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10.光明と分別

第106章

霊的示現と慰めとが神よりのものか悪魔よりのものかを識別するしるしについて。

 これから、ある霊魂が示現またはその他の慰めの形で受ける訪れが、わたしからのものであるか、いなかを見分けさせるために、わたしが霊魂に与えるしるしに関し、あなたがたずねたことについて、説明したい。わたしの訪れであるというしるしは、訪れのあとに残る喜びであり、そしてまた、善徳に対する飢え、とくに神的仁愛の熱情と結びついたまことの謙遜の徳に対する飢えである。
 しかし、あなたは、この喜びのなかに、なんらかのあやまりがまじる恐れはないかについてたずね、もしもそうだとしたら、もっとも安全な道、すなわち、まちがいのない善徳のしるしに、頼りたいという望みを表明した。それで、これから、まじる恐れのあるあやまり、喜びがまことのものであるかいなかを識別させるあやまり、について話したい。
 ところで、つぎのようなあやまりにおちいることがある。これについて、つぎのことを知ってほしい。ある善を愛し、あるいは望んでいる理性的被造物は、これを所有するやいなや、喜びを感じる。そして、所有したこの善を愛すれば愛するほど、それが見えなくなるし、これを慎重に認識するよう努力しなくなる。この慰めから受けるたのしみにおぼれているのである。愛するものを所有している喜びのために、これを見つめる余裕がないし、これを識別する気にもならない。それゆえ、霊的慰めをたのしみ愛している者は、示現を求めるし、わたしよりも慰めのたのしみに愛着する。また不完全な状態にいる人々について説明したとき話したように、与え主である「わたし」から受ける慰めのたまものを、これを与える「仁愛」の情愛よりも注視する。
 この人々は、喜びのなかであやまりにおちいるし、別のところで話したように、その他の多くの危険におちいる。どのようにおちいるであろうか。それについて話したい。すでに述べたように、この人々は、慰めに対する大きな愛を抱き、慰めあるいは示現を受けると、それがどこから与えられたものであっても、愛していたもの、所有したいと望んでいたものを所有したという喜びを感じる。この慰めは、しばしば悪魔から来るものであるが、それでも喜びを感じることにかわりはない。事実、すでに話したように、悪魔が霊魂を訪れるときは、まず喜びによってその存在を感じさせる。ところが、そののち、霊魂を悲哀に沈め、良心の苛責を残し、善徳に対する望みを奪う。
 付け加えたいのは、ときどき、この喜びが継続し、霊魂は、祈りを終えても、これを感じることがあるということである。もしも、この喜びが、善徳に対する熱烈な望みをともなわず、謙遜の油にぬれておらず、わたしの神的な仁愛のかまどの中で燃えさかっていないならば、この慰め、この訪れ、この示現は、喜びのしるしは感じられても、悪魔からのものであって、「わたし」からのものではない。すでに話したように、この喜びは善徳に対する愛と一つになっていないのであるから、利己的な内心の慰めに対する愛から生まれたものであると、はっきり断定することができる。霊魂がいま随喜しているのは、望んでいたものを所有していると思うからである。なぜなら、なにごとによらず、愛するものを所有するやいなや喜ぶのは、愛の条件だからである。
 それゆえ、あなたは、喜びを感じるからと言って、それだけで、これを信頼してはならない。たとい、この喜びが、慰めの続くあいだ、あるいはそののちまで続いたとしても。この喜びで無知になった霊魂は、悪魔のわなを見破ることができないであろう。そのためには、賢明の徳が提供する他のしるしに頼らなければならない。もしも、賢明に対処するならば、この喜びが善徳に対する愛をともなっているかいなかがわかるであろう。このようにして、この霊的訪れが、「わたし」よりのものであるかいなかを、見分けることができるであろう。
 喜びがわたしの訪れによるものであるならば、善徳と結びついている。これが、わたしがあなたに示した識別のしるしである。実際、それは、わなが仕掛けられているかいなか、内心に感じる喜びがまことにわたしから与えられたものであるか、それとも、霊的自愛心、すなわち、利己的な慰めに対する愛と情念とによるものであるかを証明するしるしである。もしも、喜びが善徳に対する愛と結びついているならば、わたしから与えられたものであり、喜びだけしか感じさせないならば、悪魔から与えられたものである。もしも、霊魂が以前よりも善徳に進歩していないと認めざるをえないならば、すでに話したように、この喜びは、霊的慰めに対する利己的な愛によるものと判定すべきである。
 あなたに知ってほしいのは、みながこの喜びによってだまされるわけではないということである。だまされるのは、たのしみと慰めとを求め、たまものの与え主よりも、たまものを重視する不完全な人々にすぎない。純粋に、自分の利得を考えないで、「わたし」に対する愛の熱情だけによって、たまものではなく、たまものの与え主を注視し、たまものは、利己的慰めのためではなく、これを与える「わたし」のために愛する者は、この喜びにだまされることはない。
 それゆえ、悪魔が、往々にして、光明の天使に化けて、かれらをだまそうと試み、かれらの精神を訪れて、突然大きな喜びをもたらすときは、以上述べたたしかなしるしによって、これをすみやかに見破ることができる。かれらは、霊的慰めに対する愛に熱中していないので、賢明にわなを見破る。喜びが去るやいなや、暗黒におそわれる。そのようなときは、自分自身のまことの認識のなかで謙遜し、すべての慰めを断念し、わたしの「真理」の教えを抱きしめ、これに愛着する。悪魔はすっかり恥じ入って、このような形で戻って来ることは決してない。あってもまれである。
 利己的な慰めを愛する人々は、しばしば、悪魔の来訪を受けるであろう。しかし、すでに話した方法で、そのわなを見破ることもできるであろう。すなわち、喜びが善徳をともなわないこと、この訪れののちに、謙遜とまことの仁愛、永遠の神であるわたしの誉れと霊魂の救いとに対する飢えが、残らないこと、によって、わなを見破ることができるであろう。
 以上がわたしの「いつくしみ」の業である。わたしは、完全な者も、不完全な者も、どんな状態にある者も、みな守るために、このように配慮したのである。あなたがたは、わたしが至聖なる「信仰」の瞳とともに与えた知性の光明を保ちたいと思うならば、すべてのわなを見破ることができるであろう。どうか、この光明を悪魔によって暗くさせられたり、あなたがたの自愛心によっておおいかくしたりしないように、心がけてほしい。なぜなら、あなたがたさえ、失うのを欲しないならば、だれもこれを奪い去ることができないからである。

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