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10.光明と分別

第101章

このきわめて完全な第三の光明に照らされる者は、この世から、永遠の生命の保証を受けることについて。

 わたしは、どうして、かれらは永遠の生命の手付け (3) を授かると言ったのであろうか。わたしは手付けと言って、代償とは言わない。かれらは、この代償を、恒久的「生命」である「わたし」のなかで受けたいと、期待している。そこでは、死ぬことのない生命、倦怠のない満足、苦しみのない飢えが与えられる。飢えにはなんの苦しみもない。なぜなら、望むものを所有するからである。満足には倦怠がない。なぜなら、わたしはなんの不足もない生命のかてだからである。
 しかし、すでにこの世から、永遠の生命の手付けを授かり、これを味わうというのは真実である。なぜなら、霊魂は永遠の神であるわたしの誉れと霊魂の救いという食物とに飢えているからであり、これに飢えているから、これを食べるからである。たしかに、霊魂は、隣人に対する仁愛を食べ、望みによってこれに飢えている。これこそ、その食物である。しかし、この食物に飽かされることがなく、いつもこれに飢えている。手付けは安心のはじまりであって、完全な代償を期待させるために、人間に与えられるものである。この手付けは、それ自体、完全な保証ではない。しかし、信仰のある者は、その完成に到達し、完全な代償を受けるという確信を抱いている。わたしの「真理」に対する愛に燃え、これをまとった霊魂は、自分自身のなかに、すでにこの世から、わたしの仁愛と隣人の仁愛との手付けを受けとっている。この霊魂自身はまだ完全ではない。しかし、不滅の生命の完成を待っている。
 わたしは、この手付けは完全ではない、と言った。そのわけは、仁愛を味わう霊魂は、まだ、自分においても他人においても、なんの苦しみも感じないほどの完全性を所有していないからである。自分自身においては、その肢体のなかにある邪悪な律法によって、精神に反抗するとき、わたしに対して加える侮辱のゆえに、苦しむ。他人においては、隣人の加える侮辱のゆえに、苦しむ。この霊魂は、恩寵においてはきわめて完全である。しかし、この完全性は、すでに話したように、恒久的「生命」であるわたしと一致しているわたしの聖者たちの所有する完全性ではない。聖者たちの望みは苦しみをともなわないけれども、あなたがたの望みには苦しみがまじっている。また、別のところで話したように、わたしのしもべたちは、この聖なる望みの食卓で食べるとき、幸福であると同時に、嘆き悲しんでいる。それは、わたしの「ひとり子」が、至聖なる十字架の木の上で、霊魂は神性との一致によって至福であったけれども、肉は痛み苦しんでいたのと同じである。わたしのしもべたちも、聖なる望みによって「わたし」と一致し、わたしの心地よい意志をまとっているので至福である。しかし、かれらも、隣人に対する同情によって、そしてまた、自分の官能を快楽と感覚的慰めとから解放するためにこれに加える苦業によって、苦しんでいる。

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