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ブルネット大司教様への訴状(聖体拝領の際の跪きについて)

2003年8月1日
エルフ・E・パーク(Erven E. Park)
2003年7月3日
聖トマ使徒の祝日
アレックス・ブルネット大司教様
910 マリオン通り
シアトル市 ワシントン州 98104
ローマ(聖座)の「あなたの信者達に跪かせてください」に関して
拝啓
私達の神、主イエズスにおいて、そして特に私達のためにこの上なく神聖なる御聖体の中にまします主のまことの現存に対する感謝において、あなた様に御挨拶申し上げます。主のまことの現存の御前では、私達は次のように命じられます:「天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、みな膝をかがめなければならない」(ピリピ人への手紙2:10)
閣下。あなた様の時間を乱すこと、またどんな形であれあなた様のオフィスの重荷を増すことは、私達の望むところではありません。私達は、あなた様が「余暇」の間にある種の問題や不平の類のもので煩わされることを好まないということを、あなた様の個人的な書き物からよく存じ上げています。しかしながら、閣下、私達はあなた様に、もっぱらにあなた様の裁定およびその支配の下に属する、信仰およびモラルに関した重大で特別の問題が存在している、と申し上げます。
私達は、あなた様の良心的な信者達の多くがこの時代の司教職の多くを妨げる巨大な官僚機構の存在に気づくに至ったということを知ることが、あなた様御自身にとっても啓発的なものであることを祈ります。「カトリック住所録 ─ シアトル大司教区」をひもとくと、私達はそこに、私達の州と連邦政府の住所録にリストされている社会事業のものと全く変わるところのない部門リストを見ます──記念碑的に巨大な規模の官僚機構。
それほど遠くない過去においては、司教のオフィスは重大な問題に対処する際に常に迅速でオープンなものでしたが、今日の信者達は、自分達の羊飼いが無数のオフィス、委員会、当局、司教区等々によって隔てられ、自分達から遠く離れたところにいるということに気づきます。更に、私達が教会の重要文書の中から情報を収集する時、それらがしばしば曖昧であり、あるいは矛盾してさえいると分かります。またもっと嘆かわしいことには、合法的な質問に対して、それを承認することや、あるいはそれに応答することさえも妨害する(議事妨害)、軽蔑されるべき人々がいます。私達は、これらの多くが全くあなたの好むところでないと確信しています。
しかし、逆境の時にしばしば真実であるように、この損なわれたコミュニケーション環境に直面する際にも若干の利益が確認されました。即ち、私達のアメリカの教会で進行している大変動を非常に不快に感じ、しばしば矛盾に悩まされ心配している敬虔で忠実なカトリック信者達は、真実に基づいた答えの共通の探究に向けて、一緒に歩き始めました。良い羊飼いであることについてのあなた様の発表された約束において、私達は、あなた様がこのような種類のどんな価値ある努力にでも賞賛をお与え下さり歓迎して下さると確信します。真実とは、教皇庁があなた様に「教えるように」と命じていることであり、そして、一生懸命にこの「真実」を捜しているあなた様の信者のみが、あなた様の羊小屋を補うことができるのです。
有り難いことに──あるいはこれはむしろ神の摂理なのかも知れませんが──教会のこのような混乱の時代にあって、私達は、自分達がテクノロジーが多くの即時のコミュニケーションと全世界的な情報の共有を可能にした「情報化時代」にあることに気がつきます。非常に有能な在世の組織は、全てのバチカンの公式な最新の指示と例えば典礼問題などについての解説とを照合する、例外的に有益なウェブサイトをまとめました。 幸運にも、教皇庁はこの媒体に参加する際に最前線にあり、彼らの権威の下にある各聖省が信者達からの合法的な質問に対して敏感に対応することを奨励しました。それにより、例えば典礼上の問題において、ローマの典礼秘跡省が私達自身の(あなた様御自身の)監督組織よりもコミュニケーションと[事実の]返答において遥かに迅速に反応するということを発見することは、何と意外なことでしょう。私達は、あなた様の司祭達が完全にこれに気づいているようにされるべきであるということを、慈善の提案の精神で、閣下に御指摘申し上げます。率直に言って、さもなければ、典礼問題のような問題に関して虚偽あるいは曖昧さを与える努力──たとえそれが不作為なものであっても──は、相当の混乱の問題として、全く直ぐにその部署に戻って来るでしょう。私達の以下に掲げるコピーは、この現実が現在発生させている影響の事例を挙げるでしょう。私達は、議論を典礼上の一つの事柄にだけに絞ります。即ち、跪きの問題です。
しかし、話を更に進める前に、私達は一つの重要な注釈を付したいと思います。ローマの正統信仰に捧げられた個人と組織によって行われた情報の検索は、アメリカ司教協議会の典礼委員会(BCL)が、ローマとの一致と調和に関わる彼らの司教達に良くない仕え方をして来た、という確信を与えました。典礼委員会には、教会の典礼教義に全く明らかに反しているイデオロギーを受け入れている活動家達がおり、彼らの陰謀は実に破壊的な通行料金を人々に課しました。
それは、彼らの年二回開かれるセントルイスでの会合の、先日の数日間(6月18〜21日)に開かれた会合で、ある特定のグループと司教協議会に存在するメンタリティーから発散されたある種の陰謀に関して、閣下、あなた様御自身がテレビで多くの欲求不満を表明なされた時に、彼らが持ったであろう関心と満足なしには語られることはありません。
跪き! 今や私達が、それがミサの中で適切な行為であることを説明することが重大な必要事になってしまったのを見出す言葉。しかし、跪くことはオプションの中にあって実にオプション以上のものです。それは御聖体に直接関係する事柄であり、また御聖体との関係の持ち方として正しいものです。御聖体(全能の神)の御前におけるそのふるまい、あるいはそのふるまいの欠如は、主のまことの現存についての、その人の信仰の存在の、あるいは信仰の欠如の、公的な指標です。これに関しては疑いようもありません。
私達は、ある典礼学者が次のように言ったのを聞きました:「立っていることは尊敬を意味し、そして崇敬さえ意味するものであることが、理解される筈です。つまり、私達はキリストの現存としての福音書に対して、立っているではありませんか。またキリストの代理者としての司祭に対する尊敬において、立っているではありませんか。これらのこととどこに違いがあるというのですか?」答えは明らかです。福音書や聖職を授けられた司祭などは、神がそれらに存在を与えまたそれを維持するという事実によって二次的な存在であり、神の現存を特定の形態によって所有しているいわば神の特使です。確かにそのような意味合いにおいては、彼らは敬意と尊敬に値します。しかし彼らは、御聖体の中の神御自身の固有の存在──御体、御血、聖霊、そして神性──としての神の人そのものではありません。
神の人は、単なる尊敬と敬意より以上のものを要求します。結局、そのような厳格さと儀礼が、価値ある人類にしばしば求められます。神が私達各自に捜すところの犠牲、そして神に正当なふさわしい犠牲は、つまるところ私達自身の自由意志です。主に対して私達の意志が自由に選び取る服従。これは、御苦しみの中で主イエズスが天の御父に対して祈りを──跪いて──捧げた時、次のように叫んだことによって完全に例証されます:「私の父よ、できれば、このさかずきを、私から取り去ってください。しかし私の思うままではなく、み旨のままに!」(マタイ26:39)
この圧倒的な現実は、一語で言われます:服従! 跪くこと(あるいは平伏すること)崇拝と同様に服従の姿勢であり、そして、それはそれ故、御聖体の中の神の御前での人と天使の正しい姿勢です。私達は、私達のいわゆる典礼学者達が、ちょうどそれは御主人様に対する奴隷のふるまいを反映するものだと言って、跪くことを嘲笑うのを聞きます。彼らはそのようにして美徳であるところのものを嘲笑し、そして同時に彼らの創造主に対する彼らの服従を捨てるのです。このようは人達はカトリック教徒では「ない」のです! 神を畏れない人達は神を知りませんし、そしておそらく神を知らない人達は「信仰」を持つことができません! 彼らは偽りを言う者達です!
このようなことは心の当り前の真理であるにもかかわらず、それでは何故、信者達はこの30年にわたって、この崇拝と服従の姿勢に対する継続的で断固とした攻撃を経験しなければならなかったのでしょうか? このことの起源は何なのでしょう? 新しい情報テクノロジーは現在この答えを提供しており、暴露されていることは明らかに不穏なものです。指は第二バチカン公会議以降の時代の多くの指標を指し示すことができるけれども、歴然たる事実は、アメリカの教会がアメリカ司教協議会とそれが産み育てたある種の反体制的な組織の掌中でほとんど排他的に扱われている有り様を指し示しています。閣下、これは単なる意見ではありません。それは、公的な記録が示していることです。
跪きのことを考えてみて下さい。第二バチカン公会議の教えも、ローマ教皇の教えも、またはローマのどの聖省の教えも、これまで、ミサの中で跪きがどのような理由であれ抑制されるべきであるとは特記しませんでしたし、示唆すらしませんでした。しかし、起こっている事はそれと正反対のことなのです(これについては後でもっと詳しく書きます)。アメリカの教会の信者達は確かに跪きの抑制を求めませんでした。まったく、神に対して跪くことを否定することは、全ての好ましい天性(自然法)に反したことです。しかし、どうなったでしょう? ミサの新規範(ノヴス・オルド・ミサ ─ 1969)と共に、アメリカ司教協議会は、任意に、聖体拝領のために立つことを取り入れました。そして聖職者達の支持によって、すぐに聖体拝領のために立つことは当り前になります。
これに引き続き、聖体拝領台の密かな撤去が起き、そしてこの行進は、跪く人達を特定の教会から皆追い出すという明らかな教会法違反にさえ至るまで続いています。これらの濫用の何も、カトリック教会によって要求さたものではありません。これらの異常の全ては、信者のカトリック的感性に問う協議が全くないままに、アメリカ司教団によって任意に採用されました。私達はここでは、これらの違反の根源となった運動を調べようとは思いません。しかし、この絵の中にはプロテスタンティズムのイデオロギーが非常に大きく浮かび上がっている、と申し上げておきます。
私達の証として、畏れつつ全能の神に嘆願しながら、私達は今、私達の牧者たる閣下に対する謙った嘆願の核心部分に至ります。それは即ち、聖体拝領のための跪きのことです。
信者達が、最初の無頓着からやがての全くの狼狽に至るまで感情の変動を経験しながら跪くことの抑制に対して何の発言権もない間、彼らのほとんどは、この強制された変化は聖座から任されたものであって単にアメリカの司教団による強制であるわけではない、と信じるように導かれました。この虚偽はアメリカの典礼編集に関わる組織の多くの文書の中に記録されています。
新しい情報テクノロジーによって、信者達がこれらの事柄における彼ら自身の権利に関して、誤った情報を与えられ、誤った導き方をされていたことが、今や明らかにされています。ローマは御聖体に対する跪きを抑制することに賛成ではありません。彼らがそれに反対していることは全く明らかです! 彼らは、この高潔な実行を保持することを望む人々に励ましと支持を与えます。
このことは、アメリカの司教団の「アメリカでは立つことが聖体拝領の際の “規準” である」という申請が条件付きで認められたという事実があるとしても、同じことです。それは、「もし人々が跪いての聖体拝領を望んだ場合、その姿勢によって彼らの聖体拝領が拒否されることはない」という条件が満たされる時のみ、アメリカの規準がその存在を許される、ということだからです。更に、「まったくもって、信者は、聖体拝領の為に跪いたからといって、不従順であるとか不法な行動を取ったとかいう非難を負わせられるべきではありません」
典礼委員会の秘密グループの過去の行いについての私達の仮定に基づいて言えば、聖体拝領の際の跪きを保持することを支持しようとする聖座の抑え切れない感情がアメリカの司教様達──おそらくあなた様をも含めて──の目から隠されて来たということは、驚くに値しません。
この不運な現実を考慮して、私達は、聖体拝領の際の跪きの問題に関して、ローマの典礼秘跡省がアメリカの受取人達に送ったごく最近の書簡の幾つかのコピーを添付します。このうちの一通はアメリカの司教に宛てられたものであり、別の二通は、この問題に悩まされている信者達に送られたものです。これらの公的な「指示書」の文言は──私は、これは閣下にも御同意頂けると確信しますが──教会の通常教導権を構成するものです。
手早い参照のために、私達はここに、それらの手紙からの若干の関係する抜粋を提供します。初めは、アメリカの司教宛のものです。
典礼秘跡省
プロトコル・ナンバー 1322/02/L
ローマ 2002年7月1日
拝啓。
当典礼秘跡省は最近、貴方の司教区の信徒達から、跪くことでなしに立った状態でなければ聖体拝領を拒否される旨の報告を受け取りました。その報告では、そのような方針が教区民に告げられたとしています。当聖省は、閣下が問題のより信頼できる決定を下す立場にあることを確信します。そして、いずれにしてもこの不満は、このような形で知らされる必要のあるかも知れないどんな司祭に対しても、貴方が貴方の立場を表明することを要求すると共に、当省に、この問題に対処する時のいつもの方法について伝達する機会を与えるものです。
当省は、実際、ここ数ヶ月の間に、様々な場所から受け取った多くの類似した不満に関わっています。そして当省は、彼または彼女が跪いているからといって、信者に対して聖体拝領を拒否するどんな拒絶でも、キリスト教徒──すなわち聖体祭儀において彼らの司牧者達に助けられるべき彼ら──の最も基本的な権利のうちの一つに対する重大な侵害であると考えています。法の「聖務者は、適宜に秘跡を求める者に対し、その者がふさわしく準備しており、かつ法律上秘跡の受領を禁じられている者でないならば、それを拒んではならない」(教会法第843条第一節)という条文によって、罪の状態、または公的に表明され断言された頑なな異端や分裂に起因して他の信者に重大なスキャンダルの危険を提示することがある場合を除いては、聖体拝領に来ているどんな信者に対しても、そのような拒絶があってはなりません。当省が、「ローマ・ミサ典礼書の総則」の第160条第二段落によって、司教協議会に対し許可された適応に従って、聖体拝領のための姿勢として立っていることを規定した規則を認めた地域であっても、跪くことを選ぶ信者が聖体拝領を拒否されないという条件の下に、当省はそれを認可したのです。
実際、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は最近、聖体拝領の時に跪く習慣は、それが支持された数世紀の伝統を持つものであり、それは崇拝の特に表現力豊かな表現であり、私達の神であるイエズス・キリストの、真理であり、現実であり、そして実体的な存在の光のもとで、奉献された人類にあっては完全にふさわしいことである、と強調しています。
事柄の重要性を鑑みて、当省は閣下が特に、その司祭が上述の状況において信者達に対して聖体拝領を拒絶する定期的な習慣を持っていたかどうかを調査することを要請します。そしてもし不満の存在が確かめられたら、貴方はまた、将来このような行いがないように、そのような行いをしたかも知れない彼またその他の司祭達を、しっかりと指導しなければなりません。司祭達は、当省が今後もこの種の不満については大きな真剣さを持って注目していると思わなければなりません。また、もしそのような不満が確認されたら、聖職者による虐待の重みに応じた懲戒処分を検討するつもりであるということも知っていなければなりません。
この問題についての貴方の注意に感謝し、その配慮の中における貴方のご親切なご協力に期待しつつ。
敬具。
枢機卿ジョージ・A.メディナ・エステベス
長官
フランシスコ・ピオ・タンバリーノ
大司教秘書
典礼秘跡省
プロトコル・ナンバー 1322/02/L
ローマ 2002年7月1日
拝啓
ある教会で、跪く人々への聖体拝領を否定する方針が発表された件に関しての貴方の御書簡を、当典礼省は感謝して受け取りました。
しかしながら、貴方がこの件について、教皇庁に話しかけることの正しさと有益性について、幾つかの保留を表明なさっていることが、心配されます。
教会法の第212条第二段落は、「キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必要、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由を有する」と言っています。また更に続けて、第三段落において、「キリスト信者は、各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権利及び時として義務を有する」と言っています。・・・従って、この問題の性質と、そしてこの問題がローカルレベルで解決されるかどうかという可能性に鑑みて、全信者は、個人的に、あるいはローマ教皇庁の省庁や裁判所を通して、ローマの司教に頼る権利を持ちます。
その他の信者の基本的な権利は、教会法第213条に書かれているように、「牧者から教会の霊的な善益援助、特に神のことばと秘跡による援助を受ける権利」です。法の「聖務者は、適宜に秘跡を求める者に対し、その者がふさわしく準備しており、かつ法律上秘跡の受領を禁じられている者でないならば、それを拒んではならない」(教会法第843条第一段落)という観点から、罪の状態、または公的に表明され断言された頑なな異端や分裂に起因して他の信者に重大なスキャンダルの危険をもたらすことがある場合を除いては、聖体拝領に来ているどんな信者に対しても、そのような拒絶があってはなりません。当省が聖体拝領のための姿勢として立っていることを規定した規則を認めた地域であっても、「ローマ・ミサ典礼書の総則」の第160条第二段落によって、司教協議会に対し許可された適応に従って、跪くことを選ぶ信者が聖体拝領を拒否されないという条件の下に、当省はそれを認可したのです。
どうか当省がこの問題を非常に真剣に受け止めており、必要とされる配慮を常に払っていることをご承知おき下さい。また、当省は、今後貴方が再び当省にコンタクトする必要をお感じになった時には、いつでも支援を差し上げる用意があります。
お心を向けて下さったことに感謝します。
祈りと共に。
キリストにあって。
マリオ・マリーニ神父
次長
典礼秘跡省
プロトコル・ナンバー 2390/02/L
2003年2月25日 ローマ
親愛なるMrs. XXXXXX
当典礼秘跡省は、御聖体を拝領するための姿勢に関する質問として、当省の追認と共にアメリカ合衆国の司教協議会によって承認された規定の適応に関しての2002年12月9日付けの貴方の書簡を受け取りました。
当の規定が法的効力を持つことを認可する権威を有するものとして、当聖省はその規定が適切な適応の目的で理解される方法を指定する権限があります。この問題に関してはアメリカ合衆国の異なる場所からかなり多くの手紙を受け取っており、当省は問題の位置づけを明確にすることを望んでいます。
結局、貴方の問い合わせに答える為には、当省が、その司教区からこの問題に関係する幾つかの書簡を受け取っているアメリカ合衆国のある司教に対して最近書き送った書簡の内容を繰り返すことが、おそらく有益でしょう。その書簡は言っています、「当省は貴方の国の司教協議会が求めた"人々が聖体拝領の際に立つこと"という規則に対して認可を与えはしましたが、その規則は聖体拝領の際に跪くことを選ぶ信者達が聖体拝領を拒否されないという条件のもとで認可されたものです。まったくもって、信者は、聖体拝領の為に跪いたからといって、不従順であるとか不法な行動を取ったとかいう非難を負わせられるべきではありません」と。
当聖省は、この引用が貴方のお手紙への十分な回答になっていることを願います。そして同時に、もし貴方が再び私達にコンタクトを取る必要を感じた時も、当省は引き続きお役に立とうとする用意があることを、どうか御確信下さい。
祈りと共に。
主キリストにおいて。
[署名]
マリオ・マリーニ神父
次長
上にあげた「指示書」の中で表示された聖座の断定的な証言は、ローマ教会によって支持された聖体拝領の際の跪きの優位性に関して、何の疑いも残しません。ローマ当局によって幾度も強調されているように、立つことは、アメリカの司教団に対して「条件付きで」与えられている姿勢です。
閣下。幾分不注意な司教達は、彼らの参照のために持つすべてが今アメリカ司教協議会によってアメリカの教会に向けて発行されようとしている新しいローマ・ミサ典礼書の総則(GIRM)のテキストだけならば、彼らはこれらの事柄の優先順位に関して完全な不注意に陥ることでしょう。その発行は、それをはっきりさせるより、論争を深めることに仕えるでしょう。典礼委員会の仕事の過去における事例がしばしばそうだったように、彼らの言い回しは、それが曖昧さと混乱を育てること以外には何もしないほどに不正確なのです。
ローマ・ミサ典礼書の総則の中で、ミサでの聖体拝領のための跪きに関して特に言及しているのは、第160項の第二段落です。そこにはこうあります:
「アメリカ合衆国の司教区では、聖体拝領の際の規定は、立つことです。拝領者は、彼らが跪くからといって聖体拝領を拒否されてはなりません。むしろこのような事例は、この規準の理由について信者に適当な教理口授を提供することによって、司牧的に申し出られなければなりません。」
最初の不正確さが、この指示において露呈します:「拒否されてはなりません。」これを正確に読めば、こうなります──「拒否できない」。正しい教えはあなたは拒否できないという命令であるからして、あなたはそれを拒否するような示唆の響きを与えても「ならない」!
精神にとって、少なくとも二つの深刻な不正確が、次の箇所にあります。
1)「むしろこのような事例(跪き)は、司牧的に申し出られなければなりません。」この声明の言い回しによって与えられる即座の印象は、跪いている当事者が何か間違ったことをしたのであり、そしてそれは司牧的な(?)方法で取り扱われなければならないということです。しかし跪いている当事者は間違いなど何一つ犯していません!
2)「むしろこのような事例は、この規準の理由について信者に適当な教理口授を提供することによって、司牧的に申し出られなければなりません。」この声明によって与えられる直接的な印象は、立ちながらの聖体拝領が跪いての聖体拝領よりも多くのメリットを有しているということを真理として確立している神学的正当性のある「教理口授」が存在している、ということです。しかしそれは虚偽です。ローマの聖省によって繰り返し支持されているように、そのような教理口授は存在していないし、聖体拝領の際の跪きは、立つことのそれより、明確な優位性を保持しています。
この点につき、閣下、私達は、床に落ちたカンナ屑が取り除かれて今やきれいになり、聖体拝領のために跪く信者達の権利に関わるこの事柄が、本来それが値する明るい光によって遇されることを、熱列に祈ります。さらに私達は、それらの信者達の権利を尊敬し支持することがあなた様のお望みである、ということ以外の何ものをも信じるどんな理由をも見出しません。
トーマス司教様があなたに断言するように、このスポークスマン(私)は、私自身の小教区で、司祭による聖体拝領の拒否と公衆の面前での屈辱を経験しました。これはあなた様が着任なさる前のことです。私は、私達の大司教区の中にいる跪いて御聖体を受けようとする際に司祭から個人的に脅かされている人々と接触を持っています。彼らは事実を証言し、記録しています。
他方、私達は、閣下、あなた様はこれに同意すると確信しますが──ミサを司式している聖職者(達)は、彼が敵対されているように、あるいは名誉を危うくされているように見えるような立場には置かれるべきではありません。司祭は、信者には聖体拝領の際に跪く否定できない権利があることを認めなければならず、そして司祭は、混乱や論争が決して起きないように、よく整理された権威あるやり方に熟達すべく準備するように、許され、励まされなければなりません。
私は、御ミサでキリストを迎える時、何としても跪きたいです。私達の仲間の多くも同じことを感じています。しかしながら、私自身と同じく彼らは、オープンでフラットな床の上で跪くことが彼らの望みにとっては不公平であるという若干の問題を引き起こす、年齢的な、あるいは身体的な状況に置かれています。しかしそうであっても彼らに跪きたいという真実の願望があるならば、それは無視されてはなりませんし、そして、それを可能にする工夫は確かに簡単に提供されることができます。
この書簡を閉じるにあたって、閣下、起こっていることの重大性について熟考する私にふりかかった個人的な戦慄を表明することをお許し下さい。私達が、御聖体拝領で主を受ける時、われらの主であり創造主であられる御方の前に跪くことができるように、カトリックの司教に嘆願しなければならないというこの事態は、なんとシュールなことでしょう! 主の偏在によって、主はあなたと私の前に、正にこの瞬間にも立っておられます。このような自然に反した状態をご覧になり、主の聖なるお顔は今、どんなものを表わしているでしょうか? 私には、それが恐ろしくて不吉なものだと思われます。そして私達が私達自身の上に当然のこととして運びつつある懲罰のことで、身がすくみます。どうか私達に、主に対して跪かせて下さい。私達は、あなたのために毎日祈ります。
聖マリアを通してキリストにあるすべてに。
Erven E. Park
Member - Spokesman
St. Catherine of Siena
Contemporary Catholic Conflicts Study Groups
813 NW Ohio St.
Chehalis, WA 98532
cc/ Francis Cardinal Arinze - Rome
Monsignor Mario Marini - Rome
Bishop George Thomas
Fr. Tuan Nguyen
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