< 戻る

目 次

進む >

9.涙の霊性

第94章

世俗的な人々は、四つのちがった風にあおられて涙を流すことについて。

 四つの風がある。繁栄の風、艱難の風、恐れの風、良心の風がこれである。
 繁栄の風は、傲慢と大それた思いあがり、自尊心と隣人に対する侮蔑とをやしなう。もしも、世俗的な人が権力者であるならば、多くの不義、心の空しいおごり、肉体と精神との不浄、自分の名声の追求、および、その結果犯される言葉で語りつくせないほどのその他の過失によって、支配するであろう。この繁栄の風はそれ自体腐敗しているのであろうか。決してそうではない。木の主な根が腐敗していて、すべてのものを腐敗させるのである。なにかをあなたがたに送るのも与えるのも、至善な「存在」であるわたしである。それで、繁栄の風はよいものである。この風が、世俗的な人々にとって涙のもとであるとしたら、その心が満たされていないからである。心が満たされていないのは、得られないものを望むからである。そして、得られないから悲しむのである。この悲しみは涙をさそう。なぜなら、すでに話したように、目は心を満足させたいと思うからである。
 つぎに、奴隷的な恐れの風が吹く。世俗的な人々は、この風の影響によって、自分の影におびえる。それほど、愛するものを失うのを恐れるのである。自分の生命を失うのを恐れ、子供あるいは他の人を失うのを恐れ、自分の地位を失うのを恐れ、自愛心を満足させるその他のものを失うのを恐れ、名誉と富とを失うのを恐れる。この恐れのために喜びを安心して抱くことができない。このような奴隷的な恐れが生まれ、この恐慌が生まれるのは、これらの善をわたしの意志に対する承服のなかで所有していないからである。かれらはみじめにも奴隷になっている。自分を奴隷にしている罪と同じものになっていると見なすことができる。ところが、罪は無である。だから、かれらは無に帰しているのである (7)
 恐れの風がかれらをゆさぶっているあいだに、今度は、かれらが恐れていた艱難と不幸との風が吹いて、所有していたものを、あるときは一部、あるときは全部奪い去る。全部というのは、生命を奪われることであり、死の力によってすべてのものを奪われることである。一部というのは、あるときは一つのもの、あるときは他のものを失うことである。あるいは健康、あるいは子供、あるいは富、あるいは地位、あるいは名誉を失うことである。優しい医師であるわたしは、あなたがたの救いに必要であると判断して、これを送る。しかし、あなたがたの病弱はすっかり悪化していて、自分自身についても、「わたし」についても、なんの認識ももたなくなっているし、忍耐の実を腐敗させている。それで、不忍耐、つまずき、不幸、「わたし」とわたしの被造物とに対する反感しか生むことができない。「わたし」が生命のために与えるものを、死のために受け取る。ところで、喪失の悲しみは、奪われた善に対して抱いていた愛に比例するのである。
 こうして、不忍耐と苦悩との涙を流す羽目になるのであるが、この涙は、霊魂を枯渇させ、恩寵の生命を奪ってこれを殺し、肉体も枯渇消耗させ、精神も肉体も盲目にする。その結果、かれらは、すべての喜びを奪われ、希望を失う。なぜなら、かれらに喜びを与えていたもの、かれらが愛と希望と信仰とを託していたものを失うからである。そのため、泣くのである。たしかに、このような悲しむべき結果を招いたのは、涙だけではない。涙は、みだらな愛と心の悲しみとから流れ出るのである。目から落ちる涙は、それ自体死も苦罰も与えることはない。むしろ、この涙が流れ出る根源、すなわち、心のみだらな自愛心が、死と苦罰とを与えるのである。もしも、心が立派に規正されていて、恩寵の生命をもっているならば、涙も正しく、永遠の神であるわたしに、あわれみを施さざるをえないように仕向けるにちがいない。それでは、わたしはなぜ、世俗的な人々の涙は死を与える涙であると言ったのであろうか。それは、涙は、心のなかに死があるか生命があるかを知らせる使者だからである。
 わたしは、良心の風が吹くと言った。これは、わたしの神的「いつくしみ」が起こす風である。わたしは、繁栄を通じ、愛によって、かれらをわたしに引き寄せようと試みた。かれらを、心の動揺と不安とによって、みだらな愛を去って、善徳によって愛するようにみちびくために、恐れによって試みた。わたしはまた、かれらに世のはかなさと頼りなさとをさとらせるために、艱難によって試みた。しかし、ある人々にとって、このようなものは役に立たない。それで、あなたがたを言葉に言い表わせないほど愛するわたしは、他の人々に、良心の苛責を送る。それは、かれらに口を開かせ、聖なる告白によって、罪の汚物を吐き出させるためである。ところが、かれらは、頑迷で、その悪業のゆえにわたしから完全に見放されているかのように、わたしの恩寵を受け入れることを、絶対に拒絶する。そして、良心の苛責をのがれるために、みじめな快楽によってこれを窒息させるよう努め、わたしとかれらの隣人とを侮蔑する。それというのも、木の根が腐っていて、木全体も同じであるために、かれらにとって、すべてが死因になるのである。それゆえ、すでに話したように、絶えず悲しみ、泣き、嘆くのである。
 もしも、自由意志を使うことができるあいだに、改心しないならば、この一時的な涙からのがれても、終わりのない涙を流すことになるにちがいない。こうして、終わりのあるものが、終わりのないものとなる。なぜなら、この涙は、善徳に対する限りない憎しみによって、すなわち、限りない憎しみから発する望みによって、流されたものだからである。
 この無限の憎しみにかかわらず、まだ自由であるあいだに、もし望んだならば、わたしの恩寵の助けによって、この永遠の涙をまぬかれることができたにちがいない。事実、望みは、霊魂の愛と存在とのいかんによって、無限でありうる。しかし、霊魂のなかにある憎しみと愛とは、そうではない。なぜなら、この世にあるあいだは、望みどおり憎んだり愛したりすることができるからである。
 しかし、善徳に対する愛のなかで死ぬならば、終わることのない幸福を授かるし、憎しみのなかで死ぬならば、終わることのない憎しみにとどまり、永遠の亡びを宣告されるであろう。これは、河におぼれる人々について話したとき、説明したとおりである。そののち、かれらは善を望むことができない。なぜなら、わたしの聖者たちがたがいに味わうわたしのあわれみと兄弟愛とを失っているからであり、この世で巡礼者であり旅人であるあなたがたが、目的すなわち永遠の「生命」であるわたしに達することができるように、わたしがあなたがたに与えた仁愛を失っているからである。
 それゆえ、祈りも、施しも、善業も、かれらに助けをもたらすことができない。かれらは、わたしの神的仁愛の体から切り離された肢体である。それというのも、生きているあいだに、聖なる「教会」の神秘体のなかで、わたしの「ひとり子」、けがれなき「子羊」の「血」を分け与える心地よい権威のもとで、わたしの聖なる掟に服従することを望まなかったからである。それゆえ、永遠の亡びの実を、涙と歯ぎしりとのなかで、受けるのである。
 かれらは、悪魔のなぶり者である。悪魔は、自分が受けた実をかれらに与える。これでわかるように、世俗的な人々の涙は、過ぎ去る時のあいだは、苦しみの実をかれらにもたらすし、死ぬときは、永久に悪魔の仲間にはいらせるのである。

< 戻る

目 次

進む >

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system