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9.涙の霊性

第92章

この五種類の涙のうち、四つは限りなく多様であることについて。──神は無限の「存在」として奉仕されたいと望むことについて。

 これまで話した五種類の涙は、五つの主な運河のようなものである。そのなかの四つは、豊富で無限な多様性をふくんでいる。そして、すでに話したように、善徳にかなって流されるときは、みな生命を与える。無限というのはどういうことであろうか。無限というのは、あなたがたが流す涙が、それ自体無限であるという意味ではない。わたしがこれを無限というのは、これを流させる霊魂の望みが無限だからである。
 さきに、涙は心から発すること、心は、熟い望みのなかにこれを溜めたのち、目に伝達することを説明した。生木を火に投げ入れるときは、火の熱によって涙を流す。生木だからである。枯れた木であれば、嘆きを発することはないであろう。心は、霊魂を乾燥させる自愛心の不毛な状態から脱げ出させる恩寵のはたらきのもとで、ふたたび若がえる。火と涙とは、燃えるような望みによって、一つになる。この望みは決して終わることがないから、この世では満たされることがない。しかし、霊魂は、愛すれば愛するほど、愛が足りないように思う。それで、仁愛にもとづくこの聖なる望みを起こす。この望みによって、目は涙を流すのである。
 霊魂は、肉体から離れて、その目的である「わたし」に達したのちも、わたしを望むことを止めるわけではない。わたしに対する望みも、隣人に対する愛も放棄したわけではない。仁愛は、「女王」のように、他のすべての善徳の実をたずさえて、天に入ったのである。たしかに、苦しみは終わった。なぜなら、すでに話したように、霊魂はわたしを望むけれども、わたしを疑いなく所有していて、あれほど長いあいだ望んでいたものを失う恐れは少しもないからである。それでも、その餓えはいつも燃えさかる。餓えるけれども満たされる。そして、満たされながらいつも餓える。しかし、霊魂は、満足の倦怠も、餓えの苦痛も感じない。なぜなら、どんな完全性も欠けることがないからである。
 要するに、あなたがたの望みは無限である。もし、あなたがたが、わたしに仕えるのに、限られたものしかもたないとしたら、どんな善徳も、永遠の生命にとって、価値がないであろう。わたしは無限の神であって、無限なものをもって仕えられたいのであるが、あなたがたは、霊魂の愛と望み以外に無限なものをもたないのである。このような意味で、わたしは、涙には無限の多様性があると言ったのである。これ以上真実なことはない。それというのも、すでに話したように、この涙と一体をなす望みが無限だからである。
 霊魂が肉体を去ったのち、涙は外に残る。しかし、神的仁愛の情愛は涙の実を吸収して、これをそのなかに焼きつくしている。ちょうど、かまどの中にある水が火に焼きつくされ、熱火のなかに吸収されるのと同じである。これと同じょうに、霊魂は、神的仁愛の火を感じるまでになり、「わたし」と隣人とに対する仁愛、涙を流させていたこの一致の愛を抱いてこの世を去っても、至福なる望みと苦しみをともなわない涙とをささげる。その涙は目の涙ではない。それは、すでに話したように、熱火のなかに焼きつくされたからである。しかし、それは聖霊の火の涙である。
 以上話したことによって、この涙が無限であることをわかったと思う。現世では、この状態で流す多様な涙を言葉で語りつくすことができない。しかし、この四つの状態の涙の多様性がどのようなものであるかについて、あなたに話したかったのである。

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