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10.光明と分別

第98章

真理において神に奉仕することを願うすべての霊魂にとって、理性の光明が必要であることについて。──まず第一に一般的光明について。

 すると、永遠の神は、この霊魂の渇きと飢え、その純潔な心、ご自分に奉仕する方法をたずねるその望みを深くよみせられて、「いつくしみ」と「あわれみ」とのまなこを、そのうえに注がれ、つぎのように言われた。
 ──いとしいむすめよ、わたしの浄つ配まよ、あなた自身を乗り越え、知性の目を開いて、無限の「いつくしみ」であるわたしと、あなたとわたしの他のしもべたちとに対する名状しがたい「愛」とを観想するがよい。そのうえ、あなたの望みの耳の聴覚を開くがよい。見ないならば聞くことができない。すなわち、知性の目をもって、わたしの「真理」という対象に注目しないならば、わたしの「真理」を聞くことも、認識することもできない。それゆえ、これをもっとよく認識するために、五官の感覚を乗り越えるよう求めるのである。わたしは、あなたの願いと望みとを喜ぶ。それで、あなたを満足させたい。わたしの喜びがあなたがたのゆえに増加するわけではない。なぜなら、わたしは「存在者」であって、あなたがたを成長させるのはわたしであるが、あなたがたは、わたしを成長させることができないからである。しかし、わたしは、わたし自身の喜びのなかで、わたしの被造物の喜びをたのしむのである。──
 すると、この霊魂は、言われた通りに、自分がたずねたことに関する真理を認識するために、自分自身を乗り越えた。そこで、永遠の神は、霊魂に言われた。
 ──これからあなたに話すことを、よりよく理解させるために、まず、まことの「光明」である「わたし」から発する三つの光明について話したい。
 第一は、普通の仁愛のなかにある人々を照らす一般的な光明である。すでに、あちこちで、これについて話す機会があった。しかし、あなたが知りたいと思っていることを、あなたの弱い悟性が、もっとよく理解することができるように、すでに話したことを、繰りかえして話したい。ほかの二つの光明は、世俗を去って、完徳をめざす人々のためである。これについては、あなたがたずねたことを、くわしく説明したい。これまでは、全般的にしか触れなかったからである。
 あなたは、わたしから聞いたことによって、だれも、光明すなわち理性の光明がなければ「真理」の道を歩むことができないことを知っている。この理性の光明は、まことの「光明」であるわたしから授かったものである。この光明は、知性の目とわたしが聖なる洗礼において与えた信仰の光明とによって、あなたがたにやどつている。そして、あなたがたの過失によってしか奪われることがない。あなたがたは、洗礼において、わたしの「ひとり子」の血の功徳によって、「信仰」の形相を授かる。この信仰は、理性の光明のもとに善徳を実行する。理性は信仰の光明に照らされる。そして、信仰は、あなたがたに生命を与え、「真理」の道を歩ませる。この光明によって、まことの「光明」であるわたしに到達する。この光明がなければ、暗黒におちいるにちがいない。
 この光明から発する二つの光明が、あなたがたに必要である。これに第三の光明を加える.べきである。
 第一の光明は、あなたがたを照らして、風のように吹き過ぎる世の事物のはかなさを認識させる。しかし、まず、あなたがた自身のはかなさと、あなたがたの肢体に印刻されている邪悪な律法のゆえにあなたがたの「創造主」であるわたしに反抗する傾きとを認識しないならば、これを認識することができない。もっとも、この律法は、意志の承諾がなければ、どんなに小さい罪も犯させることはできない。しかし、精神に刃向かっていることもたしかである。わたしがこの律法をあなたがたに与えるのは、理性的被造物を敗北させるためでなく、霊魂の善徳を高め、これを試すためである。なぜなら、善徳はその反対によってしか試されないからである。官能は精神と対立する。霊魂は、この官能によって、「創造主」であるわたしに対して抱いている愛を試すのである。いつこれを試すであろうか。憎しみと侮蔑とをもってこれに立ち向かうときである。
 そのうえ、わたしがこの律法を与えたのは、霊魂にまことの謙遜を保たせるためである。わたしは、霊魂をわたしの似姿として造り、これにきわめて高い尊厳と美とを与えたけれども、それと同時に、もっともみにくいものとかかわりを持たせ、邪悪な律法を課し、地の汚泥でつくられた肉体と結合させた。それは、自分の美を見て、傲慢にも、「わたし」に対して頭をもたげることがないようにするためである。それゆえ、この光明を所有する者にとって、肉体のはかなさは、霊魂に謙遜を鼓吹する。傲慢になる理由にならないばかりか、かえって、まことの完全な謙遜の理由になるのである。要するに、この律法は、どんなに攻撃しても、ひとつの罪過も強制的に犯させることができない。かえって、あなたがたに、自分自身を認識させ、それと同時に世のはかなさを認識させる。
 知性の目は、すでに話したように、目の瞳である至聖なる信仰の光明によって、これを見なければならない。この光明は、理性的被造物に、どんな状態に置かれている者にも、普遍的に必要である。これがなければ、恩寵の生命とけがれなき「子羊」の血の実とを分かつことができない。これこそ、すでに話したように、すべての人が例外なく所有しなければならない共通の光明である。これを所有しない者は、亡びの状態にいるということができる。この光明を所有しない者は、なぜ、恩寵を所有することができないのであろうか。それは、この光明を所有しなければ、過失のなかにある悪も、その原因も認識することができないし、したがって、この原因を逃げることも、憎むこともできないからである。そのうえ、このような人は、善と悪の原因、すなわち善徳とを認識することができない。したがって、「善」そのものである「わたし」も、わたしの恩寵とまことの「善」であるわたし自身とを所有する手段としてあなたがたに与えた善徳も、愛すること、望むことができない。
 それゆえ、この光明があなたがたにとってどんなに必要であるかを、わかってほしい。あなたがたの過失は、本質的に、わたしの憎むものを愛し、わたしの愛するものを憎むところにある。わたしは善徳を愛し、悪徳を憎む。悪徳を愛し、善徳を憎む者はわたしを侮辱するし、わたしの恩寵を失う。このような人は、盲目の人のように行動する。悪徳の原因が感覚的な自愛心であることを知らないために、自分自身を憎もうとしない。このような人は、また、悪徳がなんであるか、その結果である悪がなんであるかを知らない。まして、善徳も、善徳をかれに与える「わたし」も、そのなかに見出す生命も、保持すべき尊厳も、善徳を手段として到達することのできる恩寵も知らない。
 これによってもわかるように、かれの盲目がその不幸の原因である。だから、さきに言ったように、この光明を所有することが肝要である。

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