる霊魂を燃えさからせる。それが火の涙である。そして、繰りかえして言うが、聖霊がそれを流すのである。このような人々は、目から涙を流すことができないので、意志がわたしに対する愛のために起こした望みを、わたしにささげる。もし、かれらが知性の目を開くならば、わたしのしもべたちが、その謙遜で絶え間ない祈りのなかで、聖なる望みの芳香を、わたしの前で放つときは、かれらによって聖霊が涙を流しているのを見ることができるであろう。これは、光栄ある使徒パウロが、聖霊は、「父」であるわたしに、あなたがたのために、「言い知れぬ嘆きによって」、哀願している (5) と言ったとき、理解させたかったことではないだろうか。
 よくわかったと思うが、火の涙の実は、水の涙の実に劣るものではない。愛の程度によっては、しばしば、もっと偉大でさえありうる。それゆえ、霊魂は、精神を乱したり、わたしの現存を失っているのではないかと心配したりしてはならない。なぜなら、霊魂は、その望む涙を、思いどおりに流すことができないからである。霊魂は、わたしの意志と一致した意志をもって、「諾」と「否」とに服し、わたしの神的な「いつくしみ」の好むところに従って、これを願わなければならない。時として、わたしは、霊魂が、謙遜に、また、継続した祈りのなかで、わたしを味わいたいという望みをもって、絶えずわたしの前にいることができるように、この肉体的な涙を与えることを拒む。霊魂にとって、願っているものを獲得するのは、思っているほど大きな役に立たない。望んだものを所有したのを満足に思い、これを願わせた情愛と望みとに弛みが生ずる恐れがある。霊魂は、これを所有しないからと言って、貧困にはならない。目が流したいと思うこの外的な涙を与えないのは、その進歩のためであって、これを貧困にするためではなく、そのため、わたし自身自制しているのである。また、そのため、わたしの神的仁愛の火に燃えさかる心が流す内的涙しか与えないのである。この涙は、信仰の光に照らされた知性の目が、愛の情念をもって、わたしの永遠の「真理」を見つめているかぎり、どんな状態においても、どんな時にも、わたしを喜ばせる。わたしは医師であって、あなたがたは病人である。あなたがたの必要と要求とに応じて、あなたがたの救いとあなたがたの霊魂の完全性の成長とに必要なものを与えるのは、わたしの務めである。
 以上が真理である。以上が、永遠の「真理」であるわたしが、いとしいむすめであるあなたにおこなった涙の五つの状態に関する説明である。どうか、十字架につけられたキリスト、きわめて謙遜で、汚れのない「子羊」の血に浸ってほしい。そして、絶えず善徳に進歩して、わたしの神的仁愛の火を、あなたのなかに燃えさからせてほしい。

< 戻る

目 次

進む >

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system