下線、太字、色文字などによる強調は管理人

アリス・フォン・ヒルデブラント博士とのインタビュー

Latin Mass Magazine 2001年夏号

次に掲げるアリス・フォン・ヒルデブラント博士との対話は、この問題──教会の危機とその解決のための処方箋──の核心についての我々の議論に展望を与えるものである。フォン・ヒルデブラント博士──ハンター・カレッジ(ニューヨーク市の市立大学)の名誉哲学教授──は、彼女の夫デイトリッヒの伝記 The Soul of a Lion を上梓したばかりである。

TLM: ドクター・フォン・ヒルデブラント、あなたは、教皇ヨハネ二十三世が第二バチカン公会議を召集した時、教会内部における改革の必要性を認めておられましたか?

AVH: そのことについての私の理解は大部分私の主人から来ているのですが、彼ならそのような質問には常に「教会員は原罪及び現行罪の影響のもとにあるから常に改革の必要のうちにある」という答え方をしたことでしょう。しかしながら、教会の教えは神から来たものです。1イオタ(極小)でさえ変えられるべきではありませんし、また改革の必要のうちにあると考えられるべきでもありません。

TLM: 現在の危機に関して、あなたが最初に「これは何かがひどく間違っている」と感じたのはいつのことでしたか?

AVH: それは1965年の2月のことでした。私はその時フィレンツェでサバティカル(長期休暇)を過ごしていました。主人はある神学誌を読んでいましたが、突然、彼が叫び出す声がしたのです。私は、彼の心臓病が急に彼を苦しめているのではないかと思って、彼のところに飛んで行きました。私は彼に大丈夫かと訊きました。彼は私に、さきほどまで読んでいた記事が彼に「教会に悪魔が入った」との確かな洞察を与えたのだ、と言いました。思い出して下さい、彼は、ヒトラーとナチスに対して最初に公然と反対の声をあげたことで有名なドイツ人です。彼の洞察には常に先見の明がありました。

TLM: その事がある以前に、あなたの御主人は教会についての怖れを表明したことがありましたか?

AVH: 主人の伝記 The Soul of a Lion の中でも書いたことですが、彼は、1920年代にカトリックに改宗してから二、三年後に、ミュンヘン大学で教え始めました。ミュンヘンはカトリックの都市でした。当時、ほとんどのカトリック信者がミサに行っていましたが、しかし彼はいつも、カトリック教徒達の中から超自然に対する感覚がなくなったことに自分が気づいたのはそこでだった、と言っていました。特にある一つの出来事が、そのことについての十分な確信を彼に与えたようで、彼はずいぶんと悲しんでいました。

主人は、ドアを通ろうとする時、自分の生徒になっていた司祭達を常に優先させていました。ある日、彼の同僚(カトリック信者)の一人が、それについての驚きと不賛成を表明しました。「何故、君は自分の生徒に先を譲るのかね。」主人は、「彼らが司祭だからさ」と答えました。「しかし、彼らは博士号を持っていないだろう。」主人は深い悲しみを感じました。博士号を評価することは自然的な反応です。しかし、聖職の崇高さに対して畏怖を感じるということは超自然的な反応です。その教授の態度は、超自然に対する彼の感覚が蝕まれていたということを証明するものでした。この出来事は、第二バチカン公会議よりずっと前のことです。しかし公会議までは、トリエント典礼の美と神聖さがこのような現象を覆い隠していたのでした。

TLM: あなたの御主人は、超自然に対する感覚の低下はその頃から始まったと見ていましたか? そしてもしそうならば、彼はそのことをどのように説明していましたか?

AVH: いいえ、彼は、ピオ10世教皇様がモダニズムの異端を非難なさった後その推進者達は地下にもぐったのだ、と考えていました。彼は、その時から彼らはずっと微妙で実際的なアプローチをとるようになったのだ、と言っていました。彼らは、救済の歴史の全てにわたって存在する偉大なる超自然からの干渉を疑問視してみせるという単純な方法によって、疑いをバラ撒きました。それはたとえば、処女懐胎について、聖母の永遠の処女性について、同様に、主の御復活について、聖なる御聖体について、といった具合にです。彼らは、信仰──その基礎──が一度ぐらついてしまえば、典礼も教会の道徳に関する教えもそれに続くだろう、と知っていたのです。主人はその著書の一つに「荒らされた葡萄園」という題名を付けました。第二バチカン公会議後、教会はまるで竜巻に襲われたようになりました。

モダニズムはそれ自体、ルネサンスとプロテスタントの反乱の惨状から出た果実です。そしてそれは長い歴史のプロセスを経ながら展開されて来たものです。もしあなたが、中世の典型的なカトリック信者に、誰か一人のヒーローを、あるいはヒロインを指名して下さいと頼むようなことがあれば、その人は聖人の名をもってその質問に答えることでしょう。ルネサンスはそのようなことを繰り返し行い始めたのです。人々は、聖人の名をあげる代わりに倣うべき人としていわゆる天才を思うようになったでしょう。産業時代が近づけば、偉大な科学者の名をもってその質問に答えるようになったでしょう。そして今日では、スポーツ選手や映画スターの名をもって、ということになるのかも知れません。別の言い方をすれば、超自然に対する感覚の喪失が価値観の逆転をもたらしたということです。

異教徒のプラトンでさえ、超自然に対する感覚に対して開かれた態度を持っていました。彼は、人間性の中にしばしばハッキリと見て取れる弱さ、もろさ、そして臆病などについて語っています。彼は一人の批評家に、何故人間に対してそのように低い評価しか与えていないのか、その理由を説明して欲しい、と頼まれました。彼は、自分は決して人間を貶めているのではなく、ただ人間を神と比較しているのだ、と答えました。

超自然に対する感覚の喪失に伴って、今日では、犠牲の必要に対する感覚も失われています。人は、神に近づけば近づくほど、ますます罪深さに対して鋭敏になる筈です。そして今日のように、神から遠ざかれば遠ざかるほど、ますます新時代の哲学に耳を傾けるようになります。「私はOK、あなたもOK」というようなものにです。この、犠牲に向かおうとする傾向の喪失は、教会の救いの使命を曖昧なものにしています。十字架が軽視される場所では、私達における償いの必要もほとんど顧みられることがありません。

犠牲と償いに対するこのような嫌悪は、教会の世俗化を教会の内側から助けています。私達はもうずいぶんと長い間、司祭達から、また司教達から、教会がそれ自身を世界に適応させる必要について聞かされて来ました。しかし、聖ピオ十世のような偉大な教皇達は、それとは全く反対のことを言ったのです。世界がそれ自身を教会に適応させなければならない、と。

TLM: 今日の午後中を使った私達の対話から、私は、あなたは超自然に対する感覚のこのような加速度的な喪失を、歴史の中の一つのアクシデントのようなものだとは考えておられないのだ、と結論しなければなりません。

AVH: そうです、私はそんなふうには考えません。近年、イタリアで、私の主人がしばらくの間疑いを持ち続けていた事に確証を与える書物が、二冊刊行されました。つまりそれは、今世紀の広い範囲において、悪魔的な敵達による教会への組織的な潜入があったという事です。主人はとても楽天的な人で、根は楽観的な方でした。しかし彼の最期の10年間においては、私は幾度となく、彼が非常に深い悲しみの中に身を置いているのを見ました。彼はしばしば「彼らはキリストの聖なる花嫁を冒涜した」と繰り返していました。そして、預言者ダニエルの言った「荒廃をもたらす憎むべきもの」という言葉を引き合いに出していました。

TLM: これはいわば一つの批評的な告白ですが、フォン・ヒルデブラント博士。あなたの御主人は教皇ピオ十二世から20世紀の教会博士とまで呼ばれていた人です。もし、その彼がそれほどまでに強く感じていたなら、彼は、自分の怖れを教皇パウロ六世に伝えるべく、バチカンにアクセスしていた筈ではないでしょうか?

AVH: いえ、彼はそうしたのですよ! 私は、公会議が終わろうとする正に直前に持たれた、パウロ六世とのプライベートな謁見を決して忘れることができません。それは1965年の6月21日のことでした。私の主人が激しくなっている異端に対して非難声明を出して下さるようにと彼に嘆願し始めるや否や、教皇様は「書きなさい、書きなさい」と言って主人を遮りました。少し経って、主人は再び事の重大さに教皇様の注意を引きました。しかし、答えは同じでした。教皇様は立ったまま私達に応対されました。教皇様が非常に不快に感じておられることは明らかでした。謁見はたったの数分間で終わりました。教皇様は直ぐさま彼の秘書であるカポヴィッラ神父にサインを送り、私達にロザリオとメダルを持って来させました。それから私達はフィレンツェに戻り、そこで主人は、公会議の最後の会期が始まる正に前日にパウロ六世に配達されることになった一通の長い書翰(現在未公開)を書きました。1965年の9月のことでした。教皇様は主人のその文章を読んだ後、主人の甥であるディーテル・ザトラー(彼は当時、駐教皇庁のドイツ大使を務めていました)に、自分はその文章を注意深く読んだが、しかし “少し厳し過ぎる” と思う、と言ったのでした。その意味は明らかでした。私の主人は、謙遜にではありましたが、数々の異端的言説に対して明確な有罪宣告を下して下さるようにと求めたからです。

TLM: 博士、あなたは、あなたが教会潜入に関するそのような考えを述べるや否や苛立ちで目をギョロつかせ、「もう陰謀論は沢山だ!」と言う人達がいることを、もちろんご存知でしょう。

AVH: 私はただ自分が知っていることをお話できるだけです。これは公にされた記録に関することですが、たとえば、教会に再転向した元共産主義者である ベラ・ドッド は、共産党が複数の神学校にその工作員達を計画的に潜入させたということを公然と語りました。彼女は、主人と私に、彼女が活動的な党員だった時にバチカン内で “私達のために働く” 四人もの枢機卿達と協力関係にあった、と言ったのです。

私は、今迄何度も、アメリカ人がヨーロッパ人について「彼らはどこに行こうと陰謀の匂いがする」と言うのを聞きました。しかし、悪魔は初めから教会に対して「たくらんで」いるものなのです。そして特に、ミサを破壊すること、そして御聖体の中のキリストの「まことの現存」に対する信仰を蝕むことに照準を合わせているのです。幾らかの人達が否定できない事実について誇張したくなる傾向を持つからといって、その事実自体を否定してよい理由にはなりません。他方、私、ヨーロッパ生まれの人間である私としては、多くのアメリカ人は単純である、と言いたくなります。平和に恵まれてきた国に住み、歴史についてほとんど知らない彼らは、ヨーロッパ人(その歴史は騒然としたものでした)よりも幻想の餌食になり易いと思います。ルソーはアメリカに極めて大きな影響を及ぼしました。キリストが最後の晩餐の時に彼の使徒達に「このうちの一人が私を裏切る」と言った時、使徒達は茫然としました。ユダは、誰も彼を疑わないほど巧みに立ちふるまいました。というのは、ずる賢い陰謀者というものは、どのようにして自分の足あとを見かけの正しさによって覆い隠すか、ということを知っているものだからです。

TLM: このインタビューの前の方であなたが言及したイタリアの司祭によって書かれた本は、教会潜入の証拠となるような文書を含んでいますか?

AVH: 私が言及した二冊の本は、ブレーシア司教区のイタリア人司祭ドン・ルイジ・ヴィラ神父が書いたもので、それぞれ1998年と2000年に刊行されました。彼はパードレ・ピオの依頼により、フリーメイソンと共産主義の両方によってされている可能性のある教会潜入についての調査に、その生涯の多年をつぎ込みました。主人と私は60年代にドン・ヴィラに会いました。彼は、自分は立証できないようなことは何一つ書いてない、と言いました。「Paulo Sesto Beato?(パウロ六世は列福されるか?)」(1998年)が刊行された時、その本はイタリアの全司教に送られました。しかし、彼らのうちの誰一人として、それを受け取ったことを認めませんでした。そして、誰も、ドン・ヴィラの主張に疑問を提出しませんでした。

その本の中で彼は、教会当局者は一人として彼に反論しなかった、また、主張を取り下げるよう要求もしなかった、たとえ彼が事件に関係するものとして特定の個人名をあげてさえ、そうしなかった、ということを書いています。このことは、教皇ピオ十二世とその下で当時国務副長官を務めていたモンティーニ司教(のちのパウロ六世)との間にあった亀裂と関係しています。ピオ十二世は共産主義の脅威を意識しており(当時共産主義は、第二次世界大戦の余波の中、ヨーロッパの半分近くを支配していました)、ヴァチカンの職員にモスクワと関わることを禁じていました。しかし、彼が狼狽したことには、ある日アップサラ(スウェーデン)の司教を通して、彼の厳しい命令が破られていたことを知ったのです。彼は、モンティーニがソビエトの様々な機関と通信していたという論争の余地のない証拠を与えられるまで、その噂に信頼を置くことに抵抗しました。そして彼は他方、(ピオ十一世と同様に)鉄のカーテンの内側にいるカトリック教徒達を慰めるために、ソビエト内に密かに司祭達を送っていました。その司祭達の全てが、組織的に逮捕され、拷問され、そして処刑されるか強制収容所に送られるかしました。結局、バチカンには “ほくろ” があることが発覚しました。アリゲイロ・トンディ(イエズス会)はモンティーニの親しいアドバイザーでしたが、しかし彼は、ソビエトに司祭を送ることなどの方針について常にモスクワに知らせることを任務とした、スターリンのために働く工作員だったのです。

ミンゼンティ枢機卿に対してパウロ教皇が取った扱いについての話を付け加えさせて下さい。ミンゼンティは、彼自身の意志に反して、ブタペストから離れるようにとバチカンから命じられました。ほとんど全ての人が知っているように、彼は共産主義者達の手から逃れ、アメリカ大使館の構内に避難しようとしました [1] 。教皇様は彼に、彼は生きている限りハンガリーの主席司教であり続ける、という厳粛な約束を与えました。枢機卿が──彼はそれまでに共産主義者達から拷問を受けていましたが──ローマに到着した時、パウロ六世は彼を温かく抱擁し、そして亡命させるために彼をウィーンに送りました。しかしその後間もなくこの聖なる高位聖職者は、自分が降格され、ハンガリー共産政府にとってより容認できる誰かと置き換えられたということを知ったのでした。更にもっと不可解であり、また悲惨なほど悲しいのは、ミンゼンティが帰天した時、教会の代表が誰一人として彼の埋葬式に参列しなかったということです。

教会潜入に関してドン・ヴィラが提出しているもう一つの事例は、ガニョン枢機卿が彼に打ち明けたものです。パウロ六世はガニョンに、強力な敵によるあり得る教会潜入に関する調査において陣頭指揮を取るように、との要請を受けました。ガニョン枢機卿(当時大司教)はこの愉快ではない仕事を引き受け、気がかりな事実を多量に含む長い調査報告書を作成しました。仕事を終えた時、彼はその原稿を教皇に個人的に手渡すため、パウロ教皇様との謁見を要望しました。しかしそれは拒否されました。その代わりに教皇は、その書類は聖職者省のオフィスの中に置かれなければならない、そして特に二重のロック付きの金庫の中に収められなければならない、との言葉を送ってきました。その通りにされました。しかし、正にその翌日までに、その貸金庫は壊され、その原稿は不思議なことに消えてしまったのです。この種の事件に対するバチカンの通常の方針は、それが決して外部に漏れないようにするということです。しかしそれにも拘らず、この窃盗事件はオッセルヴァトーレ・ロマーノによってすら報道されました(おそらく、この事件が世俗の報道によって公表されてしまったので、やむなくそうしたのでしょう)。ガニョン枢機卿はもちろん原稿のコピーを持っていました。そして再び教皇様との個人的な謁見を申し込みました。しかしまたもや彼の要望は拒絶されたのです。それから彼はローマを去り、自分の母国カナダに帰る決心をしました。後に彼はヨハネ・パウロ二世によってローマに戻され、枢機卿の地位に上げられました。

TLM: 何故、ドン・ヴィラは、批判の対象としてパウロ六世一人を選んで、それらの著作を書いたのでしょうか?

AVH: 彼は、初めその本を出版することには乗り気でなかったのです。しかし、何人かの司教達がパウロ六世の列福のことを持ち出したと知った時、彼は、彼が何年もかけて集めたそれらの情報を印刷に回すことが一つの明白な要請のうちにあると認めたのでした。そうすることによって彼はローマ聖庁の指針に従ったのです。それは信者にこう教えています。列福候補が満たさねばならない資格(資質)に関して、当該候補に不利に働く可能性のあるどのような情報であれ、教会員はそれを聖座に報告する義務を有する、と。

パウロ六世の揺れ動く教皇職、そして彼の人を混乱させるシグナル。たとえば、「教会に入ったサタンの煙」と口にしたが、しかしそれでも異端を公的に非難することは拒否したこと。フマネ・ヴィテ(彼の教皇職の栄光)を発布したが、それに不可謬権を付けることを注意深く避けたこと。1968年にサンピエトロ広場で神の民のクレドを発行したが、またもやそれを全カトリック信者の義務として宣言することをしなかったこと。モスクワと接触を持つなというピオ十二世の厳命に背いたこと。自らがミンゼンティ枢機卿に与えた厳粛な約束を反古にして、ハンガリー共産政府と宥和したこと。聖なる人スリピ枢機卿に対する彼の扱い。この枢機卿は17年間も強制労働収容所で過ごしたが、結局ただパウロ六世によってバチカン内における実質的な囚人とされるに終わったこと。そして最後に、ガニョン大司教にバチカンへの敵の潜入について調査を行なうようにと要請したが、しかし結局、彼の調査が終わった時、彼を拒絶し、彼との謁見を拒否することに終わったこと。これらのことを考える時、これら全てが、パウロ六世の列福に対して力強く反対の声をあげています。ローマでは「Paolo Sesto, Mesto(悲しい人、パウロ六世)」とあだ名されているほどです。

その重苦しい情報を発表しなければならないという義務は骨の折れることで、ドン・ヴィラに多大の悲しみを負わせただろうことは疑いの余地がありません。どんなカトリック信者でも、限りのない尊敬で教皇を見上げることができれば、それは嬉しいことです。しかしカトリック信者はまた、キリストは私達に完全なリーダーを与えるとは約束なさらなかったが、地獄の門は勝利しないと約束なさったことを知っています。たとえ教会が幾らかの非常に悪い教皇を持つことがあったとしても、また幾らかの平凡な教皇を持つことがあったとしても、それでも教会は多くの偉大な教皇達の存在によって祝福されて来たのだ、ということを忘れないようにしなければなりません。彼らのうちの80人が聖者の列に加えられ、また幾人かが列福されました。これは世俗の世界には類のないサクセス・ストーリーです。

神だけがパウロ六世の裁判官です。しかし、彼の教皇職が非常に混乱した悲劇的なものであったことは否定できません。彼のもと、その15年間のうちに、それ以前の全ての世紀における変化を合計したものより多くの変化が、教会の中に導入されました。気になるのは、私達はベラ・ドッドのような元共産主義者達の証言を聞いており、フリーメイソンの文書(それは19世紀にまで遡るもので、通常、ポール・ロッカのような堕落し切った司祭によって書かれました)のこともよく知っており、また相当の範囲にわたって彼らのアジェンダが実行されたのだと理解することもできる、ということです。第二バチカン公会議後の司祭と修道女達の還俗、非難されもしない異説の神学者達、フェミニズム、司祭の独身制を廃止せよと圧力をかけられるローマ、聖職者の不道徳、冒涜的な典礼(First Things の2001月3月の特集「教皇政治の未来」の中のデイヴィッド・ハートの文章を読んで下さい)、聖なる典礼の中に持ち込まれたラディカルな変化(ラッツィンガー枢機卿の著書 Milestones -- Ignatius Press -- の126〜148頁を読んで下さい)、そして紛らわしいエキュメニズム。盲目の人だけが、敵の計画の多くが完全なまでに実行されたことを否定することができます。

人は、ヒトラーがしたことによって世界がショックを受けたということを忘れる筈がないでしょう。しかしながら実は、私の主人のような人達は、ヒトラーが「わが闘争」の中で言っていることを読むのです。計画がそこに書かれているからです。しかし、世界はただそれを信じないことの方を選びました。

しかし、たとえ状況は深刻だとしても、献身的なカトリック教徒の誰一人として、キリストが正に世の終わりまで彼の教会と共にあると約束なさったことを忘れてはなりません。私達は、福音書にある、使徒達のボートが激しい嵐に見舞われた場面について黙想しなければなりません。キリストは眠っていました! 彼のおびえた弟子達が彼を起こしました。彼は一語を発しました。すると湖は大凪になりました。「ああ、信仰の薄い者達!」

TLM: エキュメニズムについてあなたがおっしゃった言葉から、私は、あなたは「改宗(conversion)」よりも「収束(convergence)」を大事にしているような現在の方針には不同意であると見ましたが。

AVH: 私の主人を悲しませた一つの出来事について話させて下さい。それは1946年、戦争直後のことでした。私の主人はフォーダム大学で教えていました。彼の授業の一つに、戦争中に海軍士官だった一人のユダヤ人青年が生徒として入って来ました。彼はたまたま主人に、彼が太平洋で見たまったく茫然とするほど美しい日没のこと、そしてそれを見たことがどのように彼を神についての真理探究の道にいざなったかを話しました。彼は初め哲学を学ぶためにコロンビア大学に行っていました。しかし彼はそこで、自分が探しているのはこれではない、と気づきました。一人の友人が彼に、フォーダムで哲学を学んみてはどうかと提案し、デイトリッヒ・フォン・ヒルデブラントの名をあげました。そして、主人のたった一つの授業を受けただけで、彼は、自分が探しているものを見つけた、と知ったのでした。ある日、授業が終わった後で、主人とその生徒は一緒に散歩をしました。その時、彼は主人にこう語ったのです。何人かの教授達は、彼がユダヤ人と知るや、自分はあなたをカトリックに改宗させようとはしないから、と保証したので、彼はビックリした、と。主人はショックを受け、立ち止まり、彼に向きなおって、「彼らが何と言ったって?!」と訊きました。それでその生徒は物語を繰り返しましたが、そこで主人は彼に、「私なら、君をカトリックにするために地の果てまで歩くだろう」と言ったのです。長い物語を縮めて言いますが、その青年は結局カトリックに改宗し、カルトジオ修道会の司祭として叙階され、アメリカで唯一のカルトジオ会修道院(ヴァーモント州)で働き続けたのでした。

TLM: あなたはハンター・カレッジで長年教えておられましたね。

AVH: そうです。そこでは何人かの私の生徒がカトリックになりました。ああ、もし時間があれば、美しい改宗の物語を話せるのですが・・・真理にひとまとめにさらわれた若い人達の話を!

しかし私は、一つのポイントを非常にハッキリとさせなければなりません。私の生徒達を改宗させたのは私ではないということです。私達ができる最大のことは、神の道具となるために祈るということです。道具となるために、私達は毎日、そしてどのような状況であれ、福音を生きるよう努めなければなりません。神の恩寵だけが、私達に、そのようにしたいという望みと、そのようにする能力を与えます。

私が伝統主義的カトリック信者のことで怖れていることの一つを申し上げます。それは、ある人達は狂信的に戯れているということです。狂信者とは、真理というものを神からの贈り物と考えるのではなく、自分の私的所有物であるかのように考える人のことです。しかし私達は真理の召使いであって、しかもそれを人々と分かち合おうとしなければならない召使いなのです。

私は、信仰と真理をあたかもそれらが自分の知的玩具でもあるかのようなかたちで使用する (use)「狂信的」なカトリック教徒達がいることをとても心配しています。しかし、真理の本物の充当 (appropriation) は、人を常に成聖への努力へと向かわせるものです。信仰は、今日のこの危機的状況の中にあって、知的なチェスゲームではありません。成聖への努力をしない人にとっては、それが誰であろうとも、これからも物事は常にそれだけであることでしょう。そのような人達は、もしそれが伝統的ミサの支持者であるならば特に、信仰により多くの危害を加えるのです。

TLM: では、あなたは、今日の危機的状況の解決のための唯一の処方箋を、清浄さへの努力を新たにすることとお考えなのですね?

AVH: 私達は、自分達が血と肉のみを相手に戦っているのではなく、「権威の霊と支配の霊」とも戦っているのだということを忘れてはなりません。そして、このことが私達から十分な怖れを引き出し、私達に今迄以上に成聖に向けての努力をさせ、また、キリストの聖なる花嫁(それは正に今、カルワリオにいます)がこの恐ろしい危機から脱し、今迄以上に遥かに輝きを増すことを求めて熱烈に祈るようにさせるようでなければなりません。

カトリックの解答は常に一つです。教会の聖なる教えに対する絶対の忠誠、聖座への忠実、秘跡を頻繁に受けること、ロザリオ、日々の霊的読書、そして、今迄私達が神の啓示の充満を与えられて来たことへの感謝などです。「Gaudete, iterum dico vobis, Gaudete.(喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい)」

TLM: 私は、一つの使い古されたデマに対するあなたの反応をお聞きするまでは、このインタビューを終えることができません。古来からのラテン・ミサを批判する人達の中に、教会の危機はミサが世界中で捧げられるようになった時から始まったのだ、と主張する人達がいます。では、私達はどのように、リバイバルが問題の解決のために固有のものであると考えることができるのでしょうか?

AVH: 悪魔は古来からのミサを憎んでいます。彼は、それが教会の全ての教えの最も完全な再公式化 (reformulation)であるが故に憎んでいます。ミサに関するこの洞察を私に与えたのは主人です。現在の危機を生じせしめたのはトリエント・ミサではありません。問題とされるべきは、それ(トリエント・ミサ)を捧げる司祭達が超自然と超越者に対する感覚を既に失っていたということです。彼らは祈りを早く片付けようとし、口の中でもぐもぐ言い、明瞭に唱えませんでした [2] 。それは、彼らがミサの中に彼らの増大する世俗主義を持ち込んでいたことのしるしでした。古来からのミサは不敬を許すものではありません。それで、それ〔古来からのミサ〕が去った時、とても多くの司祭達は嬉しいような気がしたのです。

TLM: フォン・ヒルデブラント博士、あなたとお話させて頂く時間と機会を与えて下さったことに感謝します。

管理人注

[1]

「しようとした」ばかりでなく、実際にそうしたようです。

当時の新聞記事の写真
捕まっているのではなく護衛されています。

参照

[2]

誤解はされないだろうとは思いますが、念のため。
アリス博士の意図している「明瞭さ」とは、「会衆に聞こえる程度の大きな声」(今の御ミサでのような)を意味するものではありません。

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system