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カナダの教会はどのようにして破壊から救われたか

1999年8月
Paul Likoudis
世界中の多くの場所──オーストラリアを含む──においてよく知られるようになった問題に関して自称専門家達は「カトリック教会の内部は “典礼問題に関する第二バチカン公会議の教えに一致した形に” 急進的に変えられなければならない」と布告しました。その結果、何百もの美しく歴史的な教会は1960年代の後期から、時にはオリバー・クロムウェルも喜ぶようなやり方で「修繕」されました。しかし実は第二バチカン公会議文書の中にはこのような急進的な変革──高祭壇、聖体拝領台、説教壇、告解室等々を取り除けというような──を求める要求は何も書かれていません。
それにも拘らず、以下のレポートが報告するように、そのような変革を押す動きは続きます。しかし一度だけは、少なくともしばらくの間、“リニューアル” の軍隊はその進軍を阻まれました。
無原罪の聖マリア教会
グェルフ(カナダ、ハミルトン教区)の歴史ある無原罪の聖マリア教会── 一般に「大聖堂」として知られる──の教区民達は、彼らの素晴らしい教会の荘厳な内部を変えようとする過激な計画を阻止する運動において形勢を持ち直しました。
リチャード・ボスコ神父──アメリカのニューヨーク州アルバニーの教区司祭──は、教会の大理石でできた聖体拝領台、告解室、高祭壇を取り外し、席の配置も再編成する急進的なプランを提案していましたが、教会の内部を破壊しようとする彼のプランのために既に6万ドルの支払いを受けていました。しかし結局──少なくとも当面の間は──教区民達は彼らの祖先達が巧みに作った素晴らしい環境の中で神を礼拝することを楽しむことになるでしょう。
1999年3月13日土曜日、教区司祭ジョン・ニューステッドは、ハミルトンの司教アンソニー・トノスとの協議の末、ボスコ神父の計画が教区民の圧倒的反対のために進まないであろうことを教区民に知らせました。
無原罪の聖マリア教会はケルンの聖三賢者大聖堂にならって作られた巨大なネオ・ゴシック様式のツイン・タワーの教会で、地元の採石場から切り出された石で世紀の変わり目に教区民達の手によって建造されました。
「基本的に起こったことは」──“修繕” を阻止する努力に活発であった教区民の一人は言います──「我々は自分達の宿題を果たしたが、ボスコ神父はそうしなかった。それで我々が勝利したということだ。我々は彼に訊いたのだ、『もしこの教会の何もかもが悪いのなら、どうしてこの30年間、誰も私達にそう言わなかったのですか?』と」。
教区民達がボスコ神父と聖マリアの教会に関する彼の計画によって経験したことは、他の多くの北アメリカの教会の経験を映します。
聖堂内部
1990年代の半ばに、グェルフの教区民達は、教会の雨漏りする屋根が大規模な修繕を必要とする状態に達しており、その修繕にはおよそ300万ドルかかる、と助言されました。
教区民達は事の重要性を理解し、基金を起して、多くの場所で献金を集め始めました。しかし基金の期間が完了する前に、ジョン・ニュースタッド神父から「内部を修復する」彼の計画を聞かされました。「私達は “修復” という言葉をそのままに受け取りました」と教区民は言います。「つまり傷んだり擦り切れたりしているものを直すことだと思っていたのです。」
「修繕」
そして昨年の5月に、ニュースタッド神父は教区民達に、聖マリア教会はアルバニーの司祭であるリチャード・ボスコ神父と契約を結んだ、と告げました。その神父が教会に入って来て、レクチャーをほどこし、この教会をどのように修繕するかについてアドバイスを与えるというのです。「それは私達が “この事の中では単にものを直して新しくするということ以上のものが進行している” ということを知った瞬間でした。ボスコ神父は私達に、第二バチカン公会議の精神に照らせば、祭壇と祭壇の周りの飾り立てた囲いは間違っていて、取り除かれなければならない、と言いました。聖体拝領台はそこにあってはなりませんでした。最近設置された障害者のためのエレベーターは間違った場所にありました。祭壇は、誰もそれから60フィート(約18メートル)以上離れることがないように、手前にずらさなければなりませんでした。洗礼盤と告解室も間違った場所にありました。」
高祭壇
「彼は、大きなちょうつがいの付いた重い木の扉さえ好きでありませんでした。彼は、それらが最も人を遠ざけるのだと言いました。ボスコ神父が知らなかったのは、これらの扉は私達にとってとても親しみのあるものだったということです。教区民の多くは、彼らの両親や祖父母が信仰のために虐げられた地域の出身でした。そして、それらの重い扉は、人々がそれらの内側に彼らの聖域を見つけることができたので、最も親しまれたものでした。しかしボスコ神父はそれらの扉を取り外したかったのです。」
ボスコ神父が関わった他の教区でもよくあることでしたが、教区民達は、ボスコ神父が雇われたということや、彼の仕事にかかるコストや、また彼自身がどれくらい支払われることになっているかなどについて、決して前もって知らされることはありませんでした。「私達は、いくつかの提案を聞くために会合に出席して下さいとシンプルな誘いを受けました」と教区民は言います。「私達は、修繕のプロセスは “オープン” に表示されるでしょう、と言われました。 “これはあなた方の教会です、私達は皆さんの意見が欲しいのです” とも。」
1998年5月に、ボスコ神父は彼の初のプレゼンテーションをして、それから一ヶ月後に、最新の案をかかえて戻って来ました。そして毎回、教区の1,500人のメンバーのうちのおよそ350人を相手に話しました。ほとんどの人にとってボスコ神父は、尊大で、生意気で、侮辱的に見えました。「人々はびっくりして、彼のプレゼンテーションにショックを受けました。彼の提案に対する疑惑は広範囲にわたりました。私達は、知らない人が私達の教会に入って来て、私達の教会のあらゆる点が悪いと言う、などということが信じられませんでした」と教区民は言います。
以上の二つの集会の結果、 動揺した教区民達は彼ら自身による会合を持ち始め、ボスコ神父の提案に反対するための委員会を作りました。そしてついに、リーダーシップを発揮した8人のメンバーと共に、「聖マリア教会内部環境 “保存” 委員会」を設立するに至りました。この新設された保存委員会は、多くの公開ミーティングを開き、そして間もなく、大多数の教区民がボスコ神父の計画に反対している事実が明かになりました。
あるミーティングでは、ボスコ神父の計画をやめさせるための嘆願書に、500名の署名を集めることができました。しかし、盛り上がる反対にもかかわらず「中央委員会」は、人々の反応に抵抗して、教会を台無しにする態勢に入りました。保存委員会は必死になって「中央委員会」とのミーティングを持つための努力をしましたが、繰り返しはねつけられました。
しかしついに保存委員会は、彼らの意見を示すために「中央委員会」の2人のメンバーに会うことができました。そしてその場で、その共同議長達に、保存主義者達の考えを中央委員会全体に伝えるための合同会議を開くよう要請しました。中央委員会のメンバー達は難色を示しましたが、保存主義者達は諦めませんでした。ついに3ヵ月後、中央委員会の共同議長達は折れて、保存主義者達がその見解を提示するのを許しました。
プログラムは打ち切られた
その合同会議では、「中央委員会」のメンバー達は石のような沈黙の内に座り、一度も口を開かず、承認の意も示しませんでした。それで会議は一旦中止になりました。時間が流れました。そして保存主義者達は、機会を改めて、後日また別の会議を開くことを求めました。
1998年のクリスマスの直前に、二回目の会議への要請は受理されました。そして開かれた会議の場で、保存主義者達は「ボスコ第二報告書」を与えられました。教区民達はそれまで何度も「決定はなされていない」と告げられていましたが、その文書には教会の承認された改革についての詳細な記述がありました。
「それで私達はクリスマスの期間を費やして、彼らに応ずるための5ページの要約を準備しました」と委員会のメンバーは言います。「私達は1月の初めにそれを提出しました。しかし、それに対するコメントは、今日まで、いかなるものも受け取っていません。」
「しかし、それは問題ではありません。その後、保存委員会は、教区全体の総会を召集しました。“中央委員会” も含めてです。そこで私達は、現在までの経過を概説しました。教区民達の反応は騒々しく、それは彼らがボスコ神父の改革案を望んでいないということをはっきりと示していました。」それで、その3月9日の総会の後、次の土曜日になって、教区民達はニュースタッド神父から、彼がこの問題について司教様と話し、「この対立を見れば、この計画は完全に打ち切られるほかはない」と結論したことを知らされたのでした。
このレポートは当初、カナダのカトリック雑誌『チャレンジ』に掲載された。
管理人
リチャード・ボスコ神父の著書
「神の家は私達の家──礼拝環境のリ・イメージング」
日本にもこれと似た発想のものがある。
うちの教会 うちのミサ
リチャード・ボスコ神父
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