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10.光明と分別

第100章

きわめて完全な第三の光明と、これに到達した霊魂が成しとげる業とについて。──この霊魂があるとき示現を授かり、そのなかで完全な純潔に到達する方法について説明を受けたことについて。──人を裁いてはならないことについて。

 第二の部類に属する完全者とは、第三の状態に達した人々である。かれらは、この光栄ある光明に照らされると、どんな状況においても、完徳を実行する。そして、わたしの許しによって起こることはみな、敬意をもって受諾する。これは、霊魂の第三の状態と一致の状態とについて説明したとき述べたとおりである。かれらは、自分がどんな艱難も、世のつまずきも、受けるにふさわしく、どんな個人的慰めも、どんな善も、奪われるにふさわしいことを認めている。そのうえ、自分は苦しみを受けるにふさわしいと考えているので、この苦しみに与えられる報いを受ける資格がないと思っている。かれらは、この光明のなかで、わたしの永遠の意志を認識し、味わった。この意志は、あなたがたの善しか望まないし、あなたがたが「わたし」のなかで聖化されるためにしか、苦しみを許さない。
 霊魂は一度わたしの意志を認識したら、これをまとう。そののちは、わたしの名の栄光と賛美とのために、その完全な状態を保持し成長させる手段を探すこと以外には、意を用いない。その知性の目は、信仰の光明に照らされて、大きく見開き、わたしの「ひとり子」、十字架につけられたキリストの観想に余念がない。霊魂は、完全者にとっても不完全者にとっても規律であり道であるその教えを愛し、これに従うことに没頭する。霊魂は、優しい「子羊」、わたしの「真理」が完徳の教えを授けるのを見る。そして、これを見ると、この教えに対する愛に燃えさかる。霊魂は、この完徳を、優しい愛の「言葉」、わたしの「ひとり子」のなかに、観想する。かれは、聖なる望みの食卓で、永遠の「父」であるわたしが与えた命令を果たすために、十字架の恥ずべき死をめぎして駆けて行った。かれは、どんな労苦もどんな屈辱もいとわなかったし、あなたがたの忘恩を見ても、あなたがたにもたらした大恩を認識しない無知に出合っても、ユダヤ人の迫害、嘲笑、侮辱、人民の非難と叫びとを前にしても、たじろぐことがなかった。かれは、わたしが、あなたがたを悪魔の手から奪い取り、最悪の奴隷状態から救い出すために、戦場に送ったまことの隊長、まことの騎士として、これらすべての障害を乗り越えたのであった。このようにして、かれは、あなたがたに、道、教え、守るべき規律を与えた。それは、あなたがたが、あれほど熱烈な愛とあなたがたの過失に対する憎しみと悲しみとによって流された貴い「血」の鍵によって、永遠の生命であるわたしの門に達することができるようにするためである。
 あなたがたは、わたしの「子」、愛の優しい「言葉」が、あなたがたに、つぎのように語るのが聞こえないであろうか。「わたしはあなたがたに道を示し、わたしの『血』をもって、あなたがたに門を開いた。わたしの跡に従うのをこれ以上怠ってはならない。自分自身に対する利己的な愛のなかに、道に関する無知のなかに、そして、わたしの方法によってではなく、あなたがたの方法によって、わたしに奉仕するのを選ぶ思いあがりのなかに、すわっていてはならない。このまっすぐな道をあなたがたに示したのは、永遠の『真理』であり、肉となった『言葉』であるわたしである。しかも、わたしは、これをわたしの『血』によって舗装したのである」。
 それゆえ、立ちあがって、この道を歩くがよい。だれも、「かれ」によらないでは、「父」であるわたしのもとに来ることができない。かれは、「平和の大洋」であるわたしに達する道であり、門である。
 霊魂は、この光明を心地よく観想し認識して、味わうようになると、愛に燃えさかり、愛に悩まされて、聖なる望みの食卓へと急ぐ。自分自身を顧みることなく、自分の慰めは、霊的なものも現世的なものも、求めない。すべてをこの光明のなかで、そしてこの光明が与える認識のなかで、所有したいと考え、自分自身の意志を放棄する。そうなると、どんな労苦も、それがどんなところから起こるものであっても、拒まない。苦しみと屈辱、悪魔の攻撃と人々の非難とになやまされても、「十字架」の食卓について離れない。そして、そこで、永遠の「神」であるわたしの誉れと霊魂の救いとを食べる。
 わたしからも被造物からも、報いを求めることがない。そのわけは、自分自身の利得のためにわたしを愛するやとわれ人の愛を脱ぎ棄てて完全な光明をまとい、純潔に専一にわたしを愛し、わたしの名の栄光と賛美しか念願しないからである。わたしに対する奉仕のなかに、自分自身の満足を求めず、隣人に対する奉仕のなかに、自分自身の利得を求めない。ひたすら、純粋な愛によって奉仕する。
 このような人々は、自分自身を失っている。古き人を脱ぎ棄てている。利己的な官能を脱ぎ棄てて、新しき人、すなわち、わたしの「真理」、優しいキリスト・イエスをまとっていて、勇んでその跡に従っている。かれらは、聖なる望みの食卓についている。そして、その体を痛め苦しめるよりは、我意を殺すことに熱誠を注ぐ。たしかに、かれらも肉体を苦しめたにちがいない。しかし、それは主要な念慮ではなかった。我意を殺す一つの手段と考えていたにすぎなかった。これは「わずかの言葉と多くの行為」という箴言を説明したとき話したとおりである。あなたがたも、このようにしなければならない。事実、あなたがたの努力は、主として、意志を殺して、わたしの優しい「真理」、十字架につけられたキリストを探し、その跡に従うことをめざすものでなければならない。そして、わたしの名の誉れと栄光、および霊魂の救いを求めるものでなければならない。
 この心地よい光明に照らされる者はみな、このように実行する。それゆえ、いつも、平和と静安とをたのしむ。なにものにもつまづくことがない。なぜなら、かれらにつまずきをもたらす唯一のもの、すなわち我意を取り除いたからである。世と悪魔とがかれらに対して起こす可能性のある迫害は、こののち、その足に踏みにじられる。かれらは、かずかずの艱難と誘惑との洪水のなかにあっても、熱烈な望みの枝にしっかりとつかまっているので、害を受けることがない (1)
 このように照らされた霊魂にとって、すべてが喜びである。この霊魂は、わたしのしもべたちも、他のいかなる理性的被造物も裁くことがない。かれらがどんな状態にあるのをみても、どのようにわたしに奉仕していても、喜ぶ。そして「永遠の『父』よ、あなたの家に多くの部屋があるのを感謝します」(2) と言うのである。わたしのしもべたちが、このように多様な道をたどるのを見ると、同じ道をたどっているのを見るよりも、大きな喜びを味わう。なぜなら、この多様性は、わたしの「いつくしみ」の偉大さを、もっとよく示すからである。このように、あらゆるものが喜びの種子であり、それから “ばら” の芳香を嗅ぎ取る。わたしが「あらゆるもの」と言うときは、ただ善いものだけを指しているのではない。あきらかに罪であるとわかっているものも指している。しかし、そのようなときも、裁判官にはならない。むしろ、聖なるまことの同情を抱き、罪人のためにわたしに祈る。そして、完全な謙遜によって、「今日、あなたは悪に捉えられている。もしも、神の恩寵がわたしを守って下さらないならば、明日はわたしが捉えられるであろう」と言うにちがいない。
 ああ、いとしいむすめよ、この心地よく、卓越した状態に、愛着してほしい。この光栄ある光明に照らされている人々が、駆けて行く姿を眺めてほしい。かれらがどんなにすぐれているか、かれらの霊魂がどんなに聖であるか、かれらがその聖なる望みの食卓でどのように食べているか、かれらが、永遠の「父」である「わたし」の誉れのために、霊魂のこの食べものを、どんなに貪欲に食べているか、この婚宴で、どんなに、わたしの「ひとり子」、優しい「子羊」の衣裳をまとい、その教えに照らされ、その仁愛に燃えさかっているかを、眺めてほしい。
 この人々は、わたしのしもべたち、あるいは、世のしもべたちに、誤った裁きを下して、時間を浪費することがない。自分自身に対し、あるいは、他の人々に対して放たれる非難によって、つまずくことがない。自分自身に対する非難は、これによって、わたしの名のために苦しむのを喜ぶ。他人に対する非難は、これを隣人に対する同情の機会となし、これを放つ人に対しても、これを受ける人に対しても、非難がましいことを避ける。それというのも、かれらの愛は、永遠の「神」である「わたし」のなかで、規正されていて、決して乱れることがないからである。
 いとしいむすめよ、かれらの愛はこのように規正されているので、かれらが愛する人々についても、他のいかなる理性的被造物についても、つまずくことがない。かれらの判断は死んでいる。生きていない。それで、かれらは、人々の意志を批判して、ひまをつぶすことがない。かれらにとって、わたしの「寛仁」の意志を見るだけで十分である。
 この人々は、あなたが知っている教えを守っている。この教えとは、あなたの生涯のはじめに、大きな望みにかられて、完全な純潔とこれに達する手段とを、わたしの「真理」にたずねたとき、与えられた教えである。そのときの答えを、おぼえていると思う。あなたは、この聖なる望みの上に眠っていた。すると、おぼえていると思うが、ひとつの声があなたの精神にだけではなく、あなたの耳にもひびきわたって、肉体の意識を取り戻させた。わたしの「真理」は語った。
 「あなたは、完全な純潔に達し、あらゆるつまずきから救われ、なにものも、あなたの精神にとって過失の機会にならないことを望むのか。それならば、愛の情念によって、いつもわたしに一致するがよい。なぜなら、わたしは至高かつ永遠の『純潔』であり、霊魂を純潔にする『火』だからである。それゆえ、霊魂は、『わたし』に近づけば近づくほど、純潔になり、わたしから遠ざかれば遠ざかるほど汚れる。世俗的な人々が罪を犯すのは、わたしから離れているからである。しかし、仲介によらないで、わたしと一致する霊魂は、わたしの『純潔』を分かつ。
 「この一致とこの純潔とに達するために、なすべきことが一つある。それは、人間の意志を裁かないことである。どんな行為あるいは言葉であっても、どんな被造物のものであっても、あなたに対するものであっても、他人に対するものであっても。わたしの意志を、かれらのなかにも、あなたのなかにも、見なければならない。
 「もしも、明白な過失あるいは罪を目の前にするならば、ばらの花をとげから取り出すがよい。すなわち、聖なる同情によって、これを『わたし』にささげるがよい。あなたが侮辱されるときは、わたしの意志が、あなたとわたしの他のしもべたちとの善徳を試すためにこれを許すのだと判断するがよい。この侮辱をあなたに加える人は、わたしが選んだ道具であって、その意向はしばしば善良であると思うがよい。なぜなら、だれも人の心の秘密を裁く権利がないからである。
 「明白な大罪と見えないものについては、あなたの精神のなかでこれを裁いてはならない。その場合も、このように行動する人々に対するわたしの意志を見、これを裁きの機会としないで、すでに話したように、聖なる同情の機会となすがよい。そうするならば、あなたは完全な純潔に達するであろう。なぜなら、あなたの精神は、わたしについても、隣人についても、つまずくことはないからである。ところが、あなたがたが隣人に対する侮蔑におちいり、あなたがたに対するその悪意を裁き、かれのなかにわたしの意志を見ようとしないときは、そうではない。この侮蔑、このつまずきは、霊魂をわたしから遠ざけるし、完徳に達することをさまたげる。ある者は、そのため、多少とも恩寵を失う。それは、かれらが個人的裁きによって隣人に対して抱いた憤激と憎しみとの重さに比例する。
 「すでに話したように、わたしの意志によって判断する霊魂は、これと反対である。わたしの意志は、あなたがたの善しか望まない。この意志が許すすべてのこと、あなたがたに与えるすべてのものは、わたしがあなたがたを創造した目的にみちびくためであって、他意はない。霊魂は、いつも隣人に対する愛を守るならば、いつもわたしに対する愛にとどまる。そして、わたしの愛にとどまることによって、わたしとの一致を保つ。
 「それゆえ、もしもあなたが、念願の純潔に達したいと思うならば、つぎの三つの規則を守ることが絶対に必要である。すなわち、愛の情念によって『わたし』と一致し、『わたし』から受けた恩恵を記憶にとどめること、知性の目によって、あなたを名状することができないほど愛するわたしの『仁愛』の情愛を観想すること、そして、人間の意志のなかに、その悪意を見ないで、わたしの意志を見ること、これである。審判者はあなたがたではなく、『わたし』である。この方法によって、あなたは完徳に達するであろう」。おぼえていると思うが、わたしの「真理」があなたに与えた教えは、以上のとおりである。
 いとしいむすめよ、この教えを実行する者は、この世から、永遠の生命の前味わいをおこなうのである。あなたがこれを精神のなかに保持するならば、悪魔のわなにおちいることはないであろう。なぜなら、あなたがわたしにたずねたしるしによって、これを認識することができるに違いないからである。しかしながら、あなたの望みを満足させるために、はっきり言いたいのは、あなたがたは、宣告によってではなく、聖なる同情によって、裁かなければならない、ということである。

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